音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.57

クラシックメールマガジン 2018年4月付

~幸福なレコード芸術 ~ モーツァルト/ピアノ・ソナタ全集 マリア・ジョアン・ピリス(P)~

記憶の限りでは、私がクラシック音楽を聴き始めた頃、マリア・ジョアン・ピリスがDENONレーベルに録音したモーツァルトのピアノ・ソナタ全集は、1枚ずつ順次発売されていたところでした。音盤と言えば、まだLPしかなかった時代のことです。
ピリスは、1974年1、2月に、ただこのレコーディングのためだけに来日。東京のイイノホールでセッションを組んで、LP8枚分を一気にデジタル(PCM)録音しました。
このアルバムは海外でも発売され、1977年のフランスADFディスク大賞、1980年のオランダのエディソン賞を受賞するなど高い評価を受けました。当時はまだ無名だった若いピアニストの国際的なキャリアは、ここから始まったと言っても過言ではありません。
そんな事情もあり結構な評判になったディスクですから、その頃、レコード屋さんや音楽雑誌などで、頻繁に広告を目にしたのをよく覚えています。
でも、当時小学校の低学年だった私には、一連のピリスのレコードは、どこか近寄りがたいものに感じられました。
LPのジャケットは、どれもピリスの写真でした。当時30歳を迎える直前だった彼女は、ショートカットで、「フィガロの結婚」に出てくるケルビーノみたいなボーイッシュな容姿。彼女が、セーターとジーンズというシンプルないで立ちで、ピアノに向かう姿が写されていますが、その表情は物思いに沈んでいて、哀しげな目をしています。
子供心ながらに、この女性は、なぜこんなに悲しそうな顔をしているのか、一日のうちに笑うことはあるのだろうかと、何だか気の毒になりました。そして、自分もその遠い視線の先へと吸い込まれてしまいそうな気がして、このレコードを目にしても視界から外すようになっていました。
そんなどうでもいい記憶が邪魔をして、このピリスのモーツァルトとは出会えないまま、私は大人になってしまいました。ふと思い立って5枚組のBOX (COCQ-84115~9) を買い求めたのも、まったくお恥ずかしい話なのですが、つい最近のことです。
聴いてみて、後年の再録音とは別人かと思うほどに、シンプルで、小じんまりとした演奏に驚きました。そして、身の回り半径3mほどのナロウな音楽が、心に沁みました。
全体に、強弱も、表現も、振れ幅は控えめ。予め自らが決めたエリアの中では精一杯動き回るけれど、そこから敢えて歩み出ることはしない。ただ自分の近くにいる僅かな人に言葉が伝われば良いとばかり、内向きでポエティックな呟きを小声で紡ぎだす。
閉じた狭い空間の中では、音楽を飾り立てることも、自らの言葉を増幅して拡散させることも必要ない。すべての音は、自らの心の奥底で生まれ、ごく自然にわき出るものであり、日常の暮らしの中で生まれるパーソナルな思考や感情を昇華したもの。そこでは、虚飾のない、たしかな実感に貫かれた真実の声だけが響いている。
ただ単純に、端正で小綺麗にまとめたというような類の演奏ではない。思いのすべてを告白し、他者から共感を得たいという、やむにやまれぬ表現意欲と、そう易々と自らの内側を見抜かれてたまるものかという頑な意志とが、微妙なバランスの中で葛藤し、均衡しながら、胸が痛くなるほどの切実さを孕んだ音楽が生み出されていく。 本当は人と繋がりたい。だけれど、傷つくのが怖くて、つい自分の殻にこもってしまう。そんな厄介な心模様を抱えて生きる私には、若き日のピリスの演奏から聴こえてくる、近しい距離にいる人にだけ、そっと胸のうちを打ち明けるかのような孤独なモノローグに、深く共感せずにはいられません。
確かに、録音から半世紀近く経った今聴くと、さすがに時代を感じる場面はあります。あくまで20世紀後半の音楽家の視点から「楽譜に忠実」たろうとするアプローチは、今の感覚では「18世紀しぐさ」的なものに思えてしまうのは致し方のないところ。
例えば、作曲者(もしくは校訂者)の強弱の指示は、厳密には守られていません。頻繁にフォルテとピアノが交錯する部分は、なだらかなクレッシェンドやデクレッシェンドに置き換えられているケースがあります。作曲家が意図したはずの刹那の面白さよりも、音楽の大きな構造の提示を優先するという価値観は、19世紀末のロマン派の音楽思想と通底するものには違いない。
