音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.49

クラシックメールマガジン 2017年8月付

~表現者の刻印 ~ この世でいちばん優しい歌 小林沙羅(S) 河野紘子(P) 高木慶太(Vc)~

最近、「歌」をよく聴きます。人の声を聴くことの喜びが、歳を重ねるごとに深まり、人肌ならぬ人声恋しいという感覚が、いつも心のどこかにあるからです。
特に女性歌手の歌うものに目がなくて、面白そうな音盤を見つけると、つい手が出てしまいます。昨今は古楽系の歌手に素晴らしい人が多く、「当たり」に巡り合う確率も高いので、どんどん深みにはまり、興味も広がっていきます。
ですから、都心のCDショップへ行くと、自然と声楽コーナーに足が向いてしまう。見知らぬ音盤を手にとり、麗しい女性歌手の歌声を想像しながら、さてどれを聴こうかと思案するのもまた愉しいものです。
そんなふうに女性歌手のCDをあれこれ見たり聴いたりしていて、近ごろ思うことがあります。それは、日本のソプラノ歌手のアルバムには、「こころ」「母」「愛」「祈り」「日本」という言葉が入ったタイトルのものが多いのではないか、ということです。
厳密に調べた訳ではなく、私の個人的な印象でしかないのですが、たくさんの女性歌手たちが、そうしたキーワードと直接つながるような曲、例えば、「ふるさと」や「庭の千草」、あるいは、「母が教え給いし歌」や「子守歌」、「アヴェ・マリア」を録音しているのは間違いありません。
してみると、日本の女性歌手は、歌を通して、愛や祈り、母性を表現し、聴き手の郷愁をそそり、こころに訴えかける音楽家であろうとしている、あるいは、そういう役割を社会から求められているということになるのでしょうか。
では、そんな日本の女性歌手像を体現している人は誰だろうかと、試しにネットで「ソプラノ歌手 こころ 母 愛 祈り 日本」と入力して検索してみました。すると、その上位には、鮫島有美子、幸田浩子、そして小林沙羅という三人の歌手の名前がずらりと並びました。そう、皆さん、コロムビアからアルバムをリリースしている人たち。コロムビアというレーベルのカラーというか、音盤制作の伝統的なポリシーが垣間見える気がしますが、私自身も、まさにその方々をイメージしていましたので、納得の結果でした。
その三人のディーヴァのうち、最も若い世代に属する小林沙羅は、昨年秋、まさにそれらのキーワード満載のアルバムをリリースしました。
題して、「この世でいちばん優しい歌」。
彼女のデビュー盤となった前作「花のしらべ」は、タイトルのとおりに「花」にまつわる歌を集めたものでしたが、今回は、古今東西の子守歌とアヴェ・マリアを中心に、日本語の歌曲と自作曲もいくつか収録しています。
アルバムのテーマは「祈り」と「愛」とのことですが、収録曲目から考えて、「愛」という言葉の中心に、母から子への慈愛があることは間違いありません。
しかも、小林は、録音当時、お腹に新しい生命を宿していたそうです。ですから、「はじめての子を持ったとき 女のくちびるから ひとりでに洩れだす歌は この世でいちばん優しい歌だ」という、新川和江作の詩「歌」(池辺晋一郎作曲)の一節からとったタイトルそのままに、彼女が「この世でいちばん優しい歌」を歌った瞬間が記録されているのです(どれも、ひとりでに洩れでた歌という訳ではないでしょうけれど)。
つまり、小林の目下の最新盤は、日本のソプラノ歌手像を体現する人が、そのイメージを、これ以上ないというくらいに、はっきりと具現化してみせたものであると言えます。
アルバム冒頭は、シューベルトの子守歌。曲の性質上、穏やかで優しい歌い口に終始しているのは当然ですが、どの言葉も、深い実感を込めつつ、陰翳に富んだニュアンスを伴って、明晰に発音されています。
シューベルトの美しい旋律と、小林の豊かな響きに満ちた歌声に酔いながら、この曲は母が眠りつく赤ん坊に対して語りかける歌であって、愛をこめて語りかける対象が存在することのあたたかさ、幸せを表現した音楽だったのかと改めて気づかされました。 そして、ただ表面的にきれいに歌うだけでなく、その歌が何を表現しているかを聴き手に伝えようとする、小林の音楽家としてのありようが色濃く反映された歌に、私は深い感銘を受けました。
池辺晋一郎の手による二曲、前述の「歌」と、アルバム最後の「風の子守歌」も素晴らしい。
