音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.68

クラシックメールマガジン 2019年3月付

~どちらがお好き? ~ ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番ほか 反田恭平(P)スラドコフスキー指揮ロシア・ナショナル管~

クラシック音楽ファンの間では、「どっちが好きか問題」というのがあります。いや、ありますというのはウソで、私が勝手にそう名づけているだけなのですが、音楽好き同士で会話していると、ある作曲家の隣り合う番号のついた二作品のうち、どちらが好きかという話題で盛り上がることがあります。
例えば、バッハの管弦楽組曲第2, 3番、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14, 15番、あるいは、ブラームスやブルックナー、シベリウスの最後の交響曲二つなど。自分が愛する音楽について語るのも、人の話を聞くのも、どちらも愉しくて話は尽きません。
ただ、話題の対象が好きすぎると、単に好き嫌いの話をしているつもりが、いつしか「N番が好きだなんて初心者だ、N+1番こそ名曲だっ!」というような不毛な空中戦が始まり、喧嘩になってしまうこともある。
でも、それはおかしい。広瀬アリスと広瀬すずのどちらが好みかという問いは可能でも、どちらが美人かなんてことは論争に値しないからです。どちらも美人。しかも、とびきりの美人です。
ラフマニノフのピアノ協奏曲の第2番と第3番も、「どっちが好きか」議論の常連です。共に押しも押されもせぬ名曲にして人気曲、「どっちも好き」「どちらとも言えない」と答える人も多いでしょう。でも、センチメンタルな旋律美が際立つ第2番と、技巧的でスケール壮大な第3番とでは、好みは割れるのではないでしょうか。
この問いに演奏者の名前を付け加えると、なかなか面白い議論に発展します。ホロヴィッツやルービンシュタイン、リヒテル、ギレリス、アルゲリッチのようにどちらかしか弾かない人たちは除外して、例えば「アシュケナージの弾く第2、3番のどっちが好き?」というようなことを考えてみる。演奏家は、古い自作自演から最近のブニアティシヴィリまで、両曲を録音している人なら誰でもいい。複数の録音があったり、両曲で共演者が違えっていたりすれば、指揮者やオーケストラも議論の対象となるでしょう。
とにかく、どちらが水準の高い名演かなどという評価は抜きで、ひたすら主観的に「どっちが好きか」を考える。楽しい自問自答や議論の時間を過ごせること請け合いです。
このラフマニノフのピアノ協奏曲についての「どっちが好きか」議論のターゲットに、反田恭平が参入してきました。2016年11月発売の第2番に続き、第3番の新しいCDをリリースしたのです。バックは前回から顔ぶれが変わり、スラドコフスキー指揮ロシア・ナショナル管。コロムビアのスタッフがモスクワに出向いてセッションを組んで録音されました。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は技術的難易度の高い見せ場の多い曲ですが、反田は水を得た魚のように嬉々として数々の難所をクリアし、磨き抜かれた美技を惜しげもなく披露しています。
切れ味鋭い強靭な打鍵と鍛え抜かれた超絶技巧を駆使した大技の数々。透明なタッチでみずみずしく歌い上げる繊細にして優しいカンタービレ。多彩なテクニックを曲想によってきれいに使い分けながら、自然で豊かな起伏をオーケストラとともに作っていくそのさまは、痛快としか言いようがありません。弱音で旋律を歌うときのフレーズのおさめ方の溜息の出るような美しさや、和音連打(特にオクターヴ和音)での敏捷かつ豪快な弾きっぷりも冴え渡っています。
しかも、どの瞬間でもピアノの音は一切混濁しない。楽譜の音符の密度が高く、遠目には真っ黒に見えるような箇所にさしかかると、彼は音の塊をきれいに解きほぐし、クリアな音像をもった純度の高い響きへと写像する。ペダリングも常に適切で、一つ一つが粒立ち、キラキラと輝いた音たちが次々に耳に飛び込んできます。
この曲の演奏としてどうのという以前に、目も眩むような超絶技巧と純度の高いピアノの音色に、耳も心も奪われてしまいます。
