年末の風物詩として定着したベートーヴェンの「第九」を紅白歌合戦にたとえるなら、続けて放送される「ゆく年くる年」にはどんな音楽があてはまるだろうか。
そんなどうでもいい問いが不意に浮かび、思い当たったのはチャイコフスキーのピアノ曲集「四季」でした。
「第九」が、年内の厄介事を吹き飛ばし、晴れやかな昂揚のうちに新年を迎えるのにふさわしい「ハレ」すなわち「非日常」の音楽であるなら、チャイコフスキーの「四季」は、巡りゆく季節の日々の暮らしから生まれた「ケ」すなわち「日常」の音楽。両曲の関係性が、紅白歌合戦と「ゆく年くる年」のそれと似ているように思えたのです。
チャイコフスキーの「四季」をしんみりと聴き、静かに年の変わり目を迎える。我ながらなかなか良い選択ではないかと思えたのですが、そのとき私の脳内では、ウラジーミル・トロップの演奏が再生されていました。1995年10月に秋川キララホールで録音された世評の高い名盤ですが、私にとっては、履き慣れて足そのままの形になった靴のごとく、すっかり身体に馴染みきった愛聴盤なのです。
でも、それはさておいたとしても、押し迫った年末のひととき、宇多田ヒカルの歌の文句を借りれば、「一人静かに内省す」るために聴く音楽としては、トロップが弾く「四季」のディスク盤が最もふさわしいと私は思います。
チャイコフスキーの「四季」は、雑誌「ヌーヴェリスト」を刊行していた出版社が各月の風物にマッチした詩を選び、その詩の性格に合わせた曲を書くようにチャイコフスキーに依頼してできた曲集で、1875年12月から翌年の11月にかけて作曲されました。
全然関係ないのですが、西郷どんが鹿児島に下野して私学で若い士族に学問を教え、ワーグナーがバイロイトで楽劇「ニーベルングの指環」全4部作を初めて上演した頃のことです。
件の雑誌には毎月、オリジナルの詩と曲の楽譜が掲載され、かくして長くても5分程度の小品が全12曲完成した訳ですが、のちに「12の性格的小品」という副題をつけてまとめて出版されました。
旧暦を念頭にプーシキンらが書いた詩は、それぞれ「炉端で」「謝肉祭」「ひばりの歌」「松雪草」「白夜」「舟歌」「草刈人の歌」「収穫」「狩」「秋の歌」「トロイカ」「クリスマス」というタイトルを持ちます。でも、これらの風物のいくつかは、2010年代の日本で生きる私たちにとっては、実感を抱きにくいものなのではないでしょうか。
例えば「炉端」なんて今は居酒屋くらいでしか見られないし、「白夜」は海外で体験するものです。「トロイカってなあに?」と聞かれても、実物を見ることがほとんどないので正確に答えるのは難しい。「キングギドラ?」「寿司屋のネタ?」とあらぬことを口走り、5歳の女の子に叱られてしまうかもしれません。それに、「クリスマス」と言っても、昨今のクリスマス前の街の賑やかな風景とは何の関係のない詩だし、音楽です。
ですが、チャイコフスキーが毎月の締め切りに追われ、ウンウン唸りながら書いたと伝えられるその音楽は、我々の現実とのギャップを易々と超えて直接胸に響いてきます。
全篇にわたって口どけの良い甘美な旋律が満ち溢れていて、それをふくよかに包み込む豊かなハーモニー、音楽の生命をやわらかく育む優しいリズムが、その魅力を引き立てています。曲の成立背景にある詩の内容を意識せずとも、ただその音楽の調べに耳を傾けているだけで愉しい。
でも、その音楽は、いつもどこかに後ろ向きのメランコリーを孕んでいます。「炉端にて」「クリスマス」のように明るくほのぼのとした情趣をもった曲や、「謝肉祭」「狩」など心弾む力強いリズムに満ちた曲もあるのですが、どの曲を聴いていても、幸せだった日々を回顧するかのような遠いまなざし、どこかに置き去りにしてきたものや喪ってしまったものの大きさに愕然と立ちずさむ人の姿を、感じずにはいられないのです。
