音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.44

クラシックメールマガジン 2017年3月付

~無条件の音楽~「忘れな草/別れのワルツ~世界のワルツ集」ロベルト・シュトルツ指揮ベルリン響ほか~

ゆるんでいいんだよ、と声をかけられたような気がして振り返ると、そこには私の大好きな女優さんが大写しになった広告ポスターがありました。彼女のやわらかな笑顔に射抜かれ、歩みを止めて暫し見入ってしまいました。
今すぐそのポスターを剥がして持ち去りたいという暗い衝動が芽生えてハッと我に返った瞬間、傍らで私と同じようにポスターを見ている男性がいることに気がつきました。その顔はゆるみきってだらしなく、鏡を見てしまったような猛烈な恥ずかしさに襲われ、照れ笑いしながら慌ててその場を後にしました。
ロベルト・シュトルツ指揮ベルリン交響楽団のアルバム「忘れな草/別れのワルツ~世界のワルツ集」(COCO-70718)で聴くことのできる音楽も、あのポスターに似た作用を私に及ぼします。私という聴き手を完全にゆるませてしまう何ものかがあるのです。
1969年2月、シュトルツが89歳のときにベルリンで録音された、このオイロディスク原盤のアルバムは、サブタイトルにあるとおり、世界各国の3拍子の音楽を24曲集め、ワルツ仕立てに編曲、演奏したもの。うち6曲で、ハンガリー出身の往年の名コロラトゥーラ歌手シルヴィア・ゲスティが歌っています。
世界のワルツ集と謳っている割に、取り上げられている曲の出自は、欧米各国と、メキシコという具合に相当偏っています。なんと欧米ファースト的な選曲かと思わないでもありませんが、「グリーンスリーヴズ」のような古謡を別として、20世紀初頭から半ばくらいに世界じゅうでヒットした曲を集めようとすれば、こうならざるを得なかったのかもしれません。
ともかく、親しみやすく、人懐っこい旋律をもった曲たちが、軽妙洒脱なアレンジと熟達の演奏によって、美しいワルツとして新しい生命を得ているのが、このアルバムの最大のセールス・ポイントです。
アルバム1曲目の「ドリゴのセレナード」の冒頭、ゆったりとしたワルツのリズムに乗って、ヴァイオリンが人懐っこい旋律を歌いだすと、音のスイーツと呼びたくなるような甘美な音楽が、なめらかに耳にすべり込んできます。
そのサウンドはゴージャスの極みで、かつて一世を風靡したマントヴァーニ・オーケストラのように、弦楽器奏者の一人一人が微妙にタイミングをずらして音を出したり、2つのヴァイオリン群が左右に別れ、近い音域でからみ合いながら、めいっぱいカンタービレを聴かせたりするあたり、さしずめ、美音のトリクルダウンとでも言いたくなるような趣があります。
続く2曲目は、ゲスティの歌うシャンソン「聞かせてよ、愛の言葉を」。
ゲスティは、「愛している」と何度でも囁いてと願うシンプルなラヴ・ソングを、きれいな声で、崩さずに格調高く歌っていますが、同時に、あのポスターの女優さんのように私の心を一瞬にして武装解除させるような柔らかさがあって、愛おしい。聴いていると、他人に弱みを見せまいとして肩肘張って生きるのをやめ、今ここで跪いて自分の中にあるドロドロとしたものをすべて告解してしまいたくなるのですが、そこが、本質的にマゾな私にはたまらない。
シュトルツの編曲・演奏による伴奏は、簡潔にして清楚なオリジナルのリュシエンヌ・ボワイエ盤とはまったく異質の、ゴージャスな響きとリズムをもった純正ワルツ調のものですが、ゲスティの歌を紳士的にエスコートしながら、その目つきで女性の心を奪い去ってしまうようなダンディさが眩しい。
トラック4に収められた、クルティス作曲のカンツォーネ「忘れな草」は、それ以上に印象深い歌。
この曲の歌詞は、自分のもとを去って行った恋人に、「私を忘れないで」と別れの言葉を投げかける内容ですが、ゲスティの歌には、なぜか穏やかな幸福感が満ち溢れています。
