音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.40

クラシックメールマガジン 2016年11月付

~楽譜の風景 ブルックナー/交響曲第8番 ~ スクロヴァチェフスキ指揮読売日響(2016)~

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団の演奏による、ブルックナーの交響曲第8番の最新盤(2016年1月21日 東京芸術劇場でのライヴ録音、COGQ-92)を聴いて、しみじみと思ったことがあります。
それは、この交響曲のスコアを前にした指揮者スクロヴァチェフスキの視界には、私が見ているのとは、まったく違う風景が広がっているのではないかということでした。
その演奏は、あまりにも私の胸を強く打つものでした。
今年93歳を迎えた老巨匠は、全体にゆったりとしたテンポをとり、聳え立つ音楽の偉容を、丁寧に、悠然たる足どりで明らかにしていく。ライヴ録音特有の熱気を孕みつつ、崇高とさえ言える境地へとひたすら高揚していくさまは感動的。
一方で、スクロヴァチェフスキの、醒めた知性と、強い意志の力によって、オーケストラを細部まで緻密にコントロールする流儀は健在で、ユニークな楽器間のバランスのとり方や、確信に満ちたテンポの変化など、つい楽譜を見たくなるような場面にも事欠かない。
オーケストラは、高度な技術と、精一杯の熱意をもって、スクロヴァチェフスキの要求を十全に具現化している。重心の低い分厚い響きは、ブルックナーの音楽にはうってつけで、特にトゥッティの充実しきった響きと、繊細さの中に豊かさを失わない静謐な弱音には、いつまでも浸っていたいと思う。各楽器のソロも惚れ惚れするほどに巧い。
しかし、私が心を奪われたのは、そうした音楽の表層の見事さばかりではありません。人間の創造行為の奥深くから生まれたような、おそろしく根源的な力の放射に触れ、すっかり魅せられてしまったのです。
これは一体何なのだろうかと呆然としてしまいました。私を激しく揺さぶった猛烈な力の正体を知りたいと思い、アマチュア・オケの一員として演奏して以来、久しぶりにこの交響曲のスコアを開き、そこに書かれたものと向き合ってみることにしました。
しかし、一アマチュア奏者に過ぎない私には、ブルックナーのスコアは、ただの図形、あるいは記号にしか見えません。のっぺりとした平面の上に、黒いインクで描かれたその図は、時にシンプルで、時に複雑怪奇に入り組んでいて、見ていて面白い。でも、それはただ二次元の画像として静止し沈黙しているだけ。私の頭の中で音が鳴り響くのですが、それは、私の聴体験の「記憶」が、呼び戻され、再生されたものにすぎない。私は、スコアを、そして、音楽を、ただ外から眺めているだけなのだと思い知り、途方に暮れてしまいました。
ふと、往年の名指揮者セルジュ・チェリビダッケの言葉を思い出しました。
作曲者が書き遺したドキュメント、すなわちスコアというものは、絶望的なほどに不完全な一片の紙切れに過ぎない。

