音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.47

クラシックメールマガジン 2017年6月付

~雲の彼方の音楽 ~ シューベルト/ピアノ・ソナタ第13番 田部京子(P)~

とある週末の夕暮れ、普段は使わない駅で電車を降りてぶらりと散歩をしていたら、どこからともなくピアノの音が聴こえてきました。マーマレード色の夕焼け空に似合う、センチメンタルな趣の音楽に吸い寄せられるように歩いていくと、いつの間にか駅前の商店街に戻ってきたことに気づきました。
だんだん暗くなってきたし、そろそろ帰ろうかと、駅の方角から来る人たちの波に逆行して歩きながらピアノの音を聴いていると、その優しい響きに心が和らぐような思いがしました。普段はその手のBGMのサービスは大嫌いで、音楽なんて流さないでほしいと思うくらいなのに、不思議でした。
駅に着き、ホームで帰りの電車を待っていると、さっき通った商店街から微かにピアノの音が聴こえてきました。先ほどとは曲が変わっていて、聴き覚えのある音楽が耳に入ってきました。
シューベルトのピアノ・ソナタ第13番イ長調D.664の第1楽章でした。
まさかこんなところで、シューベルトのピアノ・ソナタを聴くことになるとは想像もしていなかったのでびっくりしましたが、好きな曲ですし、電車が来るまでの間、聴き入ってしまいました。ゆったりとしたテンポ、オクターヴの上行音型のゴツゴツした弾き方からすると、これはリヒテルの東京ライヴじゃないだろうか、などとぼんやり考えながら、夕暮れの駅前商店街に流れるBGMをじっと聴いているのなんてきっと私だけだろうなあ、と思うとちょっと可笑しかった。
でも、その音楽は、近くを走る車の音や、ピューピューと吹く風の音、駅の構内放送、ホームで電車を待つ人たちの話し声にさえぎられ、時々まったく聴こえなくなります。ああ、そこはとっても美しいところなのに!と苛立ち、耳を澄ますのですが、あっという間に雑音に掻き消されてしまうのです。
月が見たくて夜空を見上げたら、雲がたちこめている。流れていく雲の隙間から、月は時々顔を出すのだけれど、またすぐに雲に隠れて見えなくなる。雲の彼方にはあんなに美しい月や星たちが見えるはずなのに、と残念に思う。
そんな状況を思い起こしているうち、電車がすべりこんできました。もう少しここにいてシューベルトを聴いていたい、美しい景色の中で音楽に包みこまれていたいと思いましたが、夕飯時に一人遊び呆けている訳にもいかないので、後ろ髪引かれる思いで電車に乗りました。そして、ついさっき思いがけず聴いたシューベルトのピアノ・ソナタの記憶を反芻しながら、私と音楽との関わりについて思いを馳せていました。
私がシューベルトのピアノ・ソナタ第13番を聴いたのは、田部京子盤が初めてのことでした。もともとはメイン曲のソナタ第18番「幻想」が聴きたくて買ったアルバムで、そちらの方は大いに感銘を受けたのですが、第13番は、演奏の良し悪しがどうという以前に、曲の良さがさっぱり分かりませんでした。
当時の私は、マーラーやブルックナー、ショスタコーヴィチの交響曲など、大規模で気宇壮大な音楽を好んで聴いていましたから、このこじんまりとした音楽を前に持て余してしまい楽しめなかったのです。また、シューベルトの音楽は、1822年に「大病」を得て大きく作風を変えてからの深遠な音楽に比べ、それ以前の器楽曲は未熟な習作的作品が多いという先入観もありました。そんな状況だったので、田部京子の弾く13番のソナタを聴き返すことはありませんでした。
私のシューベルトの音楽への認識が大きく変化したのは、それからしばらく経ってからのことでした。あるとき、ふと耳にしたヴァレリー・アファナシエフの弾くソナタ第13、14番に、私は耳も心もすっかり奪われてしまったのです。
