音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.62

クラシックメールマガジン 2018年9月付

~背負わない。 ~ 大澤壽人の芸術 山田和樹指揮日本フィルほか~

近年、再評価が進む作曲家の大澤壽人(1906~53)の作品を集めた「大澤壽人の芸術」が、この7月に発売されました。
大澤は神戸の生まれ。24歳の時に渡米して音楽を学び、パリで自作曲を指揮して華々しいデビューを飾りました。1936年に帰国して活動を開始したものの、彼を待ち受けていたのは斬新な音楽への無理解から来る冷淡な反応でした。やがて大衆音楽と教育の分野に活路を見出だし、関西で精力的に活動を続けますが、終戦後ほどなくして47歳の若さでこの世を去ります。彼の名前はすっかり忘れ去られ、21世紀に入ってようやく「再発見」されるまで、彼が遺した膨大な作品は演奏されることなく埋もれたままでした。
このCDは、2017年9月3日にサントリーホールでおこなわれた「戦前日本のモダニズム」と題する演奏会のライヴ録音で、コントラバス協奏曲、ピアノ協奏曲第3番「神風協奏曲」、交響曲第1番の3曲が収められています。ピアノ協奏曲以外の2曲は、ともに1934年にボストン留学中に書かれたものでありながら演奏機会に恵まれず、これが世界初演でした。
演奏は、山田和樹指揮日本フィル。コントラバス協奏曲では佐野央子、ピアノ協奏曲では福間洸太朗がそれぞれソロを担当しています。
どの曲を聴いても、1930年代にこんなにモダンな音楽を書く日本人作曲家がいたのかと、驚かずにはいられません。
当時は目新しかった四分音(半音のさらに半分の高さの音)を取り入れ、奏者の超絶技巧を要求するコントラバス協奏曲。ジャズの影響が明らかで、洒落のめした「神風協奏曲(神風は1937年に東京―ロンドン間を飛んだ民間航空機の名前)」。自らの内から溢れ出るアイディアを、多彩な技巧を駆使してシンフォニーという器に盛りつけた交響曲第1番。
作曲家の若さゆえの未完成や未整理はあり、欠点を指摘することも可能でしょう。しかし、ジャズも射程内に収めて欧米の流行の最先端を取り入れながら、なおかつ、自らの個性を刻印できた日本人作曲家は、当時、彼の他にどれほどいたでしょうか。
少なくとも、私の乏しい知識や経験の中には、思い当たる人名も曲名もありません。評論家の片山杜秀氏も「日本では進みすぎ早すぎた男」と評しているので、大澤が当時の日本の音楽界にあって突出したモダニストだったのは間違いありません。
しかし、このCDを聴いて最も胸を打たれたのは、大澤の音楽の「モダンさ」よりも、その「背負うもののなさ」です。自分の振る舞いを縛り、支配するもの一切を背中から下ろし、ひたすら自由たろうとする軽やかな音楽に惹かれるのです。
例えば、ここに収録された三曲は、外観こそ伝統的な音楽形式に則ってはいますが、どれも特定の「派」や「イズム」を背負っていません。
印象派とか新ウィーン楽派という言葉も、僅かにかすっているかなという程度。表現主義とか前衛音楽という言葉が似つかわしい過激な楽想はほとんどない。特定のプログラムをもった標題音楽でもなければ、何かの社会思想を反映している訳でもありません。文学的な意味や物語も背負っていない。交響曲では循環形式を用いてはいるものの、一つの主題に音楽の内容のすべてを背負わせてもいない。
ましてや、特定の地域の文化を背負った音楽でもありません。どの曲でも日本的な調べが姿を現しますが、「ジャポニズム好きの西洋作曲家」が書いた曲のように響きます。それほどまでに、日本の音楽と呼ぶには、余りにもヨーロッパ的な音楽なのです。そもそも、彼は「日本」を背負った音楽を書こうなどとは、これっぽっちも考えていなかったのでしょう。
確かに、戦時中、彼は他の作曲家同様、本人の名誉にはならないような露骨なプロパガンダ音楽を多数書いています。
でも、紀元2600年(1940年)の折に発表した交響曲第3番は、大仰な体制賛美、国威発楊の音楽には聴こえません。「建国の交響楽」という副題を持つドラマティックな音楽ですが、当盤に収められた第1番同様、ピュアな音楽であろうとする意志に貫かれた音楽です。また、雅楽や日本古謡の引用も見られますが、単に音楽の素材の一つとして慎ましく扱われているだけです。
