音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.52

クラシックメールマガジン 2017年11月付

~解放者 ~ストラヴィンスキー/「春の祭典」、バーンスタイン/ウェストサイド物語 バッティストーニ指揮東京フィル~

バーンスタインのミュージカル「ウェストサイド物語」から「シンフォニック・ダンス」のフィナーレ。マリアが歌う「アイ・ハヴ・ア・ラヴ」の旋律をヴァイオリンが奏で、「サムウェア」の後奏へとつながっていく。静かに、でも、万感の思いを内に秘めて、オーケストラが歌う。マリアの、許されぬ恋と分かっていながら、抑えがたい恋人トニーへの思いと、彼を喪った深い哀しみ。争いの絶えない社会への怒りと絶望。そして、「いつかどこかに私たちの場所が見つかりますように」と願う切実な祈り。それらすべてが大きな波になって押し寄せてくる。映画のラストシーンでの、ナタリー・ウッド演じるマリアの姿を思い起こし、救いようのない悲劇に巻き込まれたヒロインと哀しみを共有する。ああ、可哀想なマリア、と呟く。
バッティストーニ指揮東京フィルの最新盤に収められた演奏を、胸をかきむしられるような思いで聴きながら、私は猛烈な既視感に襲われました。
最初は、この9月、バッティストーニと東京フィルによるヴェルディの歌劇「オテロ」の演奏会形式上演を聴いたときのこと。不貞の濡れ衣を着せられたデズデーモナが、夫のオテロに殺される運命を予感しながらアヴェ・マリアを歌う。名花エレーナ・モシュクの気高ささえ感じさせるピュアな歌に、真っ白な百合の花のように、けがれのないオーケストラの響きがぴったりと寄り添う。すぐそこにどす黒い悲劇が忍び込み、彼女を呑み込もうと待ち構えているのを知っていて、どうして冷静になど聴いていられましょうか。ああ、可哀想なデズデーモナ。
もう一つは、同じ演奏者によるプッチーニの「トゥーランドット」を実演で聴いたときのこと。愛するカラフ王子を救うため、リューが自らの命を投げ出す場面で歌うアリア「氷のような姫君の心も」。浜田理恵の絶唱の傍らで、バッティストーニがオーケストラから引き出したのは、リューの自己犠牲を、我が身の痛みとして引き受けたような優しい音楽でした。ああ、可哀想なリュー。嗚咽の声を漏らさずに聴くのは、とても大変なことでした。
愛する人を殺されるマリア、夫に殺されるデズデーモナ、愛する人のために自ら命を絶つリュー。デズデーモナは、劇中で「私の罪は愛したこと」と歌いますが、彼女らはただひたすら純粋に愛しただけ。何も悪いことはしていない。それなのに、彼女らは、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのでしょうか。
いや、バッティストーニの指揮する演奏で聴くから、彼女らのことが不憫で可哀想に思えてしまうのかもしれません。どの曲も、これまで散々聴いてきたはずなのに、この女性たちの悲劇を、彼ほどリアルに実感させてくれる指揮者はいなかったからです。鮮烈な聴体験を振り返りながら、もしかすると、薄幸の女性を描く音楽を振らせたら、いま、バッティストーニの右に出る人はいないのかもしれない、と思いました。
彼の指揮する音楽からどうしてそんな印象を受けるのか、いったいどのような音の扱いが私にそう感じさせるのかは分かりません。それらの場面で、指揮者もオケも特に変わったことをしておらず、ただ誠実に音楽を奏でているだけのように思えるからです。三人の女性の悲劇も、音楽全体の中で突出している訳でもなく、然るべき場所、然るべき深さで紡がれている。何よりも、それぞれの楽曲の核心は、そのど真ん中で、ごく真っ当に表現されている。
この「ウェストサイド」でも、バッティストーニと東京フィルは、キレと弾力のあるリズムを武器に、ドラマティックな演奏を繰り広げています。ミュージカルの原動力となる、若さゆえの力、愛、そして、悲哀、苦悩の表出に不足はありません。突き上げてくる若い衝動を抑えがたく、猛烈なエネルギーを放射しながら駆け抜ける「プロローグ」や「マンボ」。プライドとコンプレックスの衝突が、歪んだ闘争心を煽るさまをリアルに描いた「クール」。みずみずしいカンタービレが心に沁みる「サムウェア」。どの瞬間にも、切れば血の噴き出すような若さが漲っていて、音楽は、あのダンスのように躍動しています。