( クラウス・ヴァイラー著、相澤啓一訳「評伝チェリビダッケ」 春秋社刊 )
続けて、チェリビダッケは、音楽家は、「作曲家はどうしてそんなふうに作曲したのか」という、恐らく作曲者自身にも分からないであろう答えを、常に探求していかなければならないと言っています。
私がスコアを見ても「何もわからない」と思うのと、チェリビダッケが「スコアは不完全な紙切れ」だと言うのとでは、意味合いがまったく異なるのは言うまでもありません。しかし、スコアに書かれた情報と、聴こえてくる音楽の膨大な情報との間には、質・量ともに圧倒的な乖離があるのは間違いありません。スコアの背後には「書かれていないもの」「見えないもの」がたくさんあって、音楽家の一番大切な作業とは、それらが何であるかを把握し、実際の音楽へと変換していくことなのだと痛感しました。
スクロヴァチェフスキも、チェリビダッケの言葉どおりのことを実践しているはずで、「絶望的に不完全な紙切れ」を前にした彼には、そこに書かれていないものが、はっきりと見えているに違いありません。彼は、天才的な閃きに満ちた音の選択に驚嘆し、天国のブルックナーに「あなたはどうしてこの音を書いたのか?」と問いかけながら(時に、「ここをこう変えてもいいですか?」と問いかけることもあるでしょうが)、神秘に満ちた創造のプロセスを、そのまま音として表現したいと激しく駆り立てられているのでしょう。
そのとき、スクロヴァチェフスキの脳内では、一体どんなイメージが広がっているのでしょうか。限られた情報から、何を読みとっているのでしょうか。どんな思考を出発点として、至純の音楽の核心へと到達したのでしょうか。
凡人が後づけで考えたものを、いくら積み重ねたところで、音楽の奥義を極めた名指揮者の、たった一瞥が孕む神秘を、理解することも、言葉で表現できるはずもないことは分かっています。
それでも、このブルックナーを聴いていると、スクロヴァチェフスキが楽譜を読んだ時に感じた驚き、喜び、心の動きがどんなものだったかを知りたい、実体験として体感してみたいという衝動が湧き起るのを抑えられないのです。きっと、そこには、私がかつて経験したことのないような、とてつもない強烈な法悦があるだろうことが、音楽から容易に感じとれるからです。
音符や記号が、もっと具体的な意味をもった形として浮かび上がり、何かを饒舌に語りかけてくる。楽譜の背後から、具体的なイメージが立体的に湧き起こり、楽譜を読み進めていくうちにそれらは刻々と変化し、動きを伴った映像となる。どこにも書かれておらず、目に見えないはずの言葉が、作曲家の声を伴って聴こえてくる。スクロヴァチェフスキは、そんな経験のうちに、ブルックナーの音楽を、「いま、ここ」で生成されるものとして、自己の内部で再創造しているのでしょう。
例えば、あの感動的な第4楽章のコーダの楽譜は、スクロヴァチェフスキの視界の中では、どんな風景として広がっていたのでしょうか。
第1楽章の第1主題が、金管楽器の咆哮とともに拡張されて回帰し、これまで積み上げてきたものが、脆くも崩れ去ってしまったかのようなカタストロフが訪れる。すべてが死に絶えたかのような静けさの中から、第4楽章のテーマのリズムが、徐々に力を取り戻しながら膨張を続け、ついにハ長調の輝かしいトゥッテイ(全奏)に到達する。
各楽章の主要な主題が次々に甦って同時に鳴り響き、一点の曇りもない、輝かしい肯定の音楽が、大伽藍の中で響き渡る。そこに至るまでに提示されたものが、弁証法的に止揚され、一つの結論へと到達するのではなく、それらすべてが、共存を許され、讃えられ、統合されていく。同じパターンが執拗に反復され、これ以上はもう不可能というくらいに音楽が高潮した時、オーケストラが高らかに全音階を奏で、破格なまでに巨大な交響曲は、完全な円環を閉じる。 楽譜を見ても、音を聴いても、激しく高揚せずにはいられない部分ですが、スクロヴァチェフスキと読響の印象的な演奏を聴くと、その源流、あるいは、最上流工程としてのスコアリーディングの段階で、指揮者の目に映っていたものが何なのかを知りたくなるのです。
もしかすると、スクロヴァチェフスキに「あなたにはブルックナーの楽譜はどんな風に見えますか?どんな風景が広がっているのですか?」と聞いても、「楽譜はただの図形にすぎない」という答えが返ってくるかもしれません。でも、彼が、楽譜の風景の中に、私の想像を遥かに超える、豊かで大きな「何か」を見て、感じているであろうことは、その豊饒な響きが証明しています。豊かな音楽は、豊かな想像からしか生まれ得ないからです。
もしも、バーチャルリアリティーがもっと進化して、楽譜を読んでいる時の音楽家の脳波を、他人の脳内でも再現できるようになれば、私も、創造の秘儀を、自分のものとして体験できるようになるのでしょうか。でも、そんな夢物語は、私が生きている間には実現しないでしょうし、実際のところ、もしもそんなものを追体験してしまったら、私はあまりの快楽の大きさに、失神してしまうことでしょう。だから今は、少しでもそこに近づけるのを夢見て、この音盤を繰り返し聴いていくしかないのですが、それもまた、とても幸せなことです。
ブルックナーの8番というと、作曲者の最高傑作との誉れ高く、昔から名盤の多い曲ですが、この演奏は、独自の風格と価値をもったものとして親しまれ、長く聴き継がれていくのではないかと思います。本欄を読んで興味を持って下さった方がいたなら、どうか、この豊かな「楽譜の風景」に触れ、愉悦と刺激に満ちた時間を過ごして下さるようにと願わずにいられません。
ところで、一つ付け加えておきたいことがあります
それは、曲の最後の和音が消えてからの「無音」部分についてです。
ライナーノートで平林直哉氏が書かれていますが、この演奏が収録された2016年1月21日の演奏会では、曲が終わった瞬間、間髪を入れずにブラボーの声が客席から発せられ、つられて拍手がパラパラと起こってしまったそうです。
しかし、本盤を聴けばお分かりの通り、件のブラボーと拍手は、ほぼ完全に消し去られていて、感銘深い演奏の余韻を、静けさの中で味わうことができます。
私の記憶では、コロムビアのクラシックのライヴ録音盤で、ブラボーや拍手がカットされているものは、あまりなかったように思います。今回の演奏会の場合は、録音スタッフが敢えてミュートせずにはいられないほど、酷いフライングブラボーがあった、ということなのでしょう。繰り返し聴くことを前提に音盤を購入する立場として、大いに歓迎すべき判断で、何よりも音楽を最優先させた、コロムビアのスタッフの決断に感謝します。
また、最後になってしまいますが、演奏会場の豊かな響きと、舞台の上気した空気をも捉えた鮮明な録音は、秀逸としか言いようがありません。コロムビアの誇る技術スタッフに、心からの拍手とブラボーを。ただし、フライングなしで。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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