音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.75

クラシックメールマガジン 2019年10月付

~聴いてから観るか、観てから聴くか ~ 「マチネの終わりに and more」福田進一(g)~

平野啓一郎のベストセラー小説と連動したアルバム「マチネの終わりに and more」が発売されました。2016年発売の前作と同様、物語に登場する音楽がすべて福田進一のギター演奏で収められています。今回は新旧録音をとりまぜたコンピレーションアルバムではなく、全曲2019年6月の新録音。
小説に出てくる音楽が順番に収められているので、アルバムを通して聴けば、小説のストーリーをリアルに追体験することができます。
今さらですが、「マチネの終わりに」のあらすじを軽くおさらいしておきます。
主人公のギタリスト蒔野聡史はジャーナリストの小峰洋子と出会い、互いに心を通い合わせる。しかし、彼らの前に底意地の悪い運命が立ちはだかり、二人は違う道を歩み始める。それぞれ別のパートナーを得て家庭を築きながらも、不本意な別離の痛みは消えない。彼らは中年期の危機や社会問題にも巻き込まれ、苦悩と孤独を深めていく。時は流れ、一時の不調から立ち直って演奏活動に復帰した蒔野は、洋子の住むニューヨークでリサイタルを開く。大成功の演奏会の後、二人は…。
今回のアルバムで重要なのは、第1章に登場するブラームスの「ピアノのための6つの小品」からの間奏曲Op.118-2と、第9章、蒔野がニューヨークでの演奏会で取り上げた曲でしょう。
中でもブラームスの間奏曲は、ファン待望のものではないでしょうか。「この曲から二人の物語は始まった」というオビのコピーの通り、蒔野と洋子が初めて言葉を交わす場面で出てくる曲なのに、前作では収録されなかったからです。
小説では、蒔野がコンサートのアンコール曲として弾いたという設定になっています。彼の素晴らしい演奏に魅了された洋子は、演奏会終了後に共通の知り合いに連れられて楽屋を訪ね、こう感想を述べます。
「アンコールのブラームス、とても好きな曲なんです。編曲、素晴らしかったです。本当にうっとりしました。……どこか、遠い場所に連れて行ってくれるような、そう促されて、 そっと手を引かれているような。」
こんなファンタスティックな台詞を目にしたら、聴きたくなるのが人情というもの。しかし、ライナーノートの平野との対談で、福田が「ふつうに弾こうとしてもギターでは不可能な曲」と述べているように、演奏するにはハードルが高いのでしょう。確かに音域は広いし、音の動きの多い中間部をギターで弾くのは難しそうです。
今回のアルバムでは、ギタリストの鈴木大介が編曲に挑んでいます。福田の弟子でもある鈴木は、以前からこの曲を編曲したいと言っていたのだそうです。かくして、誰もが待ち望んだブラームスが現実に音として鳴り響くこととなりました。
私自身、今回の「マチネの終わりに and more」を購入したのは、何よりもこのブラームスが聴きたかったからです。かねてから偏愛する曲が、敬愛する鈴木大介の編曲と福田進一のギターで聴ける。聴かない理由が一体どこにあるでしょうか。
期待に胸を膨らませながらCDプレーヤーの再生ボタンを押したとき、私の耳に沁み込んできたのは紛れもないブラームスの間奏曲の響きでした。
確かに調はイ長調からニ長調に変更されているし、ピアノとギターという二つの楽器の特性の違いは明らかです。しかし、厚みのある和音はギター向きの響きに巧みに移し換えられ、入り組んだ音の綾の中から親密な歌が自然に浮かび上がってくる。原曲のもつ味わいは、忠実に再現されている。いや、それどころか、ギターという楽器でしかなし得ない繊細な表現もあちこちで見られる。期待を遥かに越える素晴らしい編曲で、なぜかホッとしてしまいました。
福田の演奏は、エモーショナルな音の動きを慈しむように奏でながら、すべてを包み込むような大きな流れを生み出すことに成功しています。小説の中で蒔野が弾いたブラームスがこんな演奏だったら、洋子ならずとも聴衆の誰もがうっとりと聴き入ったに違いありません。
このギターで奏でられた間奏曲を聴いていると、私は作曲者の「肉声」を感じずにはいられません。
還暦を迎えたブラームスが我が身を振り返り「私の人生はこれで良かったのだろうか?」と自問自答する声が、そして、この曲を献呈したクララ・シューマンに向けて「私たちは結ばれなかったけれど、二人の愛のかたちはこれで良かったのだろうか?」と問いかける声が聴こえてくるような気がするのです。冒頭から現れる上向音型のフレーズがその「問い」であるなら、応答するように導き出される下向音型は、聞きたいと願う “Yes” の「答え」でしょうか。
曲は自問自答を積み重ねて感情の昂りを見せた後、すべてを受容するような穏やかな響きに包まれます。いっとき心を乱した葛藤や悔悟は、諦めを含んだようなグレーの肯定に呑み込まれ、ゼロ地点に向かって収斂していく。ここに至って「これで良かったのだ」という呟きが聴こえてくる。
二人の男女の出会いの場面にブラームスの間奏曲がある。それは、彼らの幸福な姿は、「選ばなかった過去」の中にしか映らないことを意味しているのかもしれません。しかし、自分達が予めそう運命づけられていることは、その時点ではまだ自覚していない。引き裂かれるような辛い別離を経て初めて知ることとなる。
