音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.56

クラシックメールマガジン 2018年3月付

~音盤を抱け、町へ出よう ~ 「ハルモニア」朴葵姫(g)~

朴葵姫の、フルアルバムとしてはほぼ3年ぶりとなる最新盤「ハルモニア」がリリースされました。
今回のアルバムは、ギタリスト・コンポーザーの作品集というのがコンセプト。先年惜しくも亡くなったロラン・ディアンズを始め、セルジオ・アサド、アンドリュー・ヨーク、ケヴィン・カラハン、渡辺香津美と押尾コータローの曲が収録されています。
そのうち、渡辺の「ペガサス」と押尾の「ハルモニア」の二曲は、彼らを尊敬する朴自身の委嘱により、このアルバムのために書き下ろされた新作です。
朴葵姫が、その卓越した技術を惜しみなく注ぎ込み、選曲や曲順にも気を配り、手間隙かけて作った渾身の音盤。三年の間に磨きをかけた彼女の演奏技術の高さと、いまの時代で息をしている音楽の呼吸や脈動が、優秀な録音も相俟って、生き生きと伝わってくる。
撥弦楽器とは思えない柔らかくしなやかなギターの音色。一瞬の弛みもなく紡ぎ出される時間の流れ。息を呑むほどに絶妙のグルーヴ感。時に特殊奏法を伴い、切れ味鋭く楔を打ち込む強烈なビート。豊かなニュアンスと深い共感をこめて奏でられるあたたかい歌。
汲めど尽くせぬ味わいがあって、まったく聴き飽きることはありません。
この「ハルモニア」について、朴葵姫がこんなことをインタビューで述べています。
「部屋の中でも野外でも、自然に聴けるアルバムになったと思います」
演奏家自身が、自分のアルバムが野外で聴かれることを想定し、聴き手に向けて、むしろ外でも聴いてくださいねと言わんばかりの発言をしている。音楽を聴くにはおよそ不向きな騒然とした状況で、気楽に聴き流されてしまうことへの嫌悪や違和感はなさそうに思える。
これだけ充実した作品なのですから、作り手側の立場に立って考えれば、聴き手にはできるだけいい環境で、いい音で、自分の作品を聴いてほしいと願うのではないかと思うのですが、どうやら少し事情が違うらしい。ちょっと意外に感じました。
でも、よく考えてみると、彼女が、自作が外で聴かれることを許容しても不思議はなく、その言葉は、とりたててどうこう言う種類のものでもないのかもしれません。
なぜなら、私たちの生活のなかで、音楽を部屋のなかで聴くことと、野外で聴くこととの境界線は、年々曖昧になってきているからです。テクノロジーの進歩によって、音楽を携帯することは格段に容易になったし、野外でもそれなりに高品位な音で聴けるようになった。私たちは、常に自宅のリスニング環境を持ち歩いていると言えなくもない。
たぶん、彼女も、我々聴き手と同じく、日常的に音楽を野外で聴いていて、インタビューでの言葉も、聴き手の側に立って発せられたものなのでしょう。
ですが、私は、彼女の「野外でも自然に聴ける」という言葉に、ちょっとこだわっています。
決して悪い意味ではありません。むしろ、「野外でも自然に聴ける」ということが、この「ハルモニア」というアルバムの魅力とは何かを考える上で、とても大切なことだと感じているのです。
私自身、このアルバムを、散歩や通勤のお伴として、毎日聴いています。音楽鑑賞には適さない環境で雑に聴くことへの罪悪感、申し訳なさを感じつつも、ただひたすら朴葵姫の音楽が聴きたくて、スマホアプリの再生ボタンをタップしています。
ですから、彼女の「部屋の中でも、野外でも自然に聴ける」という言葉に、私は頭を地面にぶつけそうなくらいに深く、激しく頷いたし、いつも感じていた胸のつかえがとれたように思えて嬉しかった。
彼女の言葉を免罪符として言いますが、野外で聴く「ハルモニア」には、格別の味わいがあります。
例えば、海辺の公園の芝生に腰を下ろし、海風を頬に感じながら、真っ青に映える海のさざ波と、空をふわふわと流れていく雲を眺めて、聴く。ふらりと立ち寄った、見知らぬ街の風景にワクワクしながら、聴く。会社帰りの電車で、我が身の至らなさを噛みしめつつ、車窓を流れていく街の灯りと、その背後に広がる夜空を見ながら、聴く。
