音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.64

クラシックメールマガジン 2018年10月付

~死はつねに生の形をしている ~ チャイコフスキー/「悲愴」、武満/系図 バッティストーニ指揮 東京フィル、のん~

むかしむかし、というほどむかしのことではありませんが、私が小学生の頃、インスタントコーヒーのテレビCMに指揮者の故・岩城宏之氏が出演していました。
頻繁にオンエアされていましたから、岩城が汗びっしょりになってチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を指揮する姿は、はっきり記憶に残っています。そして、「違いがわかる男」というナレーションと、スキャットで歌われるテーマ曲をバックにコーヒーを飲む岩城の姿を見て、自分も将来あんなカッコいい大人になりたいと、憧れの眼差しをブラウン管に向けていたことも覚えています。
なぜそんなこと唐突に話し始めたかというと、バッティストーニ指揮東京フィルの新盤、チャイコフスキーの「悲愴」を聴いていて、件のCMで流れていた部分が普段聴いている演奏と「違う」ことに気づいたからです。
それは、第1楽章の展開部の直前、クラリネットが第二主題を静かに吹いたあと、ファゴットがppppppという破格の強弱記号のついた下降音型を吹く箇所(第160小節、9分45秒)。
バッティストーニは、バスクラリネットで代用することもあるこのパッセージを、楽譜の指示通りファゴットで吹かせています。しかし、それ以上に、前段のクラリネットよりもむしろ大きな音量で歌わせていることに度肝を抜かれました。演奏者が「いかにして美感を損なわず小さい音で吹くか」に細心の注意を払うはずのこの部分を、こんなふうに朗々と(しかもヴィブラートまでかけて!)歌う演奏を、私は今まで聴いたことがありません。
あるいは、同じ第1楽章の頂点でトロンボーンが厳粛なフレーズを吹いたあと、低弦の上向音型に乗ってヴァイオリンが第二主題を奏でる部分も「違う」。チェロが弦の駒のすぐ近くの部分を弓で弾き、不気味に掠れた音色を出しているのがはっきり聴きとれるのです(第306小節、14分38秒~)。スルポンティチェロと呼ばれる特殊奏法ですが、スコアにはそんな指示はありませんし、現代音楽ならいざ知らず、この曲でそんな奏法を使うのは前代未聞です。
その少し前、第1楽章の頂点でのティンパニ(第278~300小節、13分03秒~14分22秒)をトレモロではなく、終始楽譜通りに32分音符の刻みで叩かせているのも珍しいかもしれません。
第3楽章の行進曲の中盤以降、二段階のテンポアップ(第283小節、7分09秒~/第316小節、8分00秒~)をして、ヴェルディのオペラの幕切れのようにテンポを上げてドラマを追い込んでいくあたりも、今までありそうでなかったユニークな表現だと思います。
第4楽章のコーダを、かなり大きな音量で、強い表情をつけて弾かせているのも、前例はありますが珍しい(第147小節、8分40秒~)。
いえ、私が「違いのわかる男」だなどと言いたいのではありません。いずれも「悲愴」を何度か聴いたことのある方なら誰でも簡単に気づけるような「違い」です。でも、私は、バッティストーニがどんな意図をもってこんなユニークなことをやっているのか、その理由が説明できません。だから、私は本当の意味での「違いのわかる人」には、なれていないのです。
そんな私の凡庸さを棚に上げて言いますが、バッティストーニと東京フィルの演奏する「悲愴」の他の演奏との最大の違いは、この音楽に内在する「生」を強烈に、リアルに感じさせてくれることにあると思います。
どの音にも熱い生命がほとばしっている。音の運びには、作曲者が楽譜を書きつける筆致がそのまま音楽になったかのような勢いが常にあって、作曲家を激しく創造に駆り立てた衝動がマグマのように噴出している。その無尽蔵のエネルギーは、聴き手の感情にダイレクトに作用して心を揺さぶらずにはおかない。
思えば、チャイコフスキーは、「悲愴」の初演の9日後に突然亡くなりました(死因は、様々な議論を経て、結局コレラという従来説が有力視されている)が、この曲の創作過程にあった彼は、精神的に困難な時期を過ごしていたにせよ、健康で、創造力の絶頂にあったことは間違いない。
