若きサックス奏者、上野耕平がJ.S.バッハの無伴奏曲に取り組んだ新盤「ブレス – J.S.バッハ×上野耕平–」のオビには、こんな宣伝文句が躍っています。
「クラシックを超えた究極の音楽」
バッハが生きた時代にはまだ影も形もなく、ポピュラ-の分野で聴く機会が断然多いサックスで、クラシック音楽の「聖典」と称されるバッハの名曲を演奏する。そんな前代未聞の挑戦を成功させた驚異的なアルバムなのですから、ジャンルの垣根を「超えた」ものであるのは間違いないし、「究極の音楽」という力こぶの入った言葉も決して大袈裟ではありません。
でも、私の印象は少し違います。クラシックを超えたというよりむしろ、クラシックの王道、ど真ん中を往くアルバムだと思うのです。クラシック・ファン、特にバッハ好きにはこたえられない魅力をたっぷりと湛えたものではないかと。
上野耕平のバッハの最大の特徴は、「歌うバッハ」であるということです。
例えば、アルバム冒頭の無伴奏チェロ組曲第1番の1曲目、プレリュ-ドの最初の部分を聴けば分かるとおり、上野はト長調のアルペジオの音型を、フレ-ズを長くとって実にのびやかに歌っています。
録音会場となった教会の長く豊かな残響の中で、バリトン・サックスのノンヴィブラ-トの音が積み重なり、なだらかな旋律の稜線を描きながら果てしなく広がっていく。そのさまの何と美しいことでしょうか。
石造りの大聖堂のひんやりとした空気が、一本のサックスが奏でる歌で満たされていく光景が目に浮かぶようです。その歌は、まるでステンドグラスから差し込む陽光のように、柔らかい彩りがあり、あたたかくて、優しい。
同じ組曲のゆったりした曲調のアルマンドやサラバンドでも、そして、ク-ラントやメヌエット、ジ-グといったリズミカルな曲でも、上野は歌を忘れることはありません。スピ-ドに頼ることなく、落ち着いたテンポのなかでリズムを生き生きと躍動させながらも、隙あらばといった趣で、とにかく歌う。
こんなふうに「歌うバッハ」を心ゆくまで満喫できる演奏は、最近では珍しい。
バッハ演奏の主流となった古楽のスタイルでは、「歌う」ことよりも「語る」ことに重点が置かれているからです。朗々と旋律を歌うバッハは流行遅れで、誤りとさえ言われることもある。そのためか、現代の演奏家は、バッハの旋律を歌うのを恥じているかのようにさえ思えます。
だから、切れ味鋭く、疾走感溢れるスリリングな演奏を見つけるのは至って簡単ですが、流麗でのびのびと歌うバッハにはなかなか巡り会えないのです。オ-ルドファンよろしく、みんな歌を忘れたカナリアになってしまった、などと嘆いてみたくなるほどに。
でも、旋律楽器であるサックスでバッハを演奏するとき、「歌う」ことからは逃げられません。美しい旋律を美しく歌うことでこそ、サックスという楽器の魅力が十二分に発揮できるからです。
ならばとばかり、上野は、楽譜に書かれたあらゆる音を、臆することなくのびのびと歌っています。
その「歌」は、かつて主流だったスタイルへの懐古趣味から生まれたものではないし、べっとりと感情を塗りたくったような暑苦しさとも無縁。大衆受けを狙って、ポピュラ-音楽の流儀を持ち込んで奏でられたものでもない。
あくまでも、かっちりと保たれた様式感の中で、節度と気品を保ちながら流れていく歌であり、みずみずしい感性の息吹に満ちあふれ、スマ-トで洗練された歌です。バロックの時代に生まれたバッハの音楽が、紛れもないバッハの音楽として鳴り響くための要件をすべてクリアした上で、このように歌に溢れた演奏が生み出されているのです。
ああ、こんなふうに思い切り良く歌うバッハを聴きたかったんだと快哉を叫ぶバッハ好き、あるいは、きちんとした様式感をもったバッハの演奏を聴いて初めて、サックスという楽器の魅力に気づくクラシック・ファンは、私以外にもきっとおられるはずだと思います。