しかし、ピリスがスタインウェイのグランド・ピアノを弾いているという点も含め、時代考証的な様々なちぐはぐを超え、このアルバムの演奏が私の心に訴えかけてくるのは、その本質にもっと普遍的な何かがあるからなのではないかと思います。
この演奏を聴いて、いつも私の心の深くに残るのは、ふとした瞬間に現れる翳りと、物思いに耽るような沈潜です。そう、あのジャケット写真に映されたピリスの表情やまなざしのままの音楽。
かつて、彼女が音楽雑誌のインタビューで言った言葉を思い出さずにはいられません。
「ああ、サウダーデ。これは他の言葉には訳せない言葉なのね。誰かがいない、何かが欠けている。人でもまた風景でも、自分の好きなものがここになくて、淋しさと憧れ、悲しみとある種の喜びを同時に感じる・・・それがサウダーデです」(『レコード芸術』1996年7月号)
続けて彼女は、それはシューベルトのピアノ・ソナタ第21番にこそ当てはまるのだと述べていましたが、このモーツァルトの演奏にも、彼女がいうところのサウダーヂ(=サウダーデ)がたくさん詰まっているように思えるのです。
ただ、この1974年の演奏にあるサウダーヂは、淋しさと悲しみの度合いが強い気がする。それは、小林秀雄が引用して有名になった、アンリ・ゲオンの「疾走する悲しみ」という言葉のような、どこか高踏的な感傷とは趣が違う。
例えば、録音当時、日本で流行していたフォークミュージックとか、先入観かもしれませんが、ピリスの故国ポルトガルの伝統音楽ファドの方が近い気がします。ファドは日本の音楽とも共通するところの多い音楽。ピリスと、私たち日本の聴き手は、もしかするとこのサウダーヂをもって、互いを理解し合えているのかもしれません。
これがあるから、ピリスのモーツァルトは、音楽のスタイルなど楽々と飛び越え、私のように時代を隔てて初めて出会う聴き手をも魅了する力を持っているのでしょう。長調の曲なのにどこか妙に哀しいモーツァルトのソナタ(特に晩年の曲)を弾くとき、演奏者の内面にサウダーヂという心のありようがはっきり認識されていることは、とても幸福なことであるはずです。
そんなことを考えながら聴いていると、ピリスのモーツァルト・アルバムのジャケットデザインを考えた人たちの気持ちが、少し分かるような気がしてきます。
ピリスの、化粧っ気もなくシンプルな服装で、構えた居住まいを見せることのない自然体の姿と、モーツァルトの音楽にある影の部分を見抜く鋭いまなざし、そして、それを深く感じとって深く共鳴する表情。それらすべてが揃ってこそ、ディスクに刻まれた音楽の内容を、一目でそれと伝わるように視覚化できるのではないかと思えるのです。
その意味で、このシリーズのジャケット写真は、誠に妥当なものだと今は思います。ベートーヴェン的に言えば「そうであらねばならぬ」というくらいに。子供の頃、身勝手に恐怖心を抱いてしまったことを、今、この場で謝罪せねばなりません。
ただ、残念ながら、現在クレストシリーズで発売されているCDのジャケットは、枚数が減ったこともあり、LPのそれとは全部同じ訳ではありません。裏ジャケットの写真にもいいものがあるので、何かのかたちで復活して頂けたらと思います。
こうして私は、ピリスのモーツァルトとようやく出会うことができました。
同時期にまとめて録音されただけあって、演奏には強い統一感があり、どれもおしなべて素晴らしいものだと思います。
そのうちどれか1枚を選べと言われれば、第12~14番と幻想曲を収めたVol.4(COCO-70697)を挙げます。特に、第12番でののびやかさの中に一抹の淋しさを宿した響き、第14番の抑えたパトスの表出が特に印象に残ります。
最後期の第15~18番を集めたVol.5(COCO-70698)も、モーツァルトの音楽の深まりが如実に感じられて素晴らしいし、Vol.3(COCO-70696)に収められた第11番の有名なトルコ行進曲でのゆっくりしたテンポ(当然、グールドのスローテンポとはまったく別物です)と、弱音を主体にした表現もユニーク。
