音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.63

クラシックメールマガジン 2018年10月付

~私、ボーッと生きてました ~ 大貫妙子「Pure Acoustic 2018」~

今月は、大貫妙子のニューアルバム「Pure Acoustic 2018」をご紹介します。
「Pure Acousutic」は、大貫妙子がかつて毎年おこなっていたコンサートの名前です。文字通りアコースティック楽器のみによる編成のバンドを前に、彼女が自作曲を歌う人気の企画が、今年の3月に5年ぶりに復活。新宿文化センターでおこなわれた演奏会の模様を収めたライヴ盤が、この9月にコロムビアから発売されました(CD:COCB-54265 LP:COJA-9338)。
バックを務めるミュージシャンは、「Pure Acoustic」を長年にわたって支えてきたヴァイオリニストの金子飛鳥を中心とする弦楽四重奏(他に相磯優子、志賀恵子、西谷牧人が参加)、フェビアン・レザ・パネのピアノと吉野弘志のウッドベースという顔ぶれ。
ああ、何と素敵なアルバムなんでしょうか。
まず、大貫妙子の澄みきった歌声と、力みのないやわらかな歌いくちにすっかり魅せられてしまいました。持ち前のクリスタルボイスの純度は歳を重ねてむしろ増しているようで、2年前にデビュー40周年を飾った人とは信じられないみずみずしさ、軽やかさにはため息が出ます。日々を美しく重ねた人の姿を映したような歌の自然な佇まいは眩しいばかりです。
そして、大貫妙子の書いた曲が、いい。
収録されているのは70~80年代に発表された曲で、彼女のライヴでは定番のものばかり。さながらベスト盤のような構成になっています。このうち「カイエ」は弦楽四重奏のみによるインストゥルメンタル曲、原田知世が歌った「彼と彼女のソネット」は洋楽が原曲で作詞のみ担当しています。
中でも、「雨の夜明け」と「黒のクレール」が強く印象に残りました。
切り詰められた詞からは、その背後にあるはずの物語も、言葉が意味するものも明瞭には伝わってはきません。ただ、夏の終わりの雨に濡れる街や、夕映えの海の風景と、愛の終焉を迎えて立ちすくむ人の姿が距離を置いて映し出されているだけ。
感情の起伏を抑えぽつりぽつりと発せられる言葉の背後から、まるでたんぽぽの綿毛をふっと吹くかのように発せられるその歌声が、痛みを孕んだ甘やかな旋律と、儚く移ろうハーモニーを優しく運んでくる。感傷の沼へと足を踏み入れそうになると、すんでのところでまなざしを外に向けて自己を客体化する、そんな心のありようから生まれたような音の揺れ動きが聴き手の心にさざ波を立て、イマジネーションを掻き立てずにはおかない。
同様に、過ぎ去った、あるいは過ぎ去ろうとしている愛への思いを歌いながらも、明るい曲調で淡々と心情を綴る「新しいシャツ」と「突然の贈りもの」もいい。
弾むリズムで、秘かに慕っていた人とのほろ苦い再会を微笑みつつ歌う「横顔」、開放的なカンツォーネの響きが太陽のように眩しい「Siena」、NHKの「みんなのうた」で放映されて人気を博した伝説の名曲「メトロポリタン美術館」の、つい微笑まずにいられないお茶目でファンタジー。
アルバム全体を通して、大貫妙子の歌の独特の世界を心ゆくまで楽しむことができます。
・・・などと分かったようなことを書いていますが、実を言うと、私は彼女のアルバムを聴くのはこの「Pure Acoustic 2018」が最初です。薬師丸ひろ子や原田知世のアルバムを通して彼女の歌はいくつか聴いていましたし、映画やCMで彼女の歌声や音楽に触れる機会もありました。でも、このアルバムの収録曲では、「彼と彼女のソネット」「メトロポリタン美術館」以外は初めて聴きます。
これからもずっと聴き続けたいと思える、かけがえのない音楽との出会いを喜びつつ、どうしてこれまで彼女の音楽を聴いてこなかったのかと悔やんでいます。今までの自分を「ボーッと生きてんじゃねえよ!」と叱りつけたいくらい。
でも、何事も始めるのに遅すぎることはないと言い聞かせ、彼女のアルバムをいそいそと集め始めていて、若葉マークをつけた大貫ファンになりました。
「Pure Acousitc 2018」に収められた曲のオリジナルも聴きました。どれもイントロの時点でドラムのビート、シンセサイザーなど電子楽器の音が耳に飛び込んでくるし、テンポも早くて、曲全体の印象が随分違うので驚きました。