しかし、ちょっと不思議な演奏でもあります。演奏時間が45分を超えていて最長の部類に入るにも関わらず、テンポが遅いと感じる瞬間がまったくないのです。
特定の部分だけが突出して遅い訳でも、タメを作ってブレーキをかける場面が定常的にある訳でもない。部分部分で必要な緩急の差はつけられていて、弱音が支配するパッセージではテンポを落とす場面も多く、ここぞという急所では一気呵成に突き進みさえする。しかし、緩急のコントラストを燃料にして進んでいるという様子はまったくなくて、全体がおしなべてゆっくり演奏されているのです。
それなのに、体感テンポはもっと早いもののように思える。いや、それどころか胸躍るようなスピード感がある。不思議です。
例えば、第1楽章中盤過ぎのカデンツァ。彼は、楽譜に二種類印刷されたバージョンのうち、“Ossia”と記載された、音の多い方を弾いていますが、じっくり時間をかけてヴォルテージを徐々に上げながら、強烈なクライマックスへと到達しています。
そこで彼は、決して激情に任せて突っ走ったりはしない。ピアノの響きがホールの隅々にまで届くのを確かめるかのように、豪快な和音を一つ一つ鳴らし切っています。
でも、音楽には停滞感はまったくありません。いつも前向きの加速度があって、その反作用となる力が聴き手である私の体にまっすぐ向かってくる。車に乗っていてどんな猛スピードで走っているのかとメーターを見たら、実は制限速度以内だったというような意外さが面白いし、爽快なこときわまりない。
この「ずしりと重いスピード感」は、カデンツァに限らず、曲のあちこちで見てとれます。第1楽章のダイナミックな起伏に富んだドラマ、第3楽章での躍動感溢れる高揚だけでなく、第2楽章でのテンポを落とした静謐な内部沈潜、そして、時折ルバートをかけて歩みを止めるような場面にも、ゆとりのある音の運びの中にいつも前向きの矢印が見える。
これが反田の独特の「語り口」を生み、音楽に生き生きとした息吹を与えている訳ですが、楽曲のある種の「冗長性」を可視化してもいる。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の骨格は、基本はソナタ形式など古典的なフォルムに則ったシンプルなものです。しかし、決まりごとを厳密に守って作られた音楽ではありません。ピアニストの華麗な技を見せたり、ファンタジーを羽ばたかせたり、本論から外れた寄り道的な部分があります。ロシア人作曲家の曲にはよくあることですが、経過句的なパッセージで執拗に繰り返されるシーケンスに、「くどさ」を感じることもあります。
反田は、そんな部分を、他の多くの演奏のように冗長さを背後に隠すのではなく、音楽が欲するようにちゃんと脇道に逸れています。時に聴き手を異次元のファンタジーへと誘い、またある時は、次のジャンプのために静かに力をチャージする、というように。
しかし、決して散漫な演奏にはなっていない。それどころか、この冗長さこそがむしろ音楽の魅力を高めているのであって、始点から終点に至るまでに通るいくつかの迂回ルートは、音楽のドラマ進行の中では不可欠な道筋なのだとさえ思えてしまう。そこが凄い。
そうした様々な紆余曲折が伏線としてあるからこそ、第3楽章コーダのスケール壮大なエンディングにたどり着いたときには、「ああ、ここに来るまでいろいろあった。遠回りもした」というような感慨が押し寄せてきて、強烈なカタルシスを生み出すのでしょう。
時々脱線して話を飛ばして場の関心を引きつけ続けながら、最後には主要なテーマを聞き手の一人一人の心に刻み込む。そんな講演の名人や名教師が使う高等テクニックを、反田は音楽の中で実践していると言えます。
それは彼の内側にある厳格なテンポ感と、高い視点から全体を俯瞰し、異質なものを必然へときれいに配置してしまう卓抜なバランス感覚のなせる技なのでしょう。でも、私はそこに反田の類い稀な「コミュニケーション力」を見いださずにはいられません。
劇作家の平田オリザによれば、「冗長さを時と場合によって操作している人こそ、コミュニケーション能力が高い」のだそうです。それは人間同士の言葉を介したコミュニケーションについて語った論ですが、反田は、この「冗長さ」を見事にコントロールすることのできる力を持った「コミュニケーショニスト」だと言えるのかもしれません。
