音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.86

クラシックメールマガジン 2020年9月付

~なんかいい感じ ~ ベートーヴェン/交響曲全集 スウィトナー/ベルリン・シュターツカペレ~

子供の頃、あだ名が「べーとーべん」になったことがあります。きっかけは、クラス替えの日に一人ずつ全員の前で自己紹介をさせられたとき、「べーとーべんの音楽が好きです」と言ったことでした。
当時の小学生にとって、ベートーヴェンと言えば、音楽室に肖像画や胸像が飾られた「ジャジャジャジャーン」の人。あとは、ドリフのコントなんかに出てくる、苦虫をかみつぶしたような怖い人というイメージしかない。
たちまちターゲットになり、からかわれるようになりました。本当のことを言っただけでなぜこんな理不尽な扱いを受けるのかと憤りもしましたが、実はどこか嬉しくもあった。自分が大好きなベートーヴェンになれたような気がしたからです。仮面ライダーやウルトラマンに変身できた、みたいな感覚でしょうか。
あれから40年余り。「べーとーべん」とあだ名された少年は変身もできず、平々凡々な大人に落ち着きましたが、ベートーヴェンの音楽は好きで聴き続けています。偉大な作曲家への畏怖と愛慕の念は年々強まるばかりです。
折しも、今年はベートーヴェンの生誕250年。コロナの影響でコンサートは激減しましたが、音盤界隈では興味深い新譜が続々とリリースされ、大きな盛り上がりを見せています。かく言う私も、例年以上にベートーヴェンの音楽にどっぷり浸っています。
ということで、今月はオトマール・スウィトナー指揮ベルリン・シュターツカペレによる交響曲全集(COCQ-83984-9)をとり上げます。2020年は世界最古のオーケストラであるベルリン・シュターツカペレの創立450周年、そして、スウィトナーの没後10周年を迎えるので、三つのアニヴァーサリー・イヤーを記念して。
スウィトナーのベートーヴェン全集は、1980~83年、東ベルリンのイエス・キリスト教会でデジタル録音されたもので、現在は1984年録音の5つの序曲を加えて6枚組で発売されています。このうち第6番「田園」は1981年度のレコード・アカデミー賞を受賞、第5番「運命」は1982年10月、世界で初めて発売されたCDの一枚(C37-7001 \3,800!)となるなど、高い評価を受けました。日本とゆかりの深かった名指揮者の待望のディスクとして、ファンからも絶大な支持を集めた記憶があります。
演奏は、実にオーソドックスなもの。突出したところや極端なところはまったくなく、ドイツの伝統に則した、穏健で最大公約数的な解釈に貫かれています。かと言って、教科書的で没個性な演奏に陥ることはなく、名指揮者と伝統あるオーケストラの両者の持ち味が十全に生かされた佳演揃いです。
まず、オーケストラの響きがいい。金管楽器の音量を抑えた弦主体のアンサンブル。重量感のある低音楽器の音に、ふくよかに鳴る内声部が重なり、高音の旋律を柔らかく包み込むバランス感。派手さはありませんが、独特の美しさがあって味わい深い。
スウィトナーの大らかな音楽づくりも魅力的です。アンサンブルを端正に整えつつも、細部の精密さよりも横の流れを重視し、自然な語り口で淀みなく音楽を進めていく。奇数番で、楽章を追うごとに音楽が白熱し、いつの間にか、曲の終盤に向かって燃焼していくあたりの巧まざる展開は名人芸そのもので、オーケストラから大きなうねりを引き出すのに成功しています。強烈な個性や、巨大なスケール感こそありませんが、それゆえに飽きのこない演奏になっています。
中でも、第9番は、渾身の演奏と言えます。落ち着いた足取りでじっくりと盛り上げる第1楽章、一転して怒涛の勢いをもって進められる第2楽章、優しく気品に満ちたカンタービレが心に残る第3楽章、いずれも良い演奏ですが、ハイライトは声楽が入った第4楽章。テノールと男声合唱が歌うトルコ風行進曲の後、「歓喜の歌」再現を経て二重フーガへと至るあたりの見事な棒さばきは、名オペラ指揮者だったスウィトナーの面目躍如で、その壮麗な表現には唸ってしまいます。