そのときどきで私が目にしているのは、ごくありふれた日常の風景です。会社と自宅の往復と、せいぜい週末に近所を散歩する程度の、日々の単調な繰り返しのなかで何とはなしに目にしている光景も、「ハルモニア」の音楽を聴いていれば、心なしか輝いたものに見えてくる。
音楽が、平凡な日常の光景に爽やかな風を吹き込み、都会に潜む洗練されたビートを抽出し、私の心を大きく包み込む自然のあたたかさを伝える。あるいは、生きる喜びに満ちた光を射し込み、夜空のはるか向こうにある星々の物語を紡ぐ。
そんな生き生きとした幸福な時間をまた味わいたくて、私は、この音楽を持ち運びんでいるのです。
持ち運びたくなる音楽であるということは、すなわち、それは「持ち運べる音楽」であり、「持ち運びやすい聴き方ができる音楽」であるということに他なりません。
野外では、そこに本来含まれているはずの情報がたくさん抜け落ちた状態で、音楽を聴くことになります。そのとき、屋内であればちゃんと感知できていたものを、頭で補いながら聴くか、それがもともと存在しなかったとして、音楽の表層だけを撫でるようにして聴くしかありません。
その点、「ハルモニア」というアルバムは、情報の多くが欠落した状態で聴いても、音楽のエッセンスのようなものはまったく損なわれることはないのです。それどころか、散歩や通勤の道すがら、野外で聴かなければ得られないような、特別な体験を与えてくれます。
どうしてそんな不思議なことが可能なのか。それは、彼女の演奏のもっている「多層性」ゆえのものだと思います。
音楽を、いくつかの層が積み重なってできたものと見立ててみます。純粋に技術的な要素で成り立つ層、複数の音のつながりや全体の構造に関わる層、人間の思考や感情を表現する層。それぞれの層は、さらにもっと細かい層に分けることもできる。
音楽家が曲を演奏する場合も、私たちがそれを聴く場合も、人は音楽の階層構造をさまざまな角度で切り、その断面に見える地層の模様を楽しんでいるのかもしれない。切る角度や深さによって見え方も変わり、そこに共感や議論が生じることもある。
朴葵姫は、音楽の持つ層一つ一つを、美しく描き切っている。しかも、どんなふうに切られても断面が美しくなるように、音楽の層構造を確実に把握し、層同士の関連も計算に入れて、全体を緻密に構築している。
だから、聴き手は、部屋でも、野外でも、そのときどきにできる断層の景色に、思いがけない美しさや面白さを見いだすことができる。
こうして、「持ち運びやすい音楽」ができあがり、私は「ハルモニア」というアルバムを常に持ち運び、存分に楽しんでいる。生きる糧というか、常備薬というか、暮らしの伴走者というか、そういう位置にあるといっても過言ではないくらいに。
それにしても、何とチャーミングな曲たちの、何と魅力的な演奏でしょうか。野外ではなく、自分の部屋でじっくり聴いても、ため息が出るくらいに魅了されますし、聴けば聴くほどに味わいが増すような気がします。
例えば、押尾コータローの「ハルモニア」。ぽかぽかした春の陽射しの下で、愛しい人と微笑みを交わすような幸福感に溢れた小品を、彼女は、まるで自身のポートレートのごとく、可愛らしい雰囲気をふりまいて弾いています。
ところが、実際のところは、その曲想とは裏腹にかなりの難曲らしい。先日、紀尾井ホールで開かれたリサイタルでも、彼女は、この曲は右手が鬼のように難しいと言っていました。
なるほど、右手はストリングヒット奏法を使ってビートを刻み、左手は頻繁にハーモニクス奏法と通常奏法を行き来しながら、それでもなお、ほのぼのとした「ゆるふわ」な音楽の持ち味を壊さないで弾くことは、至難の技に違いない。
彼女の言う通りに、そこに鬼はいて、にこやかに笑みを浮かべているのです。どこに鬼がいるのか尋ねたくなるほどに、彼女が淡々と弾いているので、気づきにくいだけ。
同様のことは、渡辺香津美の「ペガサス」にも言えます。この曲では、特に特殊奏法がある訳ではなく、音遣いにも晦渋なものはありません。コンパクトでシンプルな作りの、とても聴きやすい音楽。彼女も、演奏会で何の困難もなく易々と弾いているように見えたし、ラプソディックにして詩的な音のドラマの展開に身を任せているだけで、この上もない幸せを感じます。
