音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.51

クラシックメールマガジン 2017年10月付

~動的平衡の音楽 ~ 「エリック・サティ 新・ピアノ作品集」高橋悠治(P)~

高橋悠治が40年ぶりに再録音したサティのピアノ曲集は、何かの映画を意識したのか、「エリック・サティ 新・ピアノ作品集」と銘打たれています。ディスクを初めて聴いたとき、私は、その「新」の一文字に思わず頷いてしまいました。確かに「新しい」、と。
このディスクで聴くことができるのは、作曲家、演奏者といった属性をすべて削ぎ落とした匿名の音楽です。でも、それだけなら、高橋自身が言う「ありがちの表現や叙情のない『白い音楽』をさしだす」ことを目指して録音された旧盤と、基本的なスタンスはさほど変わりません。高橋は、旧録音から年月を経て79歳を迎えた今も、純白の音楽としてのサティを奏でている。
新盤が旧盤と大きく異なる点は、音楽に「演奏でなにかを加える」のを許容していることです。その「なにか」とは、ライナーノートで高橋自身や細馬宏通氏が述べているように、音と音の関係に持ち込まれた「ずれ」であり「ゆらぎ」です。
聴き手の期待から僅かにずれたタイミングで奏でられる音、左手と右手でほんの少しだけバラして鳴らされる和音、同じ指示でも微妙に異なる強弱のグラデーション。
そのゆらぎの幅は、「ジムノペディ」のように大きなものもあれば、注意しなければ気づけないほど小さなものもあり、その変動ぶりに、ありきたりな法則性を見いだすのは難しい。多くは、演奏家の内部で即興的に生み出されたものなのに違いありません。
結果、音楽の構成要素であるリズムは、メトロノーム的な正確さから解き放たれ、周期的ではあっても、音の存在確率の高い期間というような、時間的に幅をもったものにぼかされます。
不確定性をもったリズムの中では、今、この刹那に鳴るべき音が、まだ鳴らされないというケースがあります。すると、私たち聴き手は、前に鳴らされた音の響き、あるいはその余韻を、残像としてはっきり感じ取ります。
そして、既に消え去った音の記憶、消え去りつつある音、これから鳴り響くはずの音の予感、実際に空間に放たれたばかりの音、それらすべてが複雑に絡み合って、今、この瞬間の音楽が形成されることを強く意識します。
前に鳴らされた音が消えてしまうからこそ新しい音が生きるのだけれど、消えてしまう音が存在しなければ音楽は成立しない、ということを改めて実感する。
音の消滅と生成が同時に発生しているさまが、音によってくっきり可視化されたかのような高橋の演奏を聴いていると、私は、最近よく耳にする「動的平衡」という言葉を想起せずにはいられません。
この地球上では、秩序あるものは必ず、無秩序へと移行していきます。「エントロピー増大の法則」という宇宙の摂理。
生命体とは、地球上で、最も秩序ある存在ですが、放っておけば、無秩序、すなわち「死」というエントロピー極大の方向へと向かってしまいます。だから、外部からエネルギーを得て、自らの細胞を分解しながら、一方で新しい細胞を作り、分子レベルで自分を再構築することによって生命を維持します。絶え間ない物質の流れの中で保たれる「動的平衡」とは、「生きる」プロセスそのものなのです。
音楽を形容するときに「まるで生きもののよう」という言葉が使われることがありますが、音楽は生命の比喩ではなく、動的平衡という観点から見れば、生命そのものと考えられそうです。
音楽という生命体は、消えていく音と、新たに生まれる音の流れの間で、危ういバランスをとりながら、無秩序へと流れていく力に抗い、秩序ある音の時空を目指して進んでいく。音楽は、音の生滅の繰り返しの中で、あらゆる瞬間に生まれ変わりながら生命をまっとうする。
高橋の弾くサティが、あちこちに即興的な「ゆらぎ」を散りばめ、徹底して作り込まれたものなのに、恣意性をまったく感じさせるどころか、むしろ自然さと自由さを獲得しているのは、その音楽のありようが、動的平衡という生命の本質と激しく共振しているからではないかと思えてなりません。
音楽という生命体の脈動をリアルタイムで体感するような音楽を聴いていると、サティとか高橋悠治という固有名詞も、私という第一人称も、完全に消えてしまいます。「ジムノペディ」や「グノシエンヌ」といった、もう耳にタコができてしまったような有名曲でさえも、まるで初めて聴く音楽のように新鮮に響きます。
そんな創造のプロセスを演奏家と共有できる時間は、スリリングなこと、この上ありません。新たな発見の驚きと喜びに出会える刺激的な体験を求め、購入以来、私はこのディスクを何度プレーヤーのターンテーブルに乗せたことでしょうか。
高橋悠治の演奏する新しいサティが魅力的である理由は、もう一つあります。それは、歌曲やシャンソンをアレンジした4曲のみならず、どの曲にも「歌」が満ち溢れていることです。各曲の旋律が、繊細な手つきで、幾分メロウな音色をもって、優しく歌われるのを聴くことができるのです。
