音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.58

クラシックメールマガジン 2018年5月付

~トーキョーの純真 ~ 「新世界」、伊福部 バッティストーニ/東京フィルハーモニー交響楽団~

アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルハーモニー交響楽団による新しいプロジェクト“BEYOND THE STANDARD” が始動しました。これから2020年にかけて、スタンダードな名曲と、日本人作曲家の作品を組み合わせたアルバムを計5枚、セッションレコーディングしていくのだそうです。
シリーズ第一弾として、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」と、伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」、「ゴジラ」のテーマを組み合わせた一枚がリリースされました。
当盤については、コロムビアのホームページに特設コーナーができていて、錚々たる顔ぶれの方々がコメントを寄せておられます。片山杜秀氏の読みごたえのあるライナーノートと併せ、バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団の演奏の魅力や聴きどころは、あらかた言い尽くされているように思います。
しかし、私はこのディスクを聴いてしまいました。重大ニュースを尻目に悠然と時代劇を放映するテレビ局よろしく、賑やかなお祭りの横で素知らぬ振りをすることはできません。拙い言葉で屋上屋を重ねることになりますが、今月は、この話題沸騰中の新盤を取り上げさせてください。
ドヴォルザークの「新世界」は、胸のすくような快演でした。
やや早めのテンポを基本に、バネのきいたリズムと熱いカンタービレを武器として、この交響曲が内包する音のドラマを颯爽と駆け抜けていきます。
特に、両端楽章での、オーケストラの豪快な鳴らしっぷりと、思い切りの良い表現、第3楽章の、生命に溢れた舞曲のリズムのさまざまは、胸がワクワクするほどに愉しい。その一方で、第2楽章ではゆとりのあるテンポをとり、「家路」の旋律をたっぷりと歌って聴く者の郷愁を誘う。
耳に馴染んだ「新世界」を、こんなにも新鮮な気持ちで、夢中になって聴き入ったのは久しぶりのような気がします。稀代のメロディメーカーとして知られるドヴォルザークの、少ない素材だけで壮大な交響曲を構築する敏腕アーキテクトとしての側面と、彼の熟達した筆致に改めて気づかされました。
オーケストラも絶好調。熱い血潮のたぎるトゥッティの響きは充実の極みで、凄みさえ感じさせます。一方で、音量に拘らず、深い呼吸の中で奏でられる弱音は、のびやかさと豊かな質感があって惚れ惚れとしてしまう。
若い指揮者の持つ、とてつもないエネルギーとみずみずしい感性、そして、蜜月関係にあるオーケストラとのフレッシュな距離感が生み出した、まことに鮮烈な演奏と言えるのではないでしょうか。
この演奏で興味深く感じたのは、バッティストーニの楽譜の扱いが、古い世代の指揮者たちのそれを想起させる点です。指揮者が一定の範囲内で楽譜に手を加える自由を認め、今ここで鳴り響く音楽を再創造することに重きを置いているように思える。
最も象徴的なのは、第4楽章331小節目(トラック4:10分37秒)へのシンバル、そして、後半二つの楽章へのチューバの追加。前者はストコフスキー、後者は近衛秀麿の前例がありますが、シンバル追加の部分は、本家本元のストコフスキー盤よりも見事に決まっています。今後、ここでシンバルが鳴らないと物足りなく感じられるのでは、と心配になるほどに効果的です。
緩急にも、随所で独特の動きがみられます。特に、第1楽章コーダ前後(トラック1:8分09秒以降)での、メンゲルベルクばりの大きなテンポの伸縮には、誰もが驚くのではないでしょうか。実際のところは、メンゲルベルク盤ではこんなことはやっていないのですが。
そうかと思えば、タメを作らずストレートにクライマックスへ突入する場面も多く、その音楽の運びはスリリングで、まったく一筋縄ではいきません。
指揮者独自のスコアの読みにハッとする場面もあります。
例えば、第1楽章14小節目の頭(トラック1:1分26秒)での低弦の超弱音、第2楽章78小節目以降のチェロのトレモロを32分音符の刻みで弾かせる(トラック2:7分46秒~8分32秒)など、思わずスコアを見たくなるような場面があちこちにあります。