偶数番の4曲は、ゆとりのある音の運びから言い知れぬ愉悦感が溢れ出ていて、さらに素晴らしい。緩徐楽章やスケルツォのトリオで聴けるのびやかな歌も、スウィトナーならではの魅力です。特に「田園」終楽章の、自然への感謝に満ちた歌は感動的ですらある。
思えば、録音当時、一部の例外を除けば、ほとんどのオーケストラは多かれ少なかれ、こんなふうにベートーヴェンを演奏していました。
大き目の編成のモダンオケを使って、各楽器の響きをブレンドさせた重厚なサウンドを生み出す。弦楽器は定常的にヴィブラートをかけ、緩徐楽章の旋律では綿々と歌う。楽譜に記された猛烈な早さの速度記号にはこだわらず、無理のない中庸のテンポをとる。リズムにも、叩きつけるようなタテノリのビートより、ずしりとした重みをもたせる。
時期的に当然ですが、楽譜はかつて広く流布していた、古いエディションを使用しているようです(恐らくペータース版。唯一、「運命」ではギュルケの新校訂版を採用し、出版時に削除された第3楽章のリピート記号を復活させているのが珍しい)。だから、90年代刊行のベーレンライター版で採用された「発見」はまだどこにもありません。各曲の第1楽章提示部のリピートを励行したり、伝統的に慣習化していたオーケストレーションの変更をやめたりなど、スコアに忠実であろうとする姿勢も、原典回帰が叫ばれた1970年代末以降、一般的になりつつあったもの。
加えて、居丈高になることのない平易な語り口も相俟って、このスウィトナー盤には、「今となりにあるベートーヴェン」とでも呼びたくなる近しさがあります。近所のコンサートホールや各家庭のリビングルームなど、人々の日常の風景にさりげなく融け込んだようなベートーヴェンの音楽像がここにあります。
年寄りじみたことを言いますが、こういうタイプのベートーヴェンは、今はもうほとんど聴けなくなってしまいました。音楽家たちは、古楽器や古楽奏法を無視してベートーヴェンの交響曲を演奏できなくなった。聴き手の側も、旬の演奏家たちが次々と提示してくれる刺激的な解釈を愉しみ、「ニュー・ノーマル」をアップデートするのに日々忙しい。
そんな状況もあって、いわば「オールド・ノーマル」的な位置づけにあるスウィトナーのベートーヴェン全集の存在は、正直なところ遠いものになっていました。もはや「今となりにあるもの」としては感じられない。
事実、巷で話題に上ることも少なくなったし、私自身も、ほとんど聴かなくなってしまった。
スウィトナーの存在が忘れられた訳では決してありません。彼がN響を指揮したライヴ録音は今も時々FMで放送され、ベルリンやドレスデンとの名盤が次々とSACD化されているからです。
私自身もスウィトナーは大好きな指揮者です。モーツァルトの交響曲やオペラ、シューベルトの交響曲、そして人生の愛聴盤ベスト10に入るグリーグの管弦楽曲集(特にホルベア組曲)など、彼の音盤の多くは常に私の傍らにあります(そうそう、最晩年のブルックナーも、なかなかいい)。
それなのに、スウィトナーのベートーヴェンが遠く感じられてしまうのは、現役演奏家たちによる「ニュー・ノーマル」登場の影響が大きいのでしょう。例えば、最近リリースされたトレヴィーノ、アントニーニ、ネルソンス、久石譲(!)らのユニークな全集、クルレンツィスやロト、カサドらによる衝撃的な演奏。これらを聴いてしまうと、さらなる刺激を求めて新しい演奏を欲してしまう(レコード会社の商略にまんまと乗せられているだけとも言います)。
でも、だからと言って、古くなったスウィトナーの全集盤を忘却の彼方に追いやってしまうのは、あまりにももったいない。ただ優れた演奏という以上の魅力が、ここにあると思えるからです。
では、その魅力とは一体何だろうか。久々に改めてディスクを聴き直してあれこれ考えるうち、宮田珠己氏の著書「いい感じの石ころを拾いに」(中公文庫刊)を思い出しました。
宮田氏はただただ「なんかいい感じのする石」を拾うために、全国を旅しています。欲しいのは、「大宇宙」が見られる「なんでもない石ころ」。化石や稀少な鉱物を含む高価な石ではない。
氏が見つけた石には、その形、色、模様になんとも言葉では説明のしにくい「なんかいい感じ」があります。手にとって無心で見ているうち、石の成り立ちから宇宙の誕生にまで思いを巡らせ、いつまでも見ていたくなるような。本の文章や実際の石の写真を見ているだけでも、その感覚は何となく分かります。