でも、何度も繰り返して聴くうち、この一見、平易で親しみやすい音楽が、どれだけ大きなものを演奏家に要求しているかが、ひしひしと感じられるようになりました。
例えば、曲の途中で、朴の得意なトレモロ奏法が出てきます。それは先輩ギタリストから委嘱者への忖度などでは決してなく、彼女がこの部分を全体の中でどうやって輝かせるか、作曲家自身が聴きたくて挿入したもののように思える。これもまたなかなかの難問。
この曲には、演奏家の楽器を弾く技術だけでなく、ストーリー展開力や構築力、そして何より想像力を試し、「これ、きれいに弾けるかい?」と挑むようなところがある。
やはり、ペガサスという名の天馬には、鬼が乗っているのです。でも、彼女は絶対に私たち聴き手に鬼の存在を感じさせない。目を凝らして鬼を見つけ出せば、朴の演奏を聴いてニコニコしている姿が見える。そんな図式がここにもある。
この新作二曲だけではない。このアルバムに収められているのは、自身が卓越したギター奏者が書いた曲ばかりですから、そのどれにも手強い鬼がいる。でも、どの曲の鬼も皆、まるで隠れんぼでもしているかのように、姿が見えない。
それは、朴葵姫が、その曲がいかに難しいか、ではなく、それがいかに魅力的な音楽であるかを私たち聴き手に伝えたい一心で、ギターを奏でているということの表れなのかもしれません。
例えば、腕に覚えのあるギター弾きなら誰もが弾く、ディアンズの人気曲「フォーコ」。
敏捷な音の動き。大きな跳躍。激しいリズムの応酬。複雑な音の組み合わせの中に浮かび上がるビート。そんな難しい局面に遭遇して、彼女はむしろ冷静になる。厳しく、頑ななまでに音楽の姿勢を一定に保ち、何事もなかったかのように涼しい顔で駆け抜けていく。曲の終盤、ほんのちょっとヴォルテージを上げて、聴き手の興奮を誘うあたりの手際も実にクール。
きっと、それを実現するには、常人に考えつかないような鍛練と、持って生まれた才能が必要なはずです。しかし、彼女は、そのことを聴き手には意識させまいと努めているように思える。
彼女のそんな姿勢のおかげで、音楽の鼓動や息遣いが、聴き手にダイレクトに伝わってきて、曲の盛り上がりにつれて肚の底からエネルギーが湧いてくる。そのとき、弾き手と聴き手の間で、音楽の根源的な生命を共有することができていると言えます。
カラハンの「リバーベッド」や、アサドの「フェアウェル」といった静かな曲でも、「秘すれば花」という言葉とも相通ずる、彼女の透徹した美意識を感じとることができます。
痛みを心のずっと奥の方に押し隠したような哀しみや感傷は、持ち前のなめらかなレガートと、モノクロ写真のような陰翳をたたえた抑えた音色によって、ニュアンス豊かに表現されている。でも、いつも、心の襞の奥深くに沁み入るような歌が前景にあって、演奏者が駆使する技術はここでも、慎み深く背景へと押しとどめられている。
そうした彼女の細やかな気遣いがあるからこそ、私たち聴き手は、日々の暮らしの一部として、彼女の音楽をいつでもどこでも楽しむことができているのかもしれない。
そう考えると、私の目の前に広がる日常の風景は、朴葵姫が音楽の背後へと隠したような非日常的なものから出来上がっていて、私はそのことに気がついていないか、気づかないふりをして生きているのかもしれない。
であるならば、日々の暮らしの背後にあるものに思いを馳せ、何でもない当たり前の日常が、当たり前に存在してくれることのありがたさ、大切さを噛みしめながら、「ハルモニア」を持ち運んで聴き続けていきたいと私は思います。
そして、朴葵姫が、これからも、私たちの日々の暮らしを彩ってくれるような、そして持ち運びたくなるような音盤を届けてくれることを、心の底から楽しみにしています。
さあ、音盤を抱け、町へ出よう。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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