それでも、私にとって、この「ウェストサイド」の演奏で最も心に残るのはフィナーレなのです。デズデーモナ、リューのアリアに涙した記憶を重ねながら、マリアという女性の悲劇に思いを馳せずにはいられない。
その意味で言えば、この最新盤のメイン曲であるストラヴィンスキーの「春の祭典」で、太陽神への生贄として選ばれ、ひたすら躍り続けて死んだ乙女も、かなり可哀想な女性です。非科学的、非人道的な野蛮な儀式の中で、美しいさかりに死なねばならないのですから。でも、「春の祭典」における乙女の死は、同情すべきものというよりむしろ、命あるものの「生」と、生命を生み出す「性」の賛美として描かれています。「ウェストサイド」「オテロ」「トゥーランドット」で彼らが示してくれた悲劇の犠牲者としての女性の姿は、ここでは背後に押しやられている。
その代わり、バッティストーニと東京フィルは、この荒々しいまでに生を肯定する音楽を、そのとおりに輝かしく演奏しています。そして、思わず仰け反るほどに大きな仕掛けを随所に散りばめながら、刺激的な音楽を聴かせてくれています。
特に印象に残った場面を、いくつか挙げておきます。
冒頭の有名なファゴットのソロ。発音直後から大きなヴィブラートをかけ、まるでイタリアのベルカント・オペラのアリアみたいに朗々と歌うのが聴こえてきて、度肝を抜かれます。「セクシーバスーン」という諸井誠の楽曲名を想起するほどに陽性の官能を帯びたカンタービレは、作曲者の意図したものとは異質な表現なのでしょう。でも、人身御供の残酷物語ではなく、生への「賛歌」を導く明るい予感に満ち溢れた音楽に、胸が躍るのを止められません。
次に、第2部「祖先の霊の喚び出し」(トラック12)。全体にゆったりとしたテンポをとり、管楽器によるロシアの賛美歌風の旋律を、テヌート気味にたっぷり歌わせるのは目新しくありませんが、ティンパニと低弦が三音のモチーフを奏でるたび、さらにテンポを落として一つ一つの音を克明に叩きつけているのが強烈に印象に残ります。
手元にあるスコアを見ると、ティンパニはファ#の音を三回(八分音符2つ+四分音符1つ)叩くように書かれていますが、この演奏では、低弦の音型に合わせてファ#→ミ→レ#と音程を変えて叩いているように聴こえます。聴き間違いかもしれませんが、この遅いテンポなら十分に可能な処理です。いずれにせよ、この短いモチーフを、まるで歌舞伎の「見得」のように強調することで、続く賛美歌を自然に導き出しているのは間違いのないところです。
そして、大詰めの「生贄の踊り」。不規則なリズムを綿密に組み合わせて作られた難曲を、オーケストラが嬉々として演奏しているさまは感動的ですらありますが、曲の中盤で、仰天の場面が待ち受けています。
それは、トロンボーンの「ソロ」の部分です。私は、この演奏を実際に客席で聴いていたのですが、そこにさしかかったとき、何が起きたのか理解できずに凍りついてしまいました。直後に謎が解け、私はテレビの新婚さん番組の司会者みたいに、椅子からずり落ちそうになりました。そして、続く雪崩のごとき大音響の渦に、完全に呑み込まれてしまった。ブラックホール的時空間の予期せぬ出現に、私はギャーと声を上げそうになりました。
ここをこんな風にやった演奏は、初めて聴きました。私が知る限りでは、ゲルギエフ指揮ロンドン響のバービカンでのライヴ動画がやや近いくらい。誰も思い付かないようなケレン味たっぷりの仕掛けで、鮮やかに場面転換をしてしまう技は、天才的としか言いようがありません。また、リスクをとってでもスリリングな表現を追求する姿勢に、私は、劇場感覚に優れた生来のオペラ指揮者の姿を見ます。この「春の祭典」屈指の名シーンではないでしょうか。
しかし、いま私が挙げたのは、ほんの一例に過ぎません。バッティストーニと東京フィルの「春の祭典」は、もう一晩中でも喋っていたいくらいに、聴きどころ満載の演奏です。
「春の祭典」と言えば、もう何十年も続くブームの中、コンサートでも高い頻度で演奏されるようになり、初演者モントゥーによる1929年の世界初録音盤以来、最新のヴァシリー・ペトレンコ盤に至るまで、夥しい数のディスクが作られてきました。