この2曲のソナタの間には、前述のシューベルトの「大病」による作風の大きな断絶があるのですが、それら2曲は実は地続きの音楽で、それまで、ただ優雅で可憐な、それゆえに自分とは関係のない曲としか思えなかった13番にも、14番以降のソナタで表現されている暗闇や孤独、絶望などが既に顕在していることを知りました。
当時の私は精神状態が良くなかったので、音楽のそうしたネガティブな要素を激しく欲していたのでしょうか、アファナシエフの演奏に深い感銘を受けるとともに、こんな凄い音楽がそばにあったのかと、その前後で人生が変わってしまったと思えるほどの衝撃を受けました。
もっとシューベルトを!とばかり、それまで聴いてこなかった彼の音楽を貪るように聴き始めました。以来、10年近くが経過し、今や、シューベルトの音楽のすべては、私にとってなくてはならない大切なものになりました。「私の血はワインでできている」と言った女優さんがいましたが、「私の血はシューベルトの音楽でできている」と言いたいほどに。実際には、「私のCD棚はシューベルトの音盤で埋め尽くされている」というのが正確なところなのですが…。
シューベルト・ショックとでも言うべき鮮烈な体験の後、私は、田部京子の演奏するピアノ・ソナタ第13番を聴き直しました。するとどうでしょうか、以前の「わからない」という感想は一体何だったのかというほどに深い感銘を受けました。そして、このシューベルトの音楽を心の底から愛おしいと思いました。
第1楽章の冒頭、何かに憧れるような、のびやかな抒情にあふれた歌を、田部は、持ち前のすみきったタッチと、ペダルをやや深めに踏んだ瑞々しい響きで柔らかく包み込み、いじらしいまでに優しく歌います。特に、ピアニッシモで奏でられる高音の響きの透徹した美しさにはほれぼれとしてしまいますし、ほんのちょっとしたフレーズの切れ目にも翳りがあり、ため息があって、そこがたまらなく、いい。
リリカルな歌から一転、オクターヴの上向音型が左手と右手で交互に奏する箇所では、楔を打ち込むような厳しい音を聴かせますが、音や表情から美感が損なわれることはなく、なだらかなアーチを描くように、最初のまろやかな旋律へと回帰します。この快い音楽が鳴り響く場所こそが自分のいるべきところであり、ここにいればすべてが受け容れられる。でも、一度、外の世界へ踏み出してしまった後は、そこはもはや前とは同じ場所ではない。何かが失われ、変わってしまっている。本当にここにいて良いのだろうかという懐疑を孕んだ安堵感に包まれながらまどろみに落ちていく。
そんな音楽の道筋を、田部は、デリケートな手つきで丁寧に示してくれていて、ああ、シューベルトの音楽を聴いているのだ!としみじみと感じて嬉しくなります。
第2楽章は、彼の晩年の作品と一直線につながる、深沈たる瞑想の音楽。四分音符一つと、八分音符四つの特徴的なリズムが静かに繰り返されていく。動きの少ない和音と、その稜線を描く穏やかな旋律が、短調と長調を行き来して漂いながら、ゆっくりと空間を満たしていく。遠い昔、私がピアノを習っていた頃に使っていた教則本に楽譜が載っていて、「これくらいなら弾ける」と呑気に遊んでいたほどにシンプルな音楽ですが、田部の細やかな心遣いにあふれた演奏で聴くと、深々とした内容をもった豊かな音楽として私の心に響きます。
どこにも行き場はないと、なす術もなくただ立ちずさみ、遠く夕日が沈んでいくのを茫然と眺めるかのように音楽が闇の中に消えていくと、第3楽章のコロコロと転がるような楽しげな旋律が耳にすべり込んできます。ニュアンスに富み、濃やかな陰影に彩られた音の戯れは、どこか哀しい。流したかった涙を心の奥深くにとどめ、哀しみを振り払おうとひとり遊びに夢中になっているかのよう。その奥底には、またあの暗闇が訪れるのではないかという不安が消えずに残っていて、解決されないまま保留されている。それでいいじゃないかと自らに言い聞かせながら、精一杯の笑顔を見せて音楽を明るく閉じる。
