日本の大手製造業メーカーによる製品検査データの改ざんが、相次いで明るみになっています。競争社会を生き抜くためと品質よりもコストや納期が優先され、企業や組織が守るべき倫理が後回しにされる実態が可視化され、日本のモノづくりへの信頼が音を立てて崩れ始めています。
謝罪会見で現場に責任を押しつける経営者の姿を見て暗澹たる気持ちになっていたとき、この2月に93歳で亡くなった名指揮者スタニスラフ・スクロヴァチェフスキのことを、最大限の敬意をもって思い起こさずにはいられませんでした。彼こそは、自らが守るべき倫理とは何かをとことん突き詰めて考え、常に水準の高い音楽を作り出すことでそれを実践した人だったからです。
スクロヴァチェフスキがいかに「倫理的な」指揮者であったかは、最近発売された読売日響との三点の未発表ライヴのうち2009年 9月収録のショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」でも目の当たりにすることができます。
ロシア革命40周年の1957年に作曲されたショスタコーヴィチの交響曲第11番は、1905年のロシア第一次革命をテーマにした、演奏時間約60分を要する大曲です。それぞれ標題を持った4つの楽章が切れ目なく演奏され、多くの打楽器を擁するフル編成のオーケストラが、歴史的事件にまつわるドラマを大きな振幅をもって劇的に表現します。
特に、第2楽章は、民衆のデモ行進に対して軍隊が一斉射撃をおこなった「血の日曜日事件」の描写があることでも知られています。また、全楽章にわたって明確な調性をもち、革命当時広く歌われていた革命歌がふんだんに引用されるなど、時に映画音楽的と評されるほどにわかりやすい音楽です。
スクロヴァチェフスキと読売日響による演奏は、合奏の精度や純度、ディテールの明晰さ、造型の美しさ、表現の訴求力などあらゆる観点から見て高レベルのものです。音楽の標題性に頼らず、硬質な響きと引き締まった音の運びのうちに、音楽のシリアスな内容を十全に表現しているのは見事としか言いようがありません。
私がそこに指揮者の高い倫理観を見いださずにいられないのは、スクロヴァチェフスキが指揮者としての自らの役割や責任を果たすため、自身とオーケストラに課した厳しい規範や基準が明瞭に聴きとれるからです。
それは、やって当たり前のことをただ当たり前にやったと言わんばかりの、私のような素人にも認識できるほどにシンプルで明快なものです。
例えば、スタッカートやアクセント、スラーなどの記号がついた音は、ついていない音と区別して弾き分けるというようなごく基本的なこと。きっと、音にしなかったこと、音にしないように戒められたものも数限りなくあったに違いありません。リハーサルでは、腕の立つ楽団員にとっても耳の痛い指摘が、いくつも飛び交っていたことでしょう。
高邁な理想と洗練された美意識、そして鍛え上げられた技術が反映された、ぐうの音も出ないほどの正論を前にしては、オーケストラの演奏家たちは逃げ隠れすることなどできません。指揮者に必死で食らいつき、プロとしての誇りをかけ、高い目標に向かってそれぞれが果たすべき責任をまっとうするしかない。この曲に限らず、彼の指揮のもとこうして数々の名演が生まれ、世界各地のオーケストラが鍛え上げられてきたのだし、演奏会や音盤を通して聴き手の耳も育てられたのだろうと思います。
しかし、この演奏は、そうしたスクロヴァチェフスキの音楽からいつも聴きとれる特質の範疇では語り切れない、もっと特別なものを孕んでいるように思えます。熱演とか爆演とかいうような生やさしいものではなく、尋常ではない強い緊迫感が漲った音楽になっているからです。
それは、とてつもない「怒り」がマグマのように噴出する音楽です。
例として、第2楽章の「血の日曜日事件」を描写したとされる部分を挙げます。この楽章のちょうど中間あたり、ミュートをつけた弦楽器の不気味なトリルの上で、二本のトランペットが弱音でファンファーレを吹いたあと、突如、小太鼓の連打が静寂を破り、続けて弦楽器が激しいフガートを展開するところ。一発の銃声を号令に、軍の兵士たちが民衆に向けて銃を乱射するのを描写したと思われる場面です。