坂本龍一を始めとする敏腕プロデューサー、アレンジャーが作りこんだサウンドは、70年代末から80年代にかけての時代の空気を色濃く反映していて、懐かしくはあっても、今の耳にはやや古く感じられるのは致し方ないことかもしれません。
その点、「Pure Acoustic 2018」には、ドラムのビートも、シンセサイザーのサウンドも、ストリングスの音の絨毯もありません。でも、時代の空気に彩られた衣装を脱ぎ捨て、その素肌を露にした歌たちは、ただその骨格と肉づき、そして立ち姿と所作そのままが惚れ惚れとするほどに美しい。
そして、その音楽たちは、豊かな倍音をまとって柔らかくなった大貫妙子の声と、アコースティック楽器のシックな響きの中で新たな生命を得て息づいてます。大貫自身も、すっかりリラックスして、音楽の生き生きとした律動を楽しみながら歌っているようです。
会場を埋めた聴衆も、まるでクラシック音楽の演奏会に参加しているかのように、静かであたたかい雰囲気の中で音楽を体験し、自分のものとして楽しみ、味わっている。そのことが、音にまとわりつく「気」のようなものの中から聴きとれます。
普段クラシック音楽に接することの多い私にとって、そんな音楽のありようは耳にすんなり馴染むものです。この「Pure Acoustic 2018」で大貫妙子の歌に初めて向き合えたのは、幸運なことだったのかもしれないと思います。
ところで、トラック5に収められた「黒のクレール」を聴いていて、私は不思議な既視感に捉われました。この甘くて切なくて哀しい調べは聴いたことがある、しかも、クラシック音楽のどれかと通じるものがある、そう思えてならなかったのです。
彼女は、80年代にはヨーロッパ、特にフランスのポップスや映画音楽を意識したようなお洒落な音楽を書き、歌っていました。1981年に発表された「黒のクレール」もその一つですし、それ以外の曲のタイトルや歌詞にも、フランス語の単語が時々出てきます。
ならば、この既視感の源泉はフランスの作曲家だろうと当たりをつけ、いくつかの音楽を聴き直してみました。ドビュッシー、ラヴェル、フォーレ、プーランク、デュカ、サン・サーンス、サティ・・・。でも、どれも違う。思い違いだったかと悶々としながらあれこれ聴いているうち、一人の作曲家の名前がふと思い浮かびました。
武満徹。
灯台下暗し。日本人でした。「黒のクレール」が、武満の特定の曲に似ているということでは決してないのですが、彼が遺したポップソングや映画音楽を聴いた記憶が突如立ちのぼったのです。
例えば、「あなただけを待ちつづけた この海辺の家」という哀愁に満ちたフレーズ近辺を聴いて頂きたい。感傷すれすれの旋律がほんの一瞬だけ長調の響きをかすめ、「幾度 夏がめぐり来ても あなたは帰らない」と喪失の痛みを歌うあたり。
あるいは、「アヴァンチュリエール」の半ばにある優美なワルツや、「雨の夜明け」の雨を暗示する弦のピツィカートに乗って歌われる哀愁を帯びた旋律でもいい。
メロディの山やフレーズ末尾にある、繊細でセンチメンタルな音遣い、陰影をたたえた和声進行には、武満のポップソングのいくつかの中にあるものと相通ずるものが感じられないでしょうか。
それは専門家から見れば「これだから素人さんはねえ」としか言いようのない、微視的で浅はかな思いつきかもしれません。第一、大貫自身、武満と直接の関わりはなかったでしょうし、作曲技法上、彼から何か影響を受けたことも恐らくないでしょう。大貫妙子と武満徹の音楽との間に、本当に音楽的な共通点があるかどうかを突き詰めて考えても仕方のないことなのかもしれません。
それよりも、「黒のクレール」を聴いていて、私は「大貫妙子の歌うタケミツソングを聴いてみたい」と思わずにはいられませんでした。彼女の魅力的な歌声と、その楽曲と武満の歌の親和性を思えば、彼女が歌う「燃える秋」「三月のうた」「小さな部屋で」なんて、どんなに胸を打つだろうかと。
中でも1978年公開の映画主題歌「燃える秋」は、シティポップ流行の一翼を担っていたハイファイセットが歌ってヒットしました。ならば、最近、若い聴き手の間でもシティポップの代表作として受けているという「SUNSHOWER」を作った大貫妙子が、いま円熟のときを迎えて、この曲をどんなふうに歌うのか聴いてみたい。