前者は、初めての子を持った母の優しさと、生まれくる無防備な生命を守っていくのだという決意を歌った曲。ここでは、小林の、低音の豊かな響きをそのまま持ち上げたような、深みをもった高音の美しさが際立っています。「おお そうでなくて なんで子供が育つだろう」というフレーズでの、決然とした切実な訴えは、聴後に大きな余韻を残します。
後者は、「かぜ」が何をかぞえながら吹くのかを歌う、シンプルで美しい曲。淡々とした運びの中で、過ぎ去った日々と、もうここにはいない人たちを、万感の思いを込めて追憶する優しい調べは、この愛に溢れたアルバムの最後を飾るのにふさわしい。
何度も繰り返される「おやすみなさい」という言葉の柔らかであたたかい響きと、「ふしあわせ」という一言で明るい曲調がふっと翳るときの、甘美な感傷を伴った音の動きには、思わずホロリとしてしまいます。
年季の入った中年男がこんなことを言うのも恥ずかしいのですが、この曲を子守歌に眠りたいと、就寝前にこのトラックだけを取り出して聴くことがあります。
小林自身が作詞作曲した「子守歌」も、素敵な歌です。
日本の伝統的な旋法に依った、アカペラで歌われる子守歌。この歌が我が子にまっすぐ伝わりますようにと祈り、それが届いたときの至福を憧れるかのような曲調が心に沁みます。ホールトーンをたっぷり取り入れて録音された響きも、夢見るように美しい。
また、「ねんねんねんね」という言葉の繰り返しには、「揺籃のうた」の「ねんねこ ねんねこ ねんねこよ」と通じる趣があって、どこか懐かしさを感じます。子守歌が、少しずつかたちを変えながら、世代を超えて歌い継がれていくのを目の当たりにするかのようで、聴いていて胸が熱くなります。
録音セッションの時、羊水の中で歌を聴いていたお子さんには、お母さんの思いは、ちゃんと伝わっていたに違いありません。そして、そのときの幸福な記憶は、いつまでもどこかに残るのでしょうか。
リヒャルト・シュトラウスの「子守歌」も、楽しみました。彼女の声質やオペラの持ち役から考えて、シュトラウスのオペラなら「ばらの騎士」のゾフィーや「アラベラ」のズデンカが歌うような、清楚で透明な抒情を際立たせた歌になるのでは?という事前の予想は外れ、詩と音楽からにじみ出る色香を表現することに注力した、ドラマティックな歌を聴くことができました。
愛する我が子へのひそやかな呼びかけが、新たな生命を身体に宿した夜の幸福な記憶を呼び覚まし、目も眩むような官能が香り立つ。子供を安らかな眠りの世界に誘うシンプルな歌は、やがて大いなる愛への賛歌へと転化していく。そんな道筋を、大きなアーチを描くように歌うさまからは、「ばらの騎士」のマルシャリン(元帥夫人)のような成熟した女性の姿を想起します。
ただ、そのひたむきで真摯な思いに満たされた歌に共感する一方で、何年か後、音楽的、人間的に成熟を重ねた彼女が、この曲を歌うのを聴いてみたいという気も、しないではありません。
他の曲でも、その歌が何を表現しようとしているかを、聴き手に伝えることに専心する小林の姿勢は、アルバム全体を通して一貫しています。また、音楽が表現するところの何ものかになりきり、それを演じる、演劇的とも言える音の立ち居振る舞いも、デビュー作以上に強く感じられます。
そうしたことから、小林沙羅という人は、前述した典型的な日本のソプラノ歌手像を体現した音楽家というよりも、常に何かを表現し、それを聴き手に伝達せずにはいられない「表現者」であると私は捉えています。
実際、ライナーノートに記された小林のプロフィールを見れば、彼女はもともと舞台女優になりたくて、得意な歌を演技に生かすために、声楽を学び始めたとのこと。また、池辺晋一郎氏が谷川俊太郎氏と対談した雑誌の記事にも、目を通している。自ら作詞作曲することもある。そのほか、彼女に関するメディア記事を見ても、彼女が、音楽を通して表現したいものを、内側にたくさん秘めた人だということが、その言葉からひしひしと伝わってくる。
「表現すること」に常に強い関心を持ち、視野を広め、外部から多くを吸収しながら、自らの表現を追求する。そんな彼女の「広く、深い」活動ぶりを見るに、この人は「貪欲な表現者」なのだと確信を強めています。
彼女の旺盛な表現への志向を支えているのは、勿論、もって生まれた美声と、日々の鍛錬によって磨きつつある演奏技術であることは疑う余地はありません。