一見冗長と思えるものを切り捨てず、すべてを大きく包みこみ統合したような音楽は、倍音をたっぷり含んで豊かに鳴り響いています。だからこそ聴き手は、倍音の中に自分なりの共感ポイントを見出し、音楽を自らのものとして楽しむことができる。聴き終わって、「どっちが好きか」みたいな議論を誰かと交わしたくなる。弾き手から聴き手に差し出された放射状の双方向コミュニケーションの枝は、他の聴き手も巻き込んで広がっていく。
自らは高い目標を掲げて音楽に厳しく向き合いながらも、多くの聴き手とのコミュニケーションの扉を開き、聴き手側が音楽に能動的に関わることを拒否しない。そんな音楽のありようが、反田の弾くラフマニノフの3番の演奏をとびきり魅力的なものにしているように思います。
反田がそんな音楽を目指しているかどうかは知る由もありませんが、彼の音楽が、クラシック音楽に馴染みのない人から、百戦錬磨の専門家の方々まで幅広く受け容れられているのは、時代の要請にも応えた彼の高い「コミュニケーション力」ゆえではないでしょうか。
その意味では、メロドラマ的展開の中に静けさをたたえた第2番も良かったのですが、音楽の幅が広がり、味わいも格段に深まったこの第3番の魅力には抗いがたいものがあります。
カップリングのソナタ第2番も、聴きごたえ十分の演奏です。反田は1931年改訂版の楽譜だけを使用(一部の演奏家は初版とミックスした独自バージョンを作成して演奏している)し、快刀乱麻を断つ鮮やかなテクニックと、スマートで洗練された表現、そして「ずっしりと重いスピード感」を縦横無尽に駆使して、音楽の「かたち」をくっきりと描きだしています。
ロシア人にして稀代のヴィルトゥオーゾだったラフマニノフの音楽の特質を十全に表現したスケールの大きな演奏と言えますが、時折、思いがけずドビュッシーの音楽のような繊細な響きが聴こえる部分もあり、非常に新鮮でした。
アルバムの最後にアンコール的に収められた短い前奏曲二つは、大曲二つを続けて聴いて高揚した心をほぐしてくれる演奏で、特に最後のニ長調の、静かに内面を見つめるような深い抒情には胸を打たれます。収録曲の調性の組み合わせと順序に気を配った選曲にも、反田の美意識と、聴き手への配慮が見てとれて好感を持ちます。
協奏曲でのオーケストラの演奏ですが、個人的には、指揮者アレクサンドル・スラドコフスキーの起用が実に嬉しい。ロシアのメロディアレーベルから彼の指揮するショスタコーヴィチやマーラーの交響曲のCDが発売されて非常に気になる存在でしたし(LFJなどでも度々来日して知名度もじわじわ上がっている)、実際に演奏も素晴らしかったからです。
彼は、プレトニョフが創設した優秀なロシア・ナショナル管(スラドコフスキーがシェフを務めるタタルスタン国立響でないのが少し残念ですが)から重厚な響きを引き出し、反田の「ずしりとしたスピード感」を見事にサポートしています。特に第2楽章での憂愁をたたえたカンタービレの洪水と、全体にスケール壮大で雄渾な音楽づくりには心惹かれました。ちょっと古風な巨匠風の風格漂う演奏ぶりとも言えますが、胃にもたれるようなしつこさはなく、随所で新しい感覚を聴かせてくれるのが面白い。
オーケストラも、ライナーノートにあるように尻上がりに好調な協演ぶりを聴かせてくれています。大きなヴィブラートのかかった管楽器の音、分厚くて地鳴りするような弦楽器(対向配置をとっています)のアンサンブル、時折、「ソ連」時代のオーケストラの音が顔を出すのも何だか嬉しい。
今後、スラドコフスキーとコロムビアの共同作業が継続されるかは知りませんが、この新しい世代のロシア人指揮者の演奏が続けて聴けるならばとても嬉しい。
さて、そろそろお開きにする前に、最初の問いに戻りましょう。
「反田恭平の弾くラフマニノフの2番と3番、どっちが好きか」と聞かれれば、私は少なくとも今の時点ではという注釈つきで「3番」と答えます。明日になれば、気が変わって「どっちも好きです」と答えるかもしれませんが・・・。
皆さんはいかがでしょうか?どちらがお好きですか?
因みに、広瀬アリスと広瀬すずは、どちらも好みです。これは胸を張って言えます。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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