最近では、1913年の初演時の楽譜や楽器を用いた演奏が出現。ロト、クルレンツィス指揮の衝撃的な演奏の記憶も新しいところです。さらに、つい最近、指揮者なしのオーケストラ(ヴァイオリニストのダヴィッド・グリマル率いるレ・ディソナンス)が演奏して喝采を受け、大きな話題を呼んでもいます。バレエの方に目を向ければ、初演時のニジンスキーの振り付けが復元されたかと思えば、「生贄の踊り」でオールヌードの女性を踊らせる人も出てきた(アンジュラン・プレルジョカージュの振り付け)。
これ以上、まだ何かやることが残っているのだろうか?と思うほどにやり尽くされた感があった「春の祭典」。でも、バッティストーニと東京フィルの演奏は、この曲には古びない生命と価値があって、驚きと発見に満ち溢れた「名演」を作り出す余地がまだあるのだということを、身をもって証明してくれました。言い換えれば、私たちは、この曲の全貌を、まだ知り尽くしてはいないということなのかもしれません。
しかし、バッティストーニと東京フィルの演奏が、どんなに独創的なアイディアがぎっしり詰まった斬新なものではあっても、奇を衒った皮相なマニエリスムから生まれたものとは、私にはまったく思えません。前述のようなユニークな表現が聴かれる場面であっても、いつも直球勝負の豪快な音楽が聴こえてくるからです。地に足のついた説得力豊かな音楽からは、音楽の核心に向かって、果敢に正面突破しようとする音楽家たちの気迫が、ひしひしと伝わってくるのです。だから、その演奏の表層がオーソドックスなものであれ、一見風変わりなものであれ、私たち聴き手は、その曲の中心にあるもの、最も重要なものに触れているのだという実感を持ちながら、音楽を聴くことができる。
そう思い定めてアルバム全体を改めて聴いてみると、「春の祭典」の強烈な生のエネルギーの放射と、「ウェストサイド物語」の女性の悲劇の表出、その異質なものの両方から、バッティストーニという指揮者の強い「意志」のようなものを共通して感じます。
それは、狭いところに閉じ込められたものを解き放とうとする意志です。
「春の祭典」は、文明の発達に伴う合理化と洗練によって去勢され、閉塞した空間に押し込められた人間の「生」を、大地へと解き放つ爆発的な力を秘めた音楽。一方、「ウェストサイド物語」は、社会の複雑化、個別化によって失われた共同体の中の「愛」を取り戻し、過酷な状況に追い込まれた人々の解放を祈る音楽。
音楽を通して、本来人間が豊かに持っていたはずのものを再び呼び戻し、それを新しいものに構築し直す。それによって、私たち人間は真の意味での「自由」と「未来」を手に入れることができる。だから、これらの音楽が私たちには必要なのであり、共有する意味がある。バッティストーニから私たち聴き手に向けた、そんな熱い呼びかけのようなものを、この二曲の演奏から私は受け取ったような気がします。
であるなら、「春の祭典」を指揮するバッティストーニの姿は、社会や音楽に変革をもたらすヒーローの像であり、「ウェストサイド」での彼は、檻に閉じ込められたお姫様を救い出す若き王子なのかもしれない。男女の聴衆から広く愛されるバッティストーニの魅力は、その「革命児」「解放者」としての姿のカッコ良さにもあるんじゃないでしょうか。バッティストーニという音楽家のチャームポイントを、これまで以上にはっきり刻印した当盤は、今後、彼の代表盤の一つとして確かな位置を確保するのではないでしょうか。
ところで、「春の祭典」が収録された今年5月の演奏会では、外山雄三の「ラプソディ」の中の「八木節」の部分がアンコールとして演奏されました。それは、会場全体を興奮の坩堝に巻き込んだ凄い演奏でした。今回のアルバムでは、フィルアップ曲としてはバランスが悪いという判断で外されたのでしょうか。でも、当日会場で聴いた人たち、SNSなどで評判を聞きつけた人たちは、あの演奏のディスク化を心から待ち望んでいるはずです。是非とも、別の機会にリリースするか、または全曲再録音して(絶対にライヴで!)聴かせて頂きたいものです。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

音盤中毒患者のディスク案内 インデックスへ