であれば、これは死の予感や諦念といった観念がべっとりとこびりついた音楽などでなく、作曲者の生への渇望と憧れから生まれた音楽なのかもしれない。痛切な第4楽章のアダージョも、辞世の歌であるよりは、生を遮るものへの怒り、異議申し立てなのではないか。バッティストーニが聴かせてくれる「生」の横溢する演奏は、「悲愴」の隠れた真実を衝いたものと言えるのかもしれません。
しかし、これほどまでに「生」のエネルギーがむき出しになった「悲愴」を聴いていると、私はむしろ「死」に思いを馳せずにいられません。頭からそれを追い払おうとすればするほどに、音楽の端々に「死」の想念を見いだしてしまう。
この矛盾するような感覚を言葉にできないかと、ヒントを得るべく手持ちの本をパラパラとめくっていたら、こんな言葉が目に留まりました。
死はつねに生の形をしている
これは、作曲家の武満徹が、死の床にある母親を想って書いた「死」というエッセイの一節で、文章はこんなふうに続きます。
固有の生を競いあう地上の営みが、広々とした生命の祖国に、また共同の魂に、凡ゆる皮膚からできた一枚の無限の皮膚へ還る旅だちのはじまりであることを知るとき、生は満ち溢れる。
すとんと腑に落ちた気がしました。
人間はいつか必ず死ぬ存在であり、死の永遠に比べれば、自分の生などほんの束の間で無に等しい。そのことを切実に悟った芸術家が、創造行為を通して生を充実させようとすればするほど、死への畏敬や恐れ、時として憧れといったものが作品の中に強烈に立ちのぼる。私が体験したのはまさにそれだったのです。
武満が言うように、生と死が同じ形をしているのであれば、音楽からそれらを同時に感じることは不思議でも矛盾でも何でもなく、ごくごく自然なことなのかもしれません。
「悲愴」に続いては、前掲のエッセイの著者である武満徹の晩年の作品「語りとオーケストラのための系図―若い人たちのための音楽詩―」が収録されています。
「子供のための音楽を」というニューヨーク・フィルからの委嘱に応え、死の前年(1995年)に書かれた約20分の曲。谷川俊太郎の詩集「はだか」から6篇を選んで少女の第一人称に書き換えたものをテキストに、12~15歳くらいの少女の語り手と大編成のオーケストラによって演奏されます。
通算5種目の「系図」の音盤(既発売は、語りの異なる二種の小澤盤、小オケ編曲版の岩城盤、最近出た山田和樹盤)となるバッティストーニ盤では、女優で「創作あーちすと」として活躍するのんが語りに起用されています。
武満の「系図」は、彼が遺した数々の「うた」を彷彿とさせるような、甘やかでどこか感傷を秘めた魅力的なメロディと、明瞭な調性にもとづいた豊かなハーモニーに満ちた音楽で、彼の晩年の作品に見られる特徴のいくつかを集約して煮詰めたような感があります。
大編成のオーケストラが紡ぎ出すサウンドは、儚げで、柔らかい光彩の繊細な変化が美しい。スチールドラムやアコーディオンという異質な楽器の音も、そのなかに慎ましやかに融け込んでいます。
「系図」の初演にあたって、武満はこんなことを書いています。
<<< Family Tree>>で私が意図したのは、この作品を聴いてくださる方や、特に若いひとが、人間社会の核になるべき家族の中から、外の世界と自由に対話することが可能な、真の自己というものの存在について少しでも考えてもらえたら、ということでした。そして、それを可能にするものは愛でしかないと思います。
しかし、武満が書いた「愛」という言葉とは裏腹に、谷川俊太郎の詩のなかで描かれた家族の像は、決して幸せなものではありません。何しろ出てくるのは、体が衰えて動きが緩慢なおじいちゃん、最期の瞬間を迎えて苦しむおばあちゃん、考えごとをして上の空で食事するおとうさん、キッチンドランカーで、ある日突然失踪して無理心中が疑われるおかあさん。詩の主体である少女にとって、みんな何を考えているか分からない大人たちです。
でも、少女は、ひりつくような孤独な感情の只中に身を置きながら、それでも懸命に家族と関わろうとします。おじいちゃんには「いまのきもち」をおしえてと呼び掛け、おとうさんには「ずうっといきていて」と願い、おかあさんには「わたしともはなしをしてほしい/かえってきてほしいいますぐ/ないていてもいいからおこっててもいいから」と訴えかける。
「系図」で描かれているのは、家族の姿という以上に、「いま、ここにいるわたし」つまり「真の自己」が他者と関わり、対話しながら生きていく姿なのかもしれません。