だからこそ、彼のバッハの持つ魅力は、クラシック・ファン、バッハ好きにこそ、ストレ-トに伝わるのではないかと私は思うのです。
上野耕平の「歌うバッハ」の魅力は、無伴奏チェロ組曲以上に、無伴奏フル-トのためのパルティ-タで、より深く味わうことができます。
何よりも、ソプラノ・サックスのあまりにも美しい音色に耳を奪われてしまいます。
ぱっと聴くと甲高くて鋭いオ-ボエの細身の音色と間違えそうになりますが、豊かな倍音をまとった音は、クラリネットの柔らかく太い音色が混ざっているようにも、両者がユニゾンで吹いているようにも聴こえる。あるいは、「トリスタンとイゾルデ」で牧童が丘の上で吹く角笛、教会に響くオルガンの単音、山にこだまするアルペンホルンに似た響きを聴きとることもある。
時々刻々とその姿を変えていく多彩な音色が、微妙な陰影をつけながら、流れ出る歌に深みと奥行きを与えていく。この曲は、フル-トではなく、ソプラノ・サックスのために書かれたのではないかと、現実にはあり得ないことを考えてしまうほどに、曲想にマッチした音には陶然と聴き入るしかありません。
多彩なのは、音色だけではありません。ア-ティキュレ-ションの多彩さ、そして明晰さにも目をみはるものがあります。
例えば、ゆったりとした曲では、こんな場面に何度も遭遇します。
低い音は、オルガンのペダル音のように重みをつけ広々と鳴らす。音が高くなるにつれて、音量を抑え気味にして、音を上昇気流に乗せるように軽やかに響かせる。
長い音符はまっすぐに解き放ち、その響きが広い空間の隅々にまで沁みわたるのを見届けたところで、次のフレ-ズを続ける。短い音符は、弦楽器奏者が弓を返すような感じでタンギングしてアクセントをつけ、スラ-のかかった音、レガ-トの中の音とはっきりと差異化する。
アップテンポでノリの良い曲では、ここぞというところで固くて鋭い音を響かせ、音楽の流れに楔を打ち込む。同時に、その前後で強弱を微妙に変化させて段差をつくり、大小のうねりを生みだしながら音の空間を広げていく。そして、一つ一つの音型の持つ数学的な構造の美しさや、原曲の楽器の成り立ちを生かした音の組み立ての面白さ、曲全体を支配する理路整然とした秩序を明らかにする。
このようにして、一つ一つの音の抑揚を明確につけ、旋律の中でたしかな起伏を生み出していく。
それがあたかも音楽が欲したものであるかのように自然に、濃やかなニュアンスを与えられた音は、次第に何がしかの意味を孕み、その繋がりがやがて言葉へと転化していく。
勿論、それは錯覚です。音の背後に見え隠れする言葉は、作曲者の感情や思考を言語化したものではない。純粋な音のオブジェとして構築されたものです。
それでも、次々と立ち現れる「言葉のようなもの」が、まるで対話のように絡み合いながら音の時空を構築していくさまに触れていると、この音楽が、私という聴き手に何かを語りかけ、問いかけてくるような気がしてくるのです。
「歌」と「語り」が分かちがたく結びつき、聴き手に問いを投げかけてくるような音楽。
そのありようは、アルト・サックスで演奏した無伴奏ヴァイオリンのためのパルティ-タ第2番にこそ最も相応しい。もともとが対位法的な音の構築を盛り込み、複数の声部が織りなす対話を内包した曲だからです。実際、上野は、他の曲以上に「歌」と「語り」を強く結びつけて演奏しています。
しかし、サックスという楽器で、それを成し遂げるのは並大抵のことではありません。長いフレ-ズでは途中で息継ぎをせねばならないなどのハンディを課せられる上、厳しいリスクを背負って演奏せねばならないからです。
例えば、原曲の調性を変えずに吹こうとすると、アルト・サックスでは吹けない高音が出てくる。問題を解決するためにフラジオレット奏法を使うと、今度は指使いが非常に複雑になり、しかもそれを早いテンポで演奏する場合には、楽器に高い負荷をかけてしまう。