大澤とって音楽は音楽でしかなく、何かを背負わせるなんてどだい無理な話と割りきっていたのではないでしょうか。だから、戦時下、意に反して国策に沿った音楽を書きながら、内心では「ホンマはお国なんてもん、音楽にとってはどうでもええねんけどなあ」と呟いていたのではないか。彼のカラッとした陽性の曲を聴いていると、そんな気がしてなりません。
あるいは、大澤は「自分」さえも背負わなかった人なのかもしれません。何しろ、自作曲の不評を受け、洋行帰りの気鋭の作曲家という看板とも決別し、大衆音楽に身を投じたのですから。そんな人が書いた音楽が、自身の内面の苦悩や喜びを吐露したような重苦しさ、押し付けがましさと無縁なのも、ごく自然なことと思えます。
「何も背負わない」大澤の音楽は、2010年代を生きる聴き手にはごく自然に響きます。今の社会全体が、何かを背負うことに重きを置かなくなってきているからです。多くの人が、旗、共同体、組織、あるいは主義主張を背負う前に、何よりも一人の人間たろうとしています。
戦時中、大澤自身は、「日本の作曲」は日本調とか洋楽などという狭い意味の言葉の中にとどまらず、「のびやかな永遠性」を獲得せねばならないと書いています。80年以上のときを越えて、いまの時代の「背負わない」価値観と響き合う大澤の音楽は、まさに「のびやかな永遠性」を宿していると言えるのではないでしょうか。
永遠性と言えば、特に交響曲を聴いていて、SNSのタイムラインの流れを思い浮かべるときもあります。多くの主題が「弱いつながり」を見せて乱立しながら、目まぐるしく風景を変化させていく。大澤が音楽を通して見据えた未来の世界には、これと同じようなものが明確なビジョンとして像を結んでいたのでしょうか。既にNaxosが出ている第2,3番の交響曲よりも明瞭に感じとれる特徴なので、若書きゆえの先鋭性なのかもしれません。
それにしても、大澤は、当時の空気をまったく読まないモダンな音楽の向こうに、一体どんな聴き手を想定していたのでしょうか。
私は、彼自身と同様に「何も背負わない」日本の聴衆を思い浮かべていたのではないではないかと想像します。
当盤に収められた交響曲や協奏曲を大澤が書いていた当時、日本は西洋音楽を取り入れてからまだ約半世紀しか経っていませんでした。音楽家も聴衆も欧米とは比べものにならないくらいに幼かった。
そのかわり、背負うべき伝統も、既成観念も持たない子供は、感性が柔軟で自由です。新しいものもすんなり受け容れ、すぐに適応できてしまう。同様に、日本の聴衆は曇りのない目で、自分の音楽の面白さに気づいてくれるはず。そんな勝算を胸に、彼は霊感の赴くままにペンを走らせていたのかもしれません。
しかも、当時の欧米では、既成観念をひっくり返すような革新的な音楽が、日々生み出されていました。そんなときに、既に確立され骨までしゃぶり尽くされた古い技術を、今さら悠長に学んでいる時間はありません。西洋に「追いつき追い越せ」どころか、差は広がっていく一方です。
ならば、背負うべきものを持たない日本は、それを逆手にとって、欧米の最新のものを一気に導入してしまう方がいい。自分の書いた曲は、欧米の人たちが何百年もかけて到達した地点へのショートカットになれるだろう。その場所からは、西洋の音楽家が思いもつかなかったような、新しい音楽も自ずと生まれてくるはず。彼の音楽には、そんな希望に満ちた未来予想図が透けて見えるような気がします。
しかし、現実は甘くはありませんでした。楽しんでくれるはずの聴衆は、彼の音楽をむしろ拒絶しました。いや、聴衆はまだ子供でさえもなかったのかもしれない。中途半端に何かを背負ってしまっていたのかもしれない。いずれにせよ、彼は聴衆の水準の抜本的な向上が必要だと肚をくくり、芸術音楽への志向を脇に置いて、大衆音楽への道を歩むことになります。
歴史に「もしも」は禁句ですが、もし彼が10年遅く生まれていたら、いや、もし戦争さえなければ、などと考えてしまいます。彼自身はどんな音楽を書いただろうか、日本のクラシック音楽界はどうなっていたか。もっとも、大澤は帰国当初の予定通りに海外に戻り、そちらで新しい活躍の場を得たかもしれませんけれども・・・。