こうした演奏上の工夫は、どんな指揮者も大なり小なり実践しています。しかし、バッティストーニの驚くべきところは、すべてを確信犯的に白昼堂々やってのけ、一種のケレンとして大胆に見せていることです。往年の巨匠指揮者の名人芸や、歌舞伎役者の大見得に通じる古風な立ち居振る舞いが、音楽に斬新な響きと、ユニークな輪郭を与えているのは間違いありません。
しかし、そうした局面でも、音楽には、とってつけたような不自然さは微塵もありません。指揮者が独りよがりな解釈をオーケストラに押しつけ、強引に統御した形跡もない。音楽として一貫した自然な流れが常に保たれていて、演奏上の様々な仕掛けは必然のものだと感じられます。実際、スコアを見直してなるほどと頷くことも多い。だから、どんなに斬新な解釈が飛び出してきても、違和感なく聴くことができまるのです。
よりによって「新世界」という王道の名曲で、唖然とするほどに突き抜けたことをやって、それでいて立派な音楽にまとめ上げてしまうバッティストーニ。彼の大胆不敵さとバランス感覚には恐れ入るばかりです。
カップリングの伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」は、メインの「新世界」以上に激烈な凄演です。
西洋音楽を母胎に、北海道の先住民の言葉を母国語とし、土着の音楽を身にまとって生まれた交響曲。
そこには、21世紀を生きる日本人にとっての「音の原風景」がある。大自然の中を生きる人々の、日々の営みから生まれた歌と踊りが、管弦楽の響きの中で息づき、鼓動し、たしかなかたちを得て、生命の讃歌へと燃え上がっていく。
そのさまを、バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団は、喜びと愛情をこめて、熱く、生き生きと描き出しています。
両端楽章のクライマックスを聴いていると、じっと座っていられないほどに高揚してしまいます。特に、第3楽章の後半では、腹の底から訳のわからない未分化な感興がむくむくと湧きだしてくるのを抑えられません。
激しく叩きつける強烈なビート。アイヌの舞踏に由来するリズムパターンの反復。興奮の度合いを徐々に高めていくアッチェランド。時折挟み込まれる金管の下降音型の咆哮。それらが祝祭的なグルーヴの中で渾然一体となり、熱狂のアクセルを全開にする。
自室でCDを聴いていて思わず椅子から立ち上がってふと我に返り、ああ、ディスクで良かったと胸を撫で下ろす。決して他人に見せられない瞬間を、私は何度も経験しました。
バッティストーニを、北島三郎や清原和博と並ぶ「お祭り男」と称賛したくなります。
しかし、そのホットな演奏の背後には、冷静にして緻密な設計があります。
例えば、第1楽章序奏のうつむき加減の情熱を秘めた心情告白や、第2楽章の自己の内側をじっと見つめるような歌。それらの場面で、彼らはテンポを一定に保って、地に足の着いた表現を聴かせています。
こうした地殻内の断層運動のごとき伏線のうちに、十分に力が蓄積されているからこそ、音楽がクライマックスに到達した瞬間、信じられないほどに巨大なエネルギーが放出されるのです。
私は伊福部昭の音楽をさほど多く聴いてきた訳ではありませんが、こんなに刺激的で、こんなに胸に響く「タプカーラ」を聴いたことはないように思います。
どうして、これほどまでにバッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団の「タプカーラ」に揺さぶられるのだろうかと考えました。ただ単に演奏が優れているからという以上に、もっと切実で根源的な理由があるはずだと思えたのです。
最終的に、伊福部昭が自著「音楽入門」で引用した、ゲーテの言葉にたどり着きました。
「真の教養とは、再び取り戻された純真に他ならない」
当然のことですが、バッティストーニは、プロフェッショナルな音楽家として、自らの持つ知識や経験を総動員し、伊福部のスコアを研究したことでしょう。
でも、彼の内側では、未知のもの、異質なものと出会った驚きと喜びが、激しく渦巻いていたはずです。森羅万象の不可思議に気づき、初めて宇宙の真理に触れた子供のように、彼の純真な心は昂り、震えていたに違いありません。
そして、彼の中で燃えさかる「センス・オブ・ワンダー」は、オーケストラの百戦錬磨の音楽家たちを刺激し、その心を純粋無垢な子供時代の状態に戻してしまった。
「タプカーラ」のあの果てしない熱狂は、バッティストーニを先頭とする音楽家たちの「取り戻された純真」から生まれ、私という聴き手にまで一切減衰することなく伝播してきたものなのでしょう。