しかも、その「わたし」とは、太古の昔から何度も生まれ変わって「いまここ」にいる存在であり、未来の自己とも繋がっています。真の自己とは、個として有限の時間を生きる「いまのわたし」であると同時に、先に引用した武満のエッセイの通り、死という無限の時間の中に生きる存在でもある。
そう、ここでも生と死は同じ形をして遍在しているのです。
「わたし」の言葉を包み込む音楽は、どこまでも優しくて、あたたかい。歌謡的な旋律や、豊かなハーモニーは、柔らかな「生」を象徴しているようです。だけれど、音楽や言葉が時折ふと翳りを見せた瞬間、「生」だと思っていたものは、実は「死」がただ色合いを変えただけのものだったのだと気づく。
この「系図」における音楽は、生と死のつながりを明らかにし、家族という最小の社会ユニットを出発点にして「わたし」と他者を結びつける、いわば橋渡しのような役割を担おうとしているのかもしれません。
形はまったく違っても、「悲愴」と「系図」の二曲は、いずれも「生と死」という人類の永遠のテーマについて考えるための豊かなヒントを与えてくれます。その意味で、当盤の当初は意外と思えたカップリングは、これ以上ないというくらいにマッチしたもののように今は思っています。
バッティストーニと東京フィルは、多彩な音色と表情を駆使して、作曲家の言葉どおりに「愛」に溢れた音楽を作り出しているのが素晴らしい。
特に、弦楽器主体のカンタービレをデリケートに歌わせ、詩の内容に伴って音楽を盛り上げてドラマをつくるあたり、卓越したオペラ指揮者の棒から生まれた演奏と言えます。また、弦のカンタービレが、分厚い豊かさよりも、やわらかな透明さを志向して生み出されているのが印象的で、これまで聴いてきた演奏とは「違う」点でした。
面白かったのは、曲の終盤、アコーディオンが出てくるあたりの響きに、フェデリコ・フェリーニ監督の映画でのニーノ・ロータの音楽とどこか通ずる感触があったことです。バッティストーニが作り出すカラリと湿度の低い爽やかな音色が、イタリア的なものを連想させるのかもしれません。
しかし、この「系図」の演奏で、私が最も心を奪われたのはのんの語りです。
作曲者の想定よりも一回り近く「お姉さん」である彼女の語りは、これまで聴いてきたどの語り(初演者の遠野凪子⦅現・なぎ子⦆、英語版の小澤征良、吉行和子、上白石萌歌)とも違う。
彼女は、さほど大きな抑揚はつけず、でも一つ一つの言葉を大切にかみしめながら、詩に綴られた「わたし」の思いを淡々と紡いでいきます。「わたし」の素直な感情が言葉になったときや、家族に思いを込めた言葉をぶつけるときに見せる、ちょっとした声の表情の変化はなんと心に沁みることでしょうか。
コロムビアのHPに掲載された彼女のメッセージにはこんな言葉があります。
キラキラと輝く音の中に落ちる不穏な裂け目は、不思議と胸に染み渡って希望を見出だす。
私が稚拙な言葉を重ねずとも、彼女の言葉のなかに「系図」という音楽の底知れない深さと魅力、そして聴後に得られる感銘の正体がすべて表現されているような気がします。言葉の本質を見抜く彼女の鋭い眼力があってこそ生まれた、鮮烈にして秀逸なナレーションだと言えるのではないでしょうか。
発売予告が出てから、リリースを心待ちにしていたアルバムでしたが、期待を遥かに超える素晴らしい音楽を聴くことができました。
武満は生前、現代音楽への関心をもたない保守的な日本の音楽界の実情を嘆き、このままでは日本は「泰西名曲の屍体置場」になると危機感を文章に綴っていました。
しかし、「泰西名曲」たるチャイコフスキーの「悲愴」と彼の作品を組み合わせたこのディスクが、いまを生きる私たち聴き手の思想や感情を刺激し、音楽の生命を繋いでいるのだと天国の彼が知れば、ああ、あれは杞憂だったねと喜んでくれるかもしれません。いままさに生まれている新しい音楽に対しても、自分の曲以上に関心を持ちなさいねと釘は刺されるでしょうけれど。
バッティストーニと東京フィル、そしてコロムビアが進めているプロジェクト“Beyond The Standard”の今後が楽しみです。そして、「あまちゃん」「この世界の片隅に」に続く代表作とも言える「系図」の語りを聴かせてくれたのんが、大人の事情を超え、これまで以上に活躍して私たちを魅了してくれることを、ファンとして心から願ってやみません
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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