きっと聴き手の数だけ、違う聴き方、感じ方があるでしょうが、今の私は、田部京子の弾くシューベルトの13番をこんなイメージをもって聴いています。いささか情緒的な聴き方かもしれませんが、彼女の演奏はむしろエモーショナルなものに寄りかかりすぎない理知的なものであって、だからこそ私の心が大きく動いているのだろうと思います。この田部盤は、数多くの名盤の中でも特に愛着の強いものです。
それなのに、最初に聴いたとき、そういうふうには彼女の演奏を楽しめなかったのは不覚としか言いようがありませんが、あの頃の私には、シューベルトの音楽が「聴こえていなかった」のだろうと思います。勿論、曇りのない明瞭な優秀録音のおかげで、一つ一つの音を克明に追って聴けてはいたのでしょうが、駅のホームで聴いたシューベルトと同じように、いや、それ以上に、私は雑音にまみれた状態で断片的にしか音楽を聴いていなかったに違いありません。そして、その切れ切れの音楽を自分には関係のないものと判断し、雲の彼方にある音を聴きとる努力もせずシャットアウトしてしまったのでしょう。
作り手と受け手の、音だけを媒介としたコミュニケーションにおいて、外部の環境や、自分自身の状態、あるいは、先入観などによって、音楽と私の間に障害物ができてしまうのは原理的に避けられないことです。良い音のディスクを良い再生装置で聴いたからと言って、あるいは、ホールで実演を聴いたからと言って、本当に音楽が聴こえているのかどうかは、また別の話だとわきまえておいた方が良いのかもしれません。
音楽と自分との間にはいつも雲があって、それに隠れて聴き取れないもの、感じ取れないものはたくさんある。雲の彼方にある音に出会えなかったと感じたときは、雲の切れ目から音楽が聴こえるようになるそのときまで、我慢強く待つしかないと認識しておく。そんなふうに、結論を急がず、ゆったり構えた気長な音楽との出会い方というのもあるんじゃないかと思います。
アファナシエフの演奏を経由し、長い時間を置いて田部京子の演奏と再会したときに私が体験したのも、まさにそんな出会いでした。CDに刻まれた音は何一つ変わっていないし、私自身も音楽を好きになろうと努力した訳でもなく、どうしてそんなことが起きたのかはよく分かりませんが、シューベルトのソナタ第13番と私の間にあった雲がいつの間にかどこかへ流れていき、その隙間から音楽が聴こえるようになったのです。
遠回りしてしまいましたが、私は、田部の弾くシューベルトと出会い直すことで、ほんの小さな雲の隙間からでも、その音楽と、シューベルトという作曲家と直接繋がれたような気がしました。そんなちっぽけな体験をもって、私がシューベルトの音楽を理解できた、分かった、などとはまったく思っていませんが、少なくとも、シューベルトの音楽を、自分の問題として聴けるようになったのは間違いありません。私は、それはとても幸せな音楽との出会いだと感じています。
演奏会で聴く一期一会の音楽の魅力とはまた別に、同じ演奏を、時をおいて聴き返すことで、新たに出会い直すことのできる音盤にも、やはりかけがえのない魅力があると私は思っています。初めて聴いた音楽にピンと来なくても、「これはもしかすると、いつか自分にとって大切な音楽になるかもしれない」と評価を保留しておき、音楽が聴こえてくる瞬間が来るまであたためておく。それは、音盤を通した、贅沢な音楽とのつきあい方ではないでしょうか。
いや、本当のことを言うと、それは単に、CDの棚から溢れ、家の中でどんどん増殖していく音盤たちを手放せないことの言い訳でしかないのですが、とにかく、私の音盤中毒は一向に癒えそうにありません。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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