伊福部は、前述の著作で、ゲーテの引用に続けてこんなことを述べています。
「真の音楽的教養とは、学びとった知識と影響を乗り越え、再び自己の肌色に立ち戻って、音楽を思考し、音楽を鑑賞し、音楽を表現することに他ならないのではないでしょうか」
バッティストーニは、自分とは異なるバックグラウンドから生まれた音楽を、表面だけそれらしく繕うことに満足しなかった。音楽をイタリア出身の音楽家の視点で捉え、自分のものとして表現することに腐心したのだと思います。
そのことは、バッティストーニの個性が深く刻印されたユニークな表現と、完全に血肉化した響きとリズムが何よりも証明しています。
「新世界」でもまったく同じことが言えます。太古のアイヌ音楽に触れ、「日本」に立ち戻った伊福部と同様、アメリカの黒人音楽に出会い、自らのルーツである「スラヴ」を再発見したドヴォルザークのピュアな喜びを、バッティストーニはリアルに追体験し、そのまま演奏に反映したのではないでしょうか。
バッティストーニという音楽家は、純真な心をもった真の教養人である。そう認識すると、彼の言動、文章、演奏、すべてが私の中で自然に結びつき、その魅力がきれいに因数分解できたみたいで、すとんと腑に落ちました。
伊福部の言葉からキーワードを得て、このアルバムを新たな視点から聴き直してみました。
そして、当盤に収められた二つの交響曲は、土俗的、民族音楽的である以上に、人類の共有財産であるということに思い至りました。特定の人や団体だけが独占するのではなく、誰もが、それぞれの属性や文化的背景を強く自覚しながら、その固有の美しさや楽しさを味わえる音楽。
当盤で聴くことのできる「新世界」は、チェコ的でもアメリカ的でもありません。「タプカーラ」には、イタリア人指揮者とか東京のオーケストラとかいうラベルは貼付されてはいない。彼らの演奏には、二曲が持つローカルな要素は、そのまま素直に鳴らすだけで十分とでも言いたげな距離感があり、従来的な意味での「らしさ」は影を潜めている。
その代わりに、作曲家と演奏者が、自らのアイデンティティを意識しながら、未知の文化と出会って感じた驚きと喜びが音楽の中にみなぎり、全体を支配しているのです。
互いに異質なもの同士が、音楽という大河に合流し、新たな流れを生み出していく。多様な成分を含んだ水が、自然に豊かな恵みをもたらし、肥沃な大地を育んでいく。二人の作曲家が残した音楽のそんなありようが、バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団の演奏から、はっきりと見えてきます。
それは、“BEYOND THE STANDARD”というプロジェクトが目指すものと、重なるところが大きいのではないかという気がします。
異質な音楽が相互に影響し合いながら、これまでに見たことも聴いたこともない未知の地平を切り開いていく。その先に、私たちの時代の新しい「スタンダード」が姿を現す。
そんな理念を、純真な心をもって音楽として表現したドヴォルザークと伊福部昭の曲が、新プロジェクトの最初の一枚に選ばれたことは非常に象徴的で、大きな意義があるように思えてなりません。
アルバムの最後には、伊福部の最大のヒット曲、映画「ゴジラ」の主題曲が収録されています。初代ゴジラが、モノクロ画面から飛び出て、高精細なカラー映像の中で暴れまわる姿が思い浮かぶような、躍動と色彩にあふれた演奏です。
バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団が描くゴジラは、響きの明るさもあって、ちっともおどろおどろしくありません。優しい表情を浮かべているように感じるほどです。
しかし、そのまなざしには哀しみと怒りが灯っていて、こちらに何かを語りかけています。私には、「人間よ、ゴジラという怪獣を生んだ原爆の悲劇の前では純真たれ」という声が聞こえてならないのですが、空耳でしょうか。
このアルバムのライナーノートの文章には、英訳が並べて印刷されています。日本だけでなく、世界のリスナーが手にすることを想定しているのでしょう。
どうか、東京の地で生命を得て美しく鳴り響いた「純真」が、音楽を愛し、音楽を必要とする世界中の人たちに届きますように。そして、日本から発信される音楽のまわりに人が集まり、誰もが微笑み合いながら手を結び、あたたかい共感の輪が広がっていきますように。
そう、ゴジラも一緒に。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

音盤中毒患者のディスク案内 インデックスへ