弦楽器の弓の毛が木の部分と擦れ、ガリッ、ガリッと軋みを上げる音がオーケストラのあちこちから聴こえてきて、一人一人の奏者が弓に高い圧力をかけ、楽譜の指示通りマルカートで鋭く撥音しているのが分かります。しかも、弓が弦の上で暴れないようデタッシェ気味に弾かせた上で、すべての音に明瞭なアタックをつけているので、響きの実体が痩せることはまったくない。引き締まった早めのテンポの中で、異様なほどに高いテンションと、ずしりとした重量感をもった音の塊が積み重なっていきます。
まるで、演奏者たちが1905年1月9日のサンクトペテルブルグの事件現場にタイムスリップして、降り注ぐ銃弾の雨のなか生きるか死ぬかの瀬戸際のところで弾いているかのようです。音楽に向き合うスクロヴァチェフスキと読売日響はいつだって本気に違いありませんが、この部分での本気の度合いは並外れたものです。
勢い余ったのか、フガートに入った直後、低弦のみが弾くパッセージで珍しくアンサンブルが一瞬乱れています。すぐに持ち直して鉄壁のアンサンブルが繰り広げられますが、僅かな乱れをきっかけに音楽の孕む緊張がさらに高まっているのがひしひしと感じ取れます。この演奏会を実際に聴いていないので想像に過ぎないのですが、練習のときに見せなかった何ものかがスクロヴァチェフスキの指揮に現れてオーケストラを奮い立たせ、何人かの奏者が思わず前のめりになってしまったのでしょうか。
崩壊のリスクを冒してでも激しい表現へと自らを駆り立てるパッションと、音楽のかたちを崩すまいと土俵際で踏みとどまろうとする強靭な意志がせめぎ合う、スリリングな展開を聴いていると、思わず「事件は楽譜の中で起きているんじゃない、いまこの舞台の上で起きているんだ!」と叫びたくなります。
以降、音楽は錯綜の度合いを深め、カタストロフへと直進します。打楽器群の痛烈な連打にのせて、オーケストラが作曲者自身の旧作「帽子をぬごう」の旋律を叫ぶように歌う。高揚が頂点に達し、打楽器だけが残ってひとしきり大暴れしたところで音楽は突然断ち切られ、弦楽器の最弱音のトリルが戻り静寂が再び訪れる。ただし、今度は、真っ赤な血と、哀しみ、そして絶望に塗りつぶされて。
この暴力的としかいいようのない苛烈な音楽を、スクロヴァチェフスキと読売日響はフガートでの尋常ならざる緊迫感を維持したまま演奏しています。
それは、困窮する生活改善を求めた民衆の歌が、国家権力の暴力によって押し潰されていくさまを第三者の視点で描写した音楽ではなく、無慈悲な一斉射撃の中を逃げまどい、銃弾に倒れ、なぜ?と自問しながら死んでいった人たちの視点で描かれた第一人称の音楽として鳴り響いています。そして、身がちぎれんばかりの切実な痛みに満ち、怒りに肩を打ち震わせるエモーショナルな音楽として。
激しい怒りが噴出する音楽が聴こえてくるのは、この第2楽章に限りません。第1楽章の宮殿広場の不気味な静けさを描写した音楽から、死者を悼む革命歌「同志は斃れぬ」が慟哭とともに歌われる第3楽章、そして民衆の固い団結と捲土重来を誓う警鐘が鳴り響くフィナーレまで、音楽の主体は、一瞬たりとも弛緩することなく怒り続けています。
その怒りとは、誰の何に対するものなのでしょうか。非人道的な虐殺に対する民衆の怒り、それと同じ視点に立った作曲者の怒り、その作曲家のまなざしに共感する指揮者の怒り。あるいは、いくつもの怒りが集光レンズの焦点に集まって、音楽に炎をつけているのかもしれません。
正直なところ、最初にこの演奏を聴いたとき、音楽を理性的に厳しく造型する名人というイメージの強いスクロヴァチェフスキが、野放図に感情を爆発させた演奏では決してないにせよ、こんなにも人間くさいものを音楽に持ち込むことがあったのかと驚愕しました。