全音域でムラなく豊かに響く声を武器として、音楽の稜線となる旋律を明瞭にたどる一方で、美しい音楽が言葉を追い越さないよう細心の注意を払う。そうしたきめ細やかな配慮が可能な技術があってこそ、歌の内容に沿った多彩な表現を盛り込み、音楽に内在する宇宙を描き出すことができる。もちろん、歌のテキストの解釈者としても、優れた資質を持った人であることも言うまでもない。
でも、それ以上に、表現者としての彼女のバックボーンにある最大のものは、音楽のもつ可能性への揺るがぬ信頼なのだろうと思います。
この音楽から、より豊かな内容を引き出したいという飽くなき探究心。自らが音楽の中に見いだしたものを、どうにかして聴き手に届けたいという願望。それらは、音楽のもつ力への信頼が根底になければ、到底持ち続けられないからです。
そんな彼女の熱狂的なまでの音楽への信頼に惹かれて、多くの音楽家が彼女との共演を望む。名だたる作曲家たちが、自身も気づけない未知の可能性を引き出してくれることを期待して、彼女に新作の「創唱」を依頼する。レコード会社のスタッフが、競合盤の多いテーマでの新たなブレークスルーを彼女の新鮮な歌に託す。演奏会のプロモーターは、チャレンジングな企画を成功に導くため、彼女の音楽の可能性に賭ける。そして、聴き手は、たくさんの人たちの信頼を受けた彼女の音楽に魅せられ、もっと聴きたいと願う。
そうやって、彼女は、多くの人から求められる存在となり、スター演奏家の仲間入りをした。「この世でいちばん優しい歌」を通して、そんな図式が、はっきり見えた気がして腑に落ちました。
ところで、このアルバムで、私には嬉しい発見がありました。
河野紘子のピアノ伴奏がとびきり素晴らしいのです。彼女のピアノを聴くのは初めてなのですが、どの曲でも、小林の歌にぴったりと寄り添い、支えながら、ほれぼれするような美音と、チャーミングな歌を、随所で聴かせていて、すっかり魅了されました。
特に、シュトラウスの「子守歌」での、キラキラと輝くアルペジオの光彩。彼女が奏でる伴奏には、ピュアな音楽でありながらも、デーメルの詩と、シュトラウスの音楽の向こうにクリムトの絵が透けて見えるようなエロティシズムがあり、小林の歌と美しく調和しています。また、アルバム最後の「風の子守歌」の余情たっぷりの伴奏も心に残りますし、「そして小鳥は」の湿気の少ない心地良いリズムと響きも素敵。ドヴォルザークの引用でさりげなく聴き手の注意を引く「ねむの木の子守歌」でのチャーミングな歌い口も、いい。
歌手にしてみれば、こんな伴奏なら歌いやすいというだけでなく、多大なインスピレーションを受け、表現意欲がさらに高められたに違いありません。そう、もしかすると河野というピアニストもまた「貪欲な表現者」なのかもしれません。
ソリストとしてだけでなく、リートや室内楽でも幅広く活躍しているという彼女のピアノ、是非、もっと聴きたいと思います。ソロはもちろんのこと、彼女を信頼する音楽家たちが集まって、セッションするようなアルバムがあれば、きっと面白いものになるだろうなと妄想を逞しくしてしまいます。
また、読響のチェロ奏者、高木慶太のなめらかな美音も素晴らしい。特に、「お江戸子守歌」と「子守唄よ」での哀感に満ちた音色と、しっとりとした歌い口のオブリガート。そこで、彼の奏でるチェロは、歌とピアノの対話に幸福なふくらみをもたらしています。こういう美味なアンサンブルを作れる若い音楽家が、名匠カンブルランの下で躍進を続ける読響を支え、引っ張っていくのだろうと思うと、頼もしい限りです。
小林沙羅というスター歌手が、多くの人たちが求めているものに完璧に応えつつ、自身の「表現者」としての矜持をはっきりと刻印した「この世でいちばん優しい歌」。
彼女は、このアルバムを通して、旧来の日本の女性歌手像を、あっさり更新してしまったのかもしれません。でも、どんなキーワードがそこに加わったのか、あるいは、既存の言葉の意味合いが変わったのかは、私には分かりません。きっと、彼女自身が、今後、その答えを示してくれるのだろうと期待します。
次作で、小林沙羅だけが聴かせてくれる特別な「歌」を、そして、「表現」に出会えるのが、今から楽しみでなりません。有名曲ばかりに偏らず、マニアックにも過ぎない絶妙の選曲スタンスにも期待しています。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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