演奏について触れねばなりません。
アメリカ留学時、ボストン響の常任指揮者でコントラバス奏者でもあったセルゲイ・クーセヴィツキーに献呈するつもりで書いたコントラバス協奏曲。楽器が悲鳴を上げそうなくらいに難しいパッセージを縦横無尽に弾きこなす佐野央子のコントラバスが、まったく見事の一言です。特に四分音の独特の響きは、深層心理に作用するようなな刺激があってやみつきになります。
これが通算三組目のCDとなる「神風協奏曲」は、「ダンディズム」が服を着て楽器を弾いているかのような福間洸太朗の妙技を堪能しました。いつもながら、そのみずみずしく凛としたタッチには、ため息が出ます。
中でも、第二楽章のほんのりと憂いを秘めたワルツの、何と魅力的なことでしょうか。聴く人の誰もがラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章を思い出さずにいられないでしょうが、ここで活躍するのはアルトサックスです。妖しい色気を振りまく上野耕平のソロは、とびきりの聴きものです。ほんの一瞬で終わってしまうのが実に惜しい。
そして、全曲を演奏する山田と日本フィルは、どの曲でも音楽を端正に構築しながら、作曲家の溢れ出る才気と、若々しい感性の息吹を熱っぽく表現しているのが素晴らしい。特に交響曲では、音楽のスマートにしてスリリングなドラマ展開に聴き手をぐいと巻き込みながら、随所でみずみずしい抒情を引き出す山田和樹のレンジの広い指揮ぶりに感服しました。
日本フィルの演奏は、何よりも音楽へのひたむきな献身ぶりが胸を打ちます。勿論、管楽器群の巧みなソロ、弦の充実した音色とアンサンブル、ここぞというところで炸裂する打楽器、いずれも一級品です。
全体に、二作品の世界初演を含む秘曲紹介の重責を、見事に果たした演奏と言えるのではないでしょうか。
聴きどころとして、交響曲の両端楽章のコーダを挙げます。どちらも白熱した盛り上がりを見せますが、特にフィナーレの最後、ティンパニの付点音符の連打が強烈です。ベートーヴェンの「第9」の第2楽章の頂点を思わせる激しさがカッコいい。最後の和音のシャープな響きも、映画の衝撃のラストシーンみたいで余韻が後を引きます。
同じ交響曲の第2楽章の途中、ボレロのリズムに乗って日本的な旋律が歌われるところも面白い。紆余曲折を経て、マーラー的なワルツの狂乱(交響曲第7番の第3楽章を想起)になだれ込むあたり、まさかの展開にハッとします。
これらの曲が次に演奏されるのは、いつのことになるでしょうか。こんな高次元の演奏が記録に残されてしまった以上、彼ら自身を含めた後続の音楽家たちは、さぞかししんどいだろうなどと余計な心配をしてしまいます。
ともあれ、記念碑的な演奏会を優秀な音質で記録した「大澤壽人の芸術」は、ただ秘曲の名演を収めたアルバムであるというにとどまらず、大澤壽人という作曲家、日本の音楽史についての理解と思考を深めてくれる、高い価値を持ったアルバムだと思います。
演奏会に足を運べなかった者としては、よくぞリリースして下さった感謝せずはいられません。その上で、まことに贅沢な希望を言わせて頂くならば、是非、この続きを聴かせてほしい。
例えば、交響曲とピアノ協奏曲の残り2曲ずつを、当盤と同じ演奏者で聴きたい。大澤が戦時中に書いた国策音楽や、楽譜を隠していたという「ベネディクトゥス幻想曲」も聴いてみたい。戦後になって書いた合唱曲「ヘンデル南へ行く」や「電波へのハレルヤ」など風変わりなタイトルを持った曲にもそそられます。
聴き手にとって、大澤の音楽をより広く深く知ることの意義は、マイナー曲を収めたCDコレクションの充実にとどまりません。例えば、同時代の音楽と並べて聴き、当時の聴衆の音楽受容のあり方や、社会と音楽との関わりを知ることで、少しでも賢くなれるかもしれません。
そのためにも、今後、気が向いたときに、コロムビアのHPの問い合わせフォームから、「大澤壽人のCDをもっとリリースして下さい」と制作者に要望を送ろうと思います。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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