それは私が音楽の中に聴きたいものを都合よく聴きとっただけのことだろうかと少々不安に感じながら考えているうち、少し前に見たポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダの遺作「残像」の中で、主人公の前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893~1952)が言ったセリフを思い出しました。
「ものを見ると目に像が映る。見るのをやめて視線をそらすと、今度はそれが残像として目の中に残る。残像は形こそ同じだが『補色』なんだ。残像はものを見たあと網膜に残る色なんだよ」
この言葉を適用するなら、最初スクロヴァチェフスキらしからぬとさえ思ったエモーショナルな音楽は、何かの残像だったということなのかもしれません。その残像の色のあまりの眩しさ、鮮やかさゆえに、本来、最初に目に入っていたはずの実体の姿に気づけなかった。
その「何か」とはいったい何だろうかとさらに考えていくうちに、私がたどり着いたのは「良心」という言葉でした。「残像」の主人公ストゥミシェンスキとワイダ監督、ショスタコーヴィチ、スクロヴァチェフスキ、この人たちの行動や作品に共通して見いだせるものが「良心」だったからです。
社会主義リアリズムを掲げ芸術家の創作活動を制限する国家に抵抗し、最期まで芸術家としての誇りを捨てなかったストゥミシェンスキ。権力によって踏みにじられた芸術家の姿をスクリーンに焼きつけたワイダ。国家権力の国民へのテロに対する怒りと、失われた貴い命への慟哭を音楽に表現したショスタコーヴィチ。高い職業倫理を守り抜き、オーケストラから高い水準の音楽を生み出すスクロヴァチェフスキ。
これらの卓越した芸術家の作品や行動は、すべて彼ら自身の良心から生まれたものなのではないかと思ったのです。そこには、思想もイデオロギーも革命も介在しません。あるのは、普遍的な次元にまで高められた一人の人間のパーソナルな感情や思考であり、より善きものを希求する良心なのです。
スクロヴァチェフスキの猛烈にエモーショナルな演奏は、作曲家が音楽に込めた個人的で強い感情は、歪めることなく表現し尽くさねばならないという良心に基づいたものなのだと思います。その結果、作曲家のパーソナルな思いは、作曲家から演奏家、演奏家から聴き手という伝送経路の中で一切の損失なくそのまま伝わり、私という聴き手の内側にある良心を激しく揺さぶった。
そう考えると、スクロヴァチェフスキはどんなときも倫理的な指揮者、音楽家であり続けていたのであって、この演奏はむしろ彼の倫理性がもっともよく表れた演奏だと言って良いのかもしれません。
スクロヴァチェフスキが身をもって示した「良心」の背後に、彼自身の戦争体験や、この交響曲との関連が噂されるハンガリー動乱などの時代背景を重ね合わせることも可能かもしれません。でも、それを探ること以上に大切なのは、音楽家たちから受け取った「良心」を、今度は私たち聴き手が引き継ぎ次の世代へとさらにバトンタッチしていくことなのではないかと、聴くたびに襟を正されるような思いがします。
そのためには、自らの内なる良心の状態を今一度たしかめ、それは公平な目で見て真に良心たり得ているのかと問いを立て考える、それこそが何よりも優先されなければならない。この演奏は私にそう語りかけてくるようです。
なぜか革命という言葉を毎日のように耳にする昨今、良心に基づかない偽の革命を見抜く力をつけ、自らの身を守れるようにするためにも、この音楽にじっくりと耳を傾けたいと思います。
ところで、このアルバムには、同じ作曲家の交響曲第10番の演奏も収録されています。彼の通算三種目のディスクとなる十八番の曲ですが、こちらも素晴らしい演奏です。曲の性格もあって第11番のような激烈な表現は少なく、古典的ともいえる端正なたたずまいをもった格調高い演奏なので、より多くの聴き手に受け容れられるのかもしれません。
しかし、私が11番を偏愛していることを差し引いたとしても、芸術家、音楽家、そして人間としての倫理をまっとうしたスクロヴァチェフスキの鮮烈な「残像」のひとつとして、そして偉大な芸術家たちが発した良心の声の痛切な「残響」として、この演奏が一人でも多くの方に聴かれますようにと願いながら文を閉じることとします。