そして、1月、2月、3月・・・と時系列に沿って曲を聴き進めていくうち、過ぎていった時間への後ろ髪引かれるような郷愁や愛惜が静かに押し寄せてきて、胸がいっぱいになってしまいます。
そんな音楽のありようを、トロップほど美しく描いたピアニストが、他にどれだけいるでしょうか。
トロップは、全体に表現の振れ幅を適度に抑制し、その範囲の中で陰陽の変化をこまやかに表現することで、大仰なところの一切ない、慎ましくも親しげな音楽を奏でています。
ピアノのタッチは、昨今流行のエッジの立ったものではなく、やや重くて深い。音の立ち上がりは緩やかで、響きにはとろんとした丸みがある。歌いくちはどこまでも優しくて、ウェットな情感をたっぷり含んでいて、上質な砂糖のように甘い。ほんのちょっとしたフレーズの合間で、繊細なデクレッシェンドを駆使して生み出されるルバートが、息をのむほどに美しい。
とりわけ、哀愁に満ちた「秋の歌」を、好きすぎて具合が悪くなりそうなくらいに偏愛しています。
秋の風が、庭木の葉を吹き飛ばしてしまった。黄金色の木の葉は風に乗って林へとはためいていく。
そんな光景を綴った短い詩につけられた曲を、トロップはほぼ6分をかけて演奏しています。オリジナルのピアノ版だけでなく、オーケストラ、弦楽合奏、ピアノ三重奏、チェロ・アンサンブル、ヴァイオリン・アンサンブル(ピアノつき)といった様々な編曲版を聴いてきた中でも、恐らく最長の部類に入るスローテンポだと思います。
トロップは、この曲の身を切るような哀愁を孕んだメロディーを、時に前に進むのをためらうかのように足取りをゆるめ、時に音の起伏に反して音量を絞って、終始ひそやかに歌っています。
自らの内側の奥深くへと沈みこみ、心の痛みを味わいきることで自らを慰撫しようとするかのような、半ば自傷的な弱音が胸に沁みます。そして、痛みと癒しがないまぜになった歌からは、無垢で幸福だった日々を懐かしむようなノスタルジーが滲み出て、こちらの感傷を刺激せずにはいません。
涙が追いつかないほどに疾走する音楽ではなく、失速して涙に追いつかれてしまった音楽、とでも言えば良いでしょうか。
しかし、トロップの演奏には、ずぶずぶと感傷に浸り、悲劇の主人公になりきるような安手のポーズはどこにもありません。ゆとりのあるフレージングと、絶対テンポ感のようなものに裏打ちされた堅固な造型という名人芸を駆使して、詩的で凛とした気品を保った表現を聴かせてくれています。安易な涙に陥らない演奏だからこそ、この曲が静かに閉じられたときには、清々しいほどに大きなカタルシスを得ることができるのでしょう。
「秋の歌」というと、先月ご紹介したバッティストーニの武満徹の「系図」のライナーノート(片山杜秀氏執筆)を読んで、晩年の武満がこの曲をクラリネットと弦楽四重奏のために編曲していたことを知りました。早速CDを買って聴いてみましたが、確かに、晩年を迎えて甘美なメロディーと、明確な調性に傾くことが多く、時として赤裸々にメランコリーを音楽に盛り込んだ武満の「うた」への強い志向を表した編曲だと思いました。
そんな武満がもしトロップの弾く「秋の歌」を聴いたら、とても喜んだのではないかと思うのです。武満はこの録音の4ヶ月後に亡くなっているので、実際には聴けていないはずですが、美しいメランコリーを身にまとったトロップの演奏には大いに共感したのではないでしょうか。
「舟歌」の演奏も同様に素晴らしい。メランコリーという名の暗い海の水面に立つ静かな波が、星からの悲しいあいさつを不安げに揺らしている。そのさまを眺めながら、私たちは何を想えば良いでしょうか。