事実、リ-ドミスが起きる寸前のスリリングな音が聴こえてくる場面があります。酷使された楽器が悲鳴を上げているように思える箇所さえある。
しかし、そうした過酷な状況でもなお、上野耕平はバッハの音楽から歌と言葉を掬い取り、楽器の性能の限界に挑みながら、それを美しい音へと結晶化させています。彼の技術の高さと、バッハの音楽のスタイルへの洞察力の深さに感嘆するとともに、その真摯で厳しい音楽への立ち向かい方に胸を打たれずにはいられません。
特に、有名な「シャコンヌ」では、様々な技術的困難を着実に解決しながら、強靭な精神力をもって、音楽をゆるぎなく構築していくさまには凄みさえ感じます。上野を「サックス奏者」というより「バッハ弾き(吹き?)」と呼びたくなるほどに、バッハらしいバッハを聴いたという実感が得られます。
上野耕平の演奏するバッハには、もう一つ、私の心を捉えて離さないものがあります。
それは、音楽に込められた「情感」です。辞書で言うところの「人の心に訴えるような、しみじみとした感じ」。それが、いい。
特に、無伴奏フル-トのためのパルティ-タでの、孤独の影を宿したような寂莫たる歌。そこには、「もののあはれ」という言葉を想起せずにはいられないような、儚さ、切なさがある。私は狂おしいほどに惹かれています。
上野は、サックス独特の哀愁に満ちた音色を生かし、特にフレ-ズの切れ目で音が消えていく過程をとても大事に演奏している。そのことが、音楽に深々とした情趣を与え、私の心に何がしかの感慨をもたらすのでしょうか。いずれにせよ、それはただ一人、上野耕平というサックス奏者のみが醸し出すことのできる「情感」に違いない。
私は、その心の襞にじんわりと沁みわたるような情感を味わうことに、無上の喜びを感じます。
昨今、私たちが生きる社会では、むき出しの感情ばかりが幅を利かせるようになりました。情感とか、情緒、情趣というようなもろもろは、とかく粗末にされてしまっています。その末、日常生活の中では何もかもが忙しなく動き回り、どこか苛立った空気が蔓延しています。
そんなギスギスした世界から抜け出したくなったときに、この美しい情感に満ちた上野のバッハが聴きたくなる。そのしみじみとした佇まいの中にどっぷり浸っていると、ささくれだった心が潤い、生き返ったような思いがする。あなたの願いは?と誰かに質問されたら、迷わず「世界平和」と答えられるようなピュアな心をもてそうな気がしてくる。
そんな時間を過ごしていると、このところ悪者にされがちな情感や情緒は、人間性を保つためには必要なものなんじゃないかと思えてきます。
まだ二十代の若い演奏家から、こんなにも情感を大切にした演奏が生まれてくるのは、今の時代への、あるいは我々年長者への、優しい異議申し立てなのでしょうか。
もしそうだとすれば、これは実はものすごくロックな精神に貫かれたアルバムなのかもしれません。最初にご紹介したオビの「クラシックを超えた究極の音楽」という言葉はなるほど正しい、とそんなふうに思えてきます。無論、これがクラシックの王道を往く音盤であるという私の確信は、一ミリも動かないのですけれど。
上野耕平の、歌い、語るバッハを聴かれた皆さんは、いったいどんなものを聴きとり、どんなイメ-ジや思いを抱かれたでしょうか。これからアルバムを手にとって聴かれる方々も、彼のバッハに何を思われるでしょうか。多様なご意見に触れてみたいところです。
たわいもないおしゃべりが過ぎました。今回はこのあたりでお開きとします。
こんなに素晴らしい演奏を聴かせてくれた上野耕平、この次のアルバムが楽しみですし、バッハの無伴奏作品も、まだ少なくとも10曲は残っていますから、是非とも続編を聴きたいものです。