継ぎ目を見せない自然な呼吸、旋律線の美しさを際立たせる滑らかなレガート、言葉の語感と直結したアーティキュレーションと抑揚、そうした歌い手の技を応用して、ピアノの響きの背後から、人の声が聴こえてきそうなリアルな歌を引き出す。それは、高橋が、ソプラノ歌手の波多野睦美との度重なる共演、長年にわたって取り組んでいるシューベルトの「冬の旅」の伴奏、あるいは水牛楽団での活動を通して得た秘技なのかもしれません。
いずれにせよ、彼は、サティが時間構造の中に閉じ込めた旋律に自然な息遣いを与えていて、それによって、音楽は柔らかな色彩を帯び、新鮮な空気の中で、生き生きと息づいている。例えば、「好きよ」というチャーミングな邦訳が与えられた(定訳は「あなた(あんた)がほしい」)「ジュ・トゥ・ヴ」を聴いてみれば、それがどんなさまであるか、たちどころに感じていただけるはずです。
アルバム全体の中で、どれか一つだけ特に好きなものを選べと言われたら、私は、今回彼が初めて録音した「1886年の3 つの歌」のピアノ版のうち第2曲「エレジー」を挙げます。それは、深々とした静けさの中で、深いメランコリーをたたえて、ひっそりと歌われる無言歌。高橋の訳した原曲の歌詞を読みながら聴くと、人間の心の奥底からこみ上げてきた痛みと哀しみをひしひしと感じとることができます。
冒頭から、リズムの大きなゆらぎを見せて度肝を抜く「ジムノペディ」も忘れがたい。私の期待をはぐらかして弾かれる音の破調・乱調は、何度聴いても美しくてエキサイティング。このインパクトの大きな演奏をアルバム冒頭にもってきたのは当然のこと。ですが、もしかすると、アルバムの曲順をシャッフルして再生すれば、その衝撃が思いもかけぬタイミングが生じて楽しみが増えるかもしれない。聴く人によってさまざまな楽しみ方、味わい方を提供してくれるアルバムなのではないでしょうか。
正直に告白すれば、私は今まで、サティの音楽に対して、かつてメディアを媒介して大量消費された安っぽいイメージを拭えずに来ました。しかし、このアルバムを聴いて初めて、「普遍」という地平に立つサティの音楽に出会えた気がします。サティの音楽への目と耳を開かせてくれたアルバムの登場を心から喜びたいです。
また、私は、高橋悠治という卓越した演奏技術を持つだけでなく、幅広い教養と、鋭い視点を兼ね備えた音楽家に最大限の敬意を払いたいと思います。
サティの楽譜を前に、誰それの書いた、何という音楽を、どのように弾くかという問題領域にとどまることなく、もっと根源的な領域の問題、つまり、「音楽とは何か」とか「生きるとはどういうことか」といった問題に変換し、私という聴き手に問いかけてくれたからです。高橋が紡いだ音楽や言葉にもっとたくさん触れ、彼自身が出した問いへの解答例を見いだしながら、音楽との関わりを、私なりに深めていきたいと思います。
ところで、今回のアルバムについて、あと二つ。
一つ目は、最近コロムビアが力を入れているUHQCDについて。何年か前に発売されたHQCDからさらにディスクの反射率を高めて音質向上をはかったという高音質CD。私はこの技術を使ったディスクを初めて聴きましたし、今回のディスクでは通常CDやSACDとの聴き比べができないので、これがどれほど優れた技術なのかはよく分かりませんが、みずみずしくて美しいピアノの響きを堪能しました。
そのヌケの良いクリアな高音、豊かに広がる低音のふくらみは、もともとの録音の優秀さに負うところが大きい気もしますが、通常のCDではなかなか聴くことのできないものであると感じました。
同時に、CDというフォーマットにはまだこれだけの改善の余地があったのかと驚くとともに、我が家のリスニング環境ではCDの音の良ささえもまったく引き出せていないなと痛感しました。SACDかハイレゾで聴いてみたい気もしていますが、まずはこのディスクを、擦りきれるまで繰り返し聴きたいです。
もう一つ。今回のアルバムのジャケットの装丁、とてもきれいです。
白を基調にしたジャケットで、シンプルで少し謎めいた抽象画をあしらった表紙。丸みを帯び、やわらかいフォントで綴られた、味わい深い名文たち。高橋自身の手による歌の原曲の歌詞和訳。ピアノを前に両手で顔を覆う高橋の写真の下には、縦書きの彼のプロフィール。
コロムビアのクラシックアルバムでは、これまで見たことのない新しいセンスに溢れた、私は大好きです。
中でも、専門のジェスチャー分析の観点から高橋の演奏を詳細に解析した、人間行動学者、細馬氏の文章は読みごたえがありました。高橋自身も、太極拳やヨガを実践するなど、身体の動きには誰よりも強い関心を持っているようなので、その演奏の本質的な成り立ちを私たちに解き明かしてくれているのだろうと確信します。
かつて看板アーティストだった高橋の久しぶりのコロムビアへの録音で、新・コロムビアの息吹をじかに感じることができたこと、一ファンとして嬉しく思います。
今月号のレコード芸術のインタビューで、高橋は、40年の間にコロムビアも人が全部変わっちゃったねと言っていましたが、高橋の数々の名盤をプロデュースした故・川口義晴氏も、天国から、「お、君たちなかなかやるね」と、ニコニコとご覧になっているのではないでしょうか。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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