普段あまり取り上げられない初期のソナタを収めたVol.1(COCO-70694)も、とてもいい。特に第2番の緩徐楽章、ピアノ協奏曲第23番の第2楽章を先取りするような哀愁漂う歌はピリスの独壇場。同曲のフィナーレでの、孤独な呟きも美しい。
一般的には、ピリスのモーツァルトのソナタと言えば、名盤の誉れ高い再録音盤があまりにも有名になってしまい、この旧盤はその陰に隠れてしまっていて、少し損な位置にあるのかもしれません。
でも、今は、たくさんの人たちが、SNSという電脳空間の中で言葉を呟きながら、結びついていく時代。そして、グローバルであることよりも、内向きであることの方が尊ばれる時代でもあります。
ならば、そんなコミュニケーションのありようが既に透けて見えるかのようなピリスのモーツァルトの旧盤は、むしろ若い世代の新しい聴き手には深い共感をもって迎え入れられ、長く聴き継がれていくような気がします。そうであってほしいという私の願望に過ぎないかもしれませんけれども。
ところで、ピリスは、昨年末のチューリッヒの演奏会を最後に、演奏活動からの引退を発表しました。70歳を過ぎてもまだまだ元気で、充実した演奏を聴かせてくれていただけに、当初の予定を繰り上げてのリタイア宣言は、驚きと寂しさをもって受け止められました。
しかし、4月に予定されていた来日公演は、彼女の強い希望により、スケジュールの変更なし(どころか追加公演まであり)におこなわれることも併せて報じられ、今、まさに各地でコンサートが開かれているところです。
これが彼女の本当の最後の演奏になるのかは不明ですが、一旦、終着地を定めた後で、改めて私たちに「さよなら」を告げに来てくれるのは、彼女が日本を、そして日本の聴衆を大切に思い、心から愛してくれているからに違いありません。インタビューで、若い頃に日本語を勉強しておけばよかった、そうすれば日本に住んだのにと言っていたのも、あながちリップサービスではない気がします。
そして、このモーツァルトのピアノ・ソナタ全集にも、彼女は特別な思い入れがあるのではないでしょうか。1973年の来日時、ほんの偶然から一枚のアルバムを録音し、そこから翌年の大プロジェクトへと発展。結果的に、それがピリスをスターダムへと押し上げる原動力になったのですから。もしかすると、東京での録音時にも、楽しく美しい思い出を多く持てたのかもしれません。
そう思うと、ピリスの才能をいち早く見いだして大抜擢し、その輝かしい成果を世界に向けて発信したコロムビアの「偉業」には、お世辞でも何でもなく、心から感謝するしかありません。
しかし、それ以上に、当時まださほど知られていなかったピリスを、レコードや演奏会を通してあたたかく迎えて応援した、私たちの先輩にあたる聴き手の方々にお礼を言いたい。
あなた方は、若くて未知数の多い演奏家を「まだまだ青いね」と突き放すことなく、未来に向かって共に育っていく存在として受け容れ、その演奏を熱心に聴いて下さった。だからこそ、今のピリスと私たちとの幸福な結びつきがあるのだと。
翻って、私自身も、気に入った若い音楽家の活躍をあたたかく歓迎し、次の、そのまた次の世代の聴き手に何か残したいものです。
ピリスの引退の理由の一つに、現在の音楽ビジネスの、経済効率優先の商業主義的な傾向への嫌悪、失望があると聞いています。彼女と音楽業界との間で、具体的に何があったかは知る由もありません。そもそもコマーシャリズムの介在なしに、音楽家と聴衆が結びつくことなど不可能です。しかし、身勝手かもしれませんが、せめて音楽家と我々聴衆の関係は、算盤勘定とは離れたところでピュアなものに保っていたいと願わずにいられません。
ですから、このピリスのモーツァルトの旧盤のように、演奏家と制作者、そして聴衆が、ただ、より良い音楽を追求するという思いで強く結びついた幸福な「レコード芸術」は、これからも大切にしていきたいと、もはや絶滅危惧種となりつつある音盤中毒患者は、そう考えるのであります。
これまで彼女の音楽から得てきたものを思い起こし、尽きぬ感謝の思いを胸に、ピリスの最後の来日公演を心して聴くつもりですし、これからも彼女の音盤を折に触れて聴き続けていきたいです。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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