あるいは「三月のうた」のメランコリーを彼女ならどう表現して聴かせてくれるだろうか。他にも「死んだ男の残したものは」「小さな空」「めぐり逢い」「翼」なんかもいいかもしれない。いろいろな曲を頭に思い浮かべては彼女の声を当てはめて妄想しているのですが、きっと私の想像の遥か上をゆく素晴らしい歌が聴けるのではないかと思えてなりません。彼女は僅かな例外を除いて、他人の曲を歌わないので、実現可能性はないでしょうけれど。
先ほどは否定しましたが、大貫妙子の音楽から武満徹のうたを連想するのは、そんなに突飛なことでもないのではないかという思いは、実は少しだけあります。
武満がポップソングや映画音楽を書いていた時期は、大貫妙子が少女時代を過ごし、ミュージシャンとして活動を始めた時期とすっぽり重なるからです。その時代の空気や、彼らの音楽を生み出した土壌は、互いにある程度共有されていたはず。であれば、遠く離れて点在しているように見える音楽も、離れた視点から見れば、どこかで繋がっているのは自然なことと思えます。
見方を変えれば、70年代や80年代の日本の社会や文化には、片や現代音楽の第一人者、片やシティポップの先頭を切って走るシンガーソングライターの音楽の共通の母胎となるだけの土壌があったのかもしれません。当時の音楽界は、今以上に欧米の背中を追うことに躍起になっていたはずですが、それでも相異なるものを同時に育むだけの養分をたっぷりと含んだ、豊穣な「大地」があったのでしょう。
目を転じて、2018年の日本の社会はどうでしょうか。私たちは多様な文化芸術を生み出せる豊かな土壌を作れているでしょうか。大丈夫だと思う気持ちがある反面、本当にそうだろうかと不安になったりします・・・。
いつの間にか脇道に逸れ、あれこれ御託を並べてしまいました。
バックの演奏にも触れておきます。
大貫妙子との共演を重ねてきた金子飛鳥カルテットは、あまり弾き崩すことなく端正に、そして抒情味豊かに、大貫妙子の音楽を優しく包み込んでいます。パネの洒脱なピアノとの阿吽の呼吸も絶妙で、彼女の音楽を隅々まで知り抜いた人たちだからこそ可能な、親密で自由なアンサンブルも随所にあって実に愉しい。
吉野弘志のベースは、数年前に聴いた演奏会で、ギタリストの鈴木大介が彼を評して言っていた言葉を借りれば「最強」のもの。「横顔」でのソロだけでなく、ほんの何気ない箇所で音楽の生命を支える盤石の低音があってこそ、カルテットはのびやかに羽ばたいていると言えます。まさに名人芸。
カルテットのチェロは、常連の木村隆哉に代わり、東京交響楽団の首席チェロ奏者として活躍する西谷牧人が弾いています。彼は、例えば7月に聴いたジョナサン・ノット指揮のエルガーの「ゲロンティアスの夢」の忘れ難い演奏会でも、息をのむほどに「ノビルメンテ」なソロを聴かせてくれていました。そんな彼の凛とした風格のあるチェロの響きは、ここでもじっくりと楽しむことができます。彼は最近、山田姉妹の新盤にも参加し、シャンティらと組んでのライヴ活動もおこなっているとのこと、ジャンルを超えて活躍するチェリストへの道を歩んでいくのでしょうか。
大貫妙子の次のアルバムは、いつ、どのレーベルから出るのでしょうか?そのへんの事情は知りませんが、オリジナルアルバムは勿論のこと、やはり彼女が歌うタケミツアルバムを聴いてみたい。それが叶って、もしプロモーションビデオができるなら、武満の「系図」でナレーションを務めたCDが近くリリースされる「のん」が映像に登場してほしい・・・。そんなあり得ない妄想に遊びながら、私は拙宅のCD棚の一角を占めるようになった大貫妙子のディスクたちを、毎日のように聴いては楽しんでいます。
ともあれ、この「Pure Acoustc 2018」は、例えば、秋の夜長、一日を終えて疲れた心と体を休めながら、静かにじっくりと音楽を味わうのにうってつけのアルバムです。何度も繰り返して聴きたくなる、そして、何度聴いても飽きない。聴くたびにひたひたと心に沁みてくる。かなり幸福な中毒性のある音盤とも言えます。
そして、アコースティックなアレンジと優れた演奏、ハッとするほど美しい大貫妙子の歌は、私同様、クラシック音楽をこよなく愛する方々の、耳と心にも訴える力を持ったものだと確信します。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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