あなたとはもう二度と会えないけれど、楽しかった二人の日々の思い出があるから私は生きていける、どうもありがとう、と、精一杯の笑顔をふりまきながら、去り行く人の背中に歌いかける、そんな趣の歌なのです。私の長年の愛聴盤であるパヴァロッティやヴンダーリッヒの名唱でも、この歌がそんなふうに聴こえたことは一度もなく、新鮮な体験でしたが、泣けてきそうないじらしさに胸を詰まらせていると、この曲のどこまでも晴れ渡った青空のような明るさが余計に心に沁みてきます。
シュトルツの決して大袈裟にはならない品の良いアレンジと演奏も美しく、このアルバムが、LP時代から現在まで一貫して「忘れな草」というタイトルになっているのは、この歌と演奏の魅力ゆえのことではないかとさえ思えてきます。
「聞かせてよ、愛の言葉を」「忘れな草」の2曲に限らず、ゲスティが歌うナンバーは、どれも絶品です。
「トゥルー・ラヴ」でのしなやかなカンタービレ、映画「白雪姫」の「いつかは王子さまが」の痺れるような高音と、融けてしまいそうな甘いポルタメント、そして、「チリビリビン」で披露ている華麗なコロラトゥーラなど、何度聴いてもほれぼれとしてしまいます。
彼女は、60年代後半、スイトナー指揮の「魔笛」(オイロディスク)の夜の女王や、ケンペ指揮の「ナクソス島のアリアドネ」(EMI)のツェルビネッダといった名演の誉れ高いディスクでの、コロラトゥーラの難役の歌唱で高い評価を受けた人ですが、残念ながら、今は忘れられた存在。これだけ魅力的な歌を歌う人なのに、とてももったいない。何かの機会に再評価されるべき名歌手なんじゃないでしょうか。
シュトルツ指揮ベルリン響の演奏は、どの曲でもふるいつきたくなるくらいに素晴らしい。
何よりも、「巧い」。アンサンブルや音程の精度とか、難しいパッセージを華麗に弾きこなす技術といった観点からの「巧さ」ではなく、聴き手の心を柔らかくほぐし、完全にリラックスさせてしまうところに名人芸とも言うべき「巧さ」がある。
作り手が、技巧を凝らし精魂込めて作り込んだ音楽は、時として聴き手に強い緊張を与えます。緊張は良い音楽を作る上で必要不可欠なものですが、聴き手の心身が過度の緊張で強ばってしまうと、いろいろなものを聴きこぼしてしまうリスクがあります。さりとて、緊張を解きすぎてしまうと、生まれてくる音楽は、はなはだ精彩を欠いたものになってしまう。
その点、シュトルツとベルリン響の面々は、聴き手に及ぼす緊張と緩和の「さじ加減」が、べらぼうに「巧い」のです。クラシックの流儀を守って格調高い音楽を作りつつ、同時に、聴き手には一切の緊張を与えず、親しみやすくてオープンな音楽を生み出すというその芸達者ぶりには、唸ってしまいます。
しかし、シュトルツの「忘れな草」で聴くことのできる、いわば「ゆるうま」的な音楽は、今はもう聴かれなくなってしまった類のもののように思えます。
しかし、そうした音楽の外に放射される強烈な魅力は十分認識しつつも、私は、彼らの演奏の内側で響いている「静寂の音」に強く惹かれています。
私たちの周囲には、「ゆるい」音楽、「うまい」音楽はそれぞれたくさんありますが、その両方の良いところを、こんなふうに塩梅良く兼ね備えた音楽というのは、ジャンルを問わずなかなか思い当たらない。頭に浮かぶのは、古い時代の音楽家の姿ばかり。
もしかすると、シュトルツがやっていたような音楽は、時代の流れの中で淘汰されてしまったのであって、作り手、聴き手からの需要が「ない」のかもしれません。シュトルツ指揮の音盤で入手可能なものは少なく、国内では辛うじてDENONからの2枚が出ているだけという状況なのも、そのことを象徴しているのでしょうか。
だとすれば、シュトルツの奏でる音楽の中には、私たちが失ってしまったものがあるということになる。それが一体何なのか、端的に言うならば「無条件の愛と信頼」なのではないかと私は思います。
この「忘れな草」を聴いていて私が最も惹かれるのは、演奏者たちの「ワルツは世界を救う」とでも言わんばかりの、音楽と、聴き手への愛が満ち溢れていることです。
もしかすると、この音楽家たちは、ワルツによって世界は一つにつながり、より良い世界へと向かって進歩できると、一人残らず、無条件に信じているのではないかと思ってしまうくらい、真に迫った思いが音楽から感じられるのです。