望まなかった破局の後、決して交わらない道を歩き出した二人は、心の底でまだ惹かれ合い求め合っている。現在の幸せを実感していても、本当にこれで良かったのか?と自問し、なぜああしなかったのかと煩悶することもある。しかし、それでも「これで良かったんだ」という答えの中に我が身を置いてみてようやく、「選んだ過去」と「選ばなかった過去」に新たな意味を見いし、「過去を変える」ことができる。
ラストシーンの後、二人はこの間奏曲のように穏やかな肯定にたどり着き、「過去を変える」ことができただろうか。いや、そうあってほしい。福田が奏でるギターの繊細な響きに浸りながら願ってしまいます。
最終章、蒔野がニューヨークで開いたコンサートの曲目が再現されているのも見逃せません。
前作では第一部のメイン曲、ブローウェルのソナタの楽章だけが収録されていましたが、今回は小説で作曲者の名前のみ記されていたヴィラ=ロボスと武満徹の曲と、第二部の最後に演奏されたJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲第3番からアルマンドが収められています。
いずれも福田が繰り返し取り上げてきた作品で、すべてを手中に収めた味わい深い演奏を聴くことができます。しかも、アルバムのテイストに合わせ、既存の録音とは幾分ニュアンスを変えて弾いていて、彼の音楽家としての引き出しの多さ、懐の深さに舌を巻きます。特に、武満の「すべては薄明の中で」は、音で聴く陰翳礼賛とでもいうような微妙な明暗のグラデーションに胸を打たれずにいられません。
それ以外のトラックは、サイドストーリー的な場面で端役的に使われた音楽が多いでしょうか。例えば、バークリーのソナチネ(小説ではソナタと記載)は、蒔野が「大聖堂」の途中で演奏できなくなってしまったマドリードでの演奏会の曲目です。ヴィラ=ロボスの練習曲はスランプに陥って楽器が弾けなくなった蒔野が、復帰への手がかりを求めて練習した曲で、ソプラノとのデュオの二曲は、蒔野がテルミンのコンサートにゲスト出演した時に弾いた曲とあります。また、バッハのリュート組曲は蒔野の師がレコード録音したと言及されているだけだし、タンスマンは若手ポーランド人ギタリストが弾いたという設定です。
しかし、どの曲でも福田は慈しむような語り口で、じっくりと演奏しています。特に、セゴビアが愛奏したというタンスマンの「カヴァティーナ組曲」。この作曲家特有の古風な音楽のいで立ちを風格ゆたかに明らかにしながら、淡い感傷と歌心に満ちた表現を聴かせていて印象に残ります。とりわけ、哀愁を帯びた第4曲「バルカローレ(舟歌)」の響きは印象的で心に沁みます。バークリーのソナチネは、第2楽章の哀しげな響きを軸に全曲の表現を組み立てているのがいい。
林正子を迎えた二曲のヴォカリーズ作品も美しい。彼女の声質はクリーミーで柔らかく、深みと豊かさを併せもった響きが際立っています。また、大柄でダイナミックな歌いくちには華があり、ヴィラ=ロボスでのハミングの倍音もみずみずしい。福田とのアンサンブルも息がぴったりで、既に活躍中のオペラのみならず、ギターやピアノ伴奏の歌曲も是非聴かせてほしい。ライナーノートで彼女が翻訳した「ブラジル風バッハ」歌詞対訳も、言葉の選び方がとても美しい。これから注目していきたい多才なソプラノ歌手です。
鈴木大介の編曲では、ドビュッシーの「月の光」も収められています。今年発売された鈴木のベスト盤で初めて収録されたものですが、こちらもブラームス同様にピアノ曲をギターで弾くことのハンディキャップを感じさせない見事なアレンジです。
福田は「月の光」の神秘的な静謐さに焦点を当て、ゆったりとしたテンポの中で、祈りの姿勢を思わせるうつむき加減の歌を紡いでいきます。小説にそんな場面はないのですが、蒔野と洋子が一言も交わさず肩を寄せ合い、青白く輝く月を眺めて孤独をあたためあう、そんな情景を想像したくなる音楽です。
そして、バッハ。今回の新盤を聴いて、小説の中でバッハの音楽が非常に大切な役割を果たしていることを再認識しました。登場人物たちにとって「救い」の音楽となっているのです。
蒔野はバッハの無伴奏チェロ組曲と真正面から取り組むことでスランプから脱け出し、洋子との別離と現在の生活に肯定的な意味を見いだすことができた。洋子も彼が演奏するバッハを糧として自らの過去と向き合い、明日への一歩を踏み出す。そんなふうに人々の人生を明るく照らすバッハの音楽のありようを、福田は血の通ったあたたかい表現としてしみじみ聴かせてくれます。長いキャリアの中でバッハにじっくり取り組んできた福田ならではの、掛け値なしの名演ではないでしょうか。
「マチネの終わりに」には、過去の受容と肯定のメタファーとしてのブラームスの間奏曲があり、そして救いと祈りの象徴としてのバッハの音楽がある。そんな新しい視点を得て、この小説をより深く楽しめるようになったと思います。折に触れて繰り返し読んでいきたい本だし、何度も聴いて味わいたいCDです。
さて、福山雅治と石田ゆり子が主役を務めた映画版「マチネの終わりに」の封切りが、目前に迫ってきました。私は石田ゆり子の熱烈なファンなので、彼女が演じる小峰洋子の姿をスクリーンで見るのが楽しみで楽しみで、夜も眠れません。せめてこのアルバムと前作を併せて聴いて、期待に高ぶる心を鎮めたいと思います。
読者諸氏は、このアルバムを聴いてから映画を観ますか?それとも、観てから聴きますか?
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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