冒頭の「炉端にて」や「クリスマス」の洗練されきった音楽も美しい。これらの音楽のイメージの源泉にあるのは、作曲者の幼少期の記憶にある風景でしょうか。あるいは、妄想や夢の中の景色でしょうか。両曲の儚げで優しい歌に包まれていると、たまらない懐かしさと幸福感、そして、いまここには「ない」ものへの郷愁や渇望を覚えずにはいられません。
一方、高度な技巧と強い音が求められる「狩」などの音楽では、トロップはピアノを十分に鳴らして充実した響きを作っています。
考えてみれば、トロップはロシア・ピアニズムの流れを継承した、紛れもないヴィルトゥオーゾ・ピアニストなのです。ただ彼はそれを前面に出してマッチョな肉体美を誇示することに興味や関心を持っていないだけ。どんなに微細な弱音もピアノが豊かに響くのは、トロップがピアノを存分に鳴らしきるだけの技術と力を持った人だからなのだと思います。
しかし、トロップの弾く「四季」を聴き終わった後で心に長く残るのは、やはり「秋の歌」や「舟歌」で聴けるようなノスタルジーとメランコリー、過ぎ去っていった時間への郷愁と感傷です。
言うまでもなく、音楽は瞬間に生まれ、その瞬間に消えていくものです。
私たちの生命も同じ。誰もが等しく一度きりしか生きられない。宇宙の悠久の時の流れの中では、人間の生などほんの一瞬でしかなく、二度と同じ瞬間を生きることもなければ、永遠に去っていった人と再び会うこともない。
哀しい。切ない。
でも、そのネガティヴな感情こそが、一度立ち現れた音、生命を愛しむ気持ちを生む。過ぎ去っていくものへの愁い、哀しみ、あるいは悔いがあるからこそ、今と未来をもっと豊かに生きたいという願望が生まれる。
であるなら、最近は悪者扱いされるノスタルジーやメランコリーですが、用量と用法さえ間違えなければ、明日をより良く生きる糧としての役割を果たしてくれるはずです。
この一年、身の回りに起こったことに思いを馳せ、自分がやったこと、できなかったこと、出会った人、去っていった人たちの記憶をあたためる。そして、ささやかで代わり映えしない日常がここにあり、来るべき新年を迎えられることの幸せに、小さな希望の灯を見いだす。
実際に大晦日の夜に聴けるかどうかは別として、平成最後の年末を前に、トロップの「四季」をそんなふうに聴いて、極私的「ゆく年くる年」、いや「ゆく四季くる四季」を味わいたいと思います。
とは言え、この稿を書くために、この音盤を改めて聴き直しました。大フライングです。でも、散々聴いてきた音盤のはずなのに、聴くたびに新鮮な驚きがあちこちにあって、トロップというピアニストの懐の深さと、この作品の尽きせぬ魅力に感じ入りました。
カップリングのラフマニノフの幻想的小品集もとびきりの演奏です。以前、元フィギュアスケート選手の浅田真央が、フリー演技のBGMに選んで有名になった前奏曲「鐘」を始め、全5曲、トロップの豪快なまでの超絶技巧と、常に音色の美しさが失われない洗練されたセンスに耳も心も奪われます。
今回は、音質向上をうたったBlu-SpecCD盤(COCO-73116)を購入して聴いてみました。バイアスがかかっているかもしれませんが、確かに初発盤に比べて、高音の抜けがいくらか良くなり、響きの減衰までも濁らず繊細に再現できているように思えました。初発盤も十分に美しい録音だったのですが、今後は、演奏者の息遣いをより近くに感じられる再発盤の方を聴くことになるだろうと思います。
さて、今年も拙い文章にお付き合い頂き、どうもありがとうございました。皆さまにとって、来るべき新しい年が、健やかで実りのある一年となりますように、そして、心躍る音楽との出会いがありますように、心よりお祈り申し上げます。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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