そして、作り手は、スピーカーの向こうには、耳を傾けてくれる無数の聴き手が必ずいて、自らが愛し、良いと思う音楽を、持てる技術とありったけの愛情を注ぎ込んで奏でさえすれば、思いは必ず伝わると信じている。聴き手は、音楽を無条件に受け容れ、作り手が込めた音楽と聴き手への思いを感じとり、無防備な状態で心ゆくまで浸りきる。「忘れな草」は、そんなふうに「無条件の愛と信頼」で作り手と聴き手が結び付けられるという、私たちからすれば夢物語のような幸福な図式が成立する、特異なアルバムであるように思えます。
いま、私たちは、「無条件」のものを見つけにくい世界を生きています。何重にもパスワードをかけ、完璧に認証することのできるはずの相手でさえも、完全には信頼しきれない状況で、姿の見えない架空の聴衆に、あるいは、どこで誰が作ったかもしれない音楽に、互いに無条件の信頼を置くことは難しい。ましてや、世界が何かで一つにつながれるなんて、とても信じられない。哀しいけれど、そして、良いことだとはまったく思えないけれど、それが厳然たる現実なのであって、もう昔に戻ることはできない。
でも、私は、だからと言って、こうした音楽が過去のものとして忘れ去られてしまうのは、とても惜しいことだと思います。
何事も、ものすごいスピードで絶えず変化し続け、極端から極端へとめまぐるしく動いていく社会の忙しさと慌ただしさに疲れきったとき、こうした幸せな音楽に触れることで、たとえ一瞬でも、この世界の片隅にはまだ「無条件」が成立するところがあると思えるからです。そのとき、かけがえのない大切な存在や、好きな音楽のことに思い至ることができれば、その世界の片隅がどこなのか、たしかな答えを見つけることができる。もしもそれが錯覚であったとしても、明るい希望をひとときでも見出すことは、決して無意味なことではない。この「忘れな草」は、私たちが、そんな大切な瞬間に出会うために存在するアルバムだと思うのです。
BGM的なポップスアルバムに何を大袈裟な、と言われてしまうかもしれませんが、私自身は、そう思わずにいられないほどに、この「忘れな草」を愛しています。
そして、私が見ているPCの画面の向こうにいる方たちの中に、シュトルツの音楽の素晴らしさに頷いて下さる方、「忘れな草」を一度聴いてみようと思って下さる方は、数は少なくても、きっとおられるはずと信じています。そう思っていなければ、ここでこうして文章を書き綴ることもないのですけれども。
ところで、この「忘れな草」というアルバムについて、インターネットで調べてみたところ、日本では1972年8月に「忘れなぐさ~想い出のワルツの調べ」というタイトルで発売(XS-146-K)されたLPが初出だという情報を見つけました。収録曲は12曲で、現在聴くことのできるCDは、LPに収録された曲の後ろに、さらに12曲が追加された形になっています。白馬の傍らでブロンド美女が佇むのをソフトフォーカスした、不思議な、でもいかにも70年代らしいジャケットが微笑を誘いますが、どれくらい売れたのでしょうか。
一方、海外ではどうだったかと調べてみると、ドイツで1975年に発売されたLP3枚組のアルバムが中古で出回っているのを見つけました。CDよりもさらに14曲多く収録されていて、その14曲のほとんどはオペレッタ・ナンバーで、シュトルツの代表作ともいえる” Im Prater blühn wieder die Bäume (プラーター公園は花盛り)”、“Zwei Herzen im Dreivierteltakt(ワルツを奏でる二つの心)”、あるいは、カールマンやオスカー・シュトラウスの曲もあり、ゲスティも歌っているようです。コロムビアかタワーレコードあたりが、いつか、このお宝アイテムを復刻してくれることを切に願います。
さて、春が、もうすぐそこまでやってきました。年度末で何かとお忙しい日々、時に音楽を聴いてゆるみながら、どうか健やかに日々を過ごされますよう。(故黒田恭一氏風に)
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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