私がスウィトナーのベートーヴェンを聴いて感じるものは、この「なんかいい感じ」に通じるような気がします。
この演奏の、どこにも作為を感じさせぬ「なんでもない」響きに耳を傾けていると、ベートーヴェンの姿も、演奏家の存在もいつしか消えてしまう。作曲者が創意工夫を凝らして張り巡らせた音の仕掛けすべてが、まるで石の造形のように、天然のものであるかのような気がしてくる。
「いい感じの石ころ」を見ているかのごとく、音の景色の美しさや面白さをぼんやりと楽しんでいるうちに、ゆるい幸福感が私の心を満たしていく。その愉しい感覚が忘れられなくて、音盤をプレーヤーのターンテーブルに再び載せる。
考えてみれば、同級生から「べーとーべん」とあだ名をつけられていた少年時代、私はベートーヴェンの音楽を聴いて、こんなふうに「なんかいい感じ」を楽しんでいたのでした。スウィトナーの演奏を聴いていて、あの頃のピュアな感覚がありありとよみがえってきました。
こんなことを言うと叱られてしまうかもしれませんが、このスウィトナー盤は、ベートーヴェンの音楽の「いい感じ」をぼんやり、ゆったりと味わえるところに、最大の美質があるような気がします。もちろん、スウィトナーの解釈は十分に知的なもので、綿密な設計に裏打ちされたものです。しかし、あれこれと考えるのは後回しにして、敢えて言語化しない感覚を味わい楽しむことでこそ、その良さが肚に落ちる、そんなタイプの演奏じゃないかと思います。
ベートーヴェンの交響曲なら、もっと個性的で、強烈な印象を残す演奏はいくらでもあります。正直言えば、コロムビアからは「ニュー・ノーマル」なベートーヴェンの交響曲全集をリリースしてほしいとも思います。でも、この「なんかいい感じ」に満ちたベートーヴェンは他には得難い稀有のもので、いつまでもカタログに残しておいてほしい名盤です。
さて、最後に、スウィトナーとベルリン・シュターツカペレのもう一つの代表盤、シューベルトの交響曲全集(COCQ-83990-4)から、劇付随音楽「ロザムンデ」の間奏曲第3番をご紹介します。
スウィトナーのご子息、イゴール・ハイツマン氏が制作した映画「父の音楽 (原題:Nach der Musik)」のラストシーンで流れていたものです。
これは1990年にパーキンソン病のために引退した(最後の公式演奏は1994年)スウィトナーの老後の生活、とりわけ親子の心の交流をあたたかく描いたドキュメンタリーで、かつて日本でもTV放送されて大きな話題になりました。
内容は衝撃的なものでした。
病を得て老いの進んだスウィトナーの姿と、妻、愛人と息子の3人の「家族」に囲まれた私生活が赤裸々に映し出されていたからです。今の時代なら大バッシング必至の、スウィトナーの妻と愛人の間の二重生活。しかも、彼らは定期的に集まって食事をとるなど、仲が良かった。信じられないような光景を目にして驚くばかりでしたが、イゴール氏が「誰も見捨てなかった」と評する、スウィトナーの情の厚さには打たれました。また、子供の頃には一緒に生活することが許されなかったイゴール氏が、その空白を埋めるかのように父親と交流を深めようとする姿も忘れられません。
映画のハイライトは、スウィトナーが息子の願いを聞き入れ、かつての手兵だったベルリン・シュターツカペレの指揮台に7年ぶりに立つ場面(映像収録のための非公開の演奏会)。残念ながら一部しか見られませんが、椅子に腰かけ、震える手で、モーツァルトの交響曲第39番と、ヨーゼフ・シュトラウスのポルカ「とんぼ」を指揮するスウィトナーの姿は、しかし生き生きとした輝きに満ちていて、涙なくしては見られません。
映画のラストは、スウィトナーが、生まれ故郷であるオーストリアのインスブルックを訪れる場面。これが最後と故郷の山々に挨拶をし、旅を終えたスウィトナーとイゴールが心に沁みる会話を交わした後、「ロザムンデ」が流れてきて、一人部屋に佇むスウィトナーの姿が映し出されてエンドロールが始まります。
「いいじゃないの幸せならば」と古い歌を口ずさみたくなるような、愛と幸福に満ちた父子の絆を描いたこのラストには、優しい痛みを孕んだシューベルトの音楽こそ相応しい。
没後10年となる名指揮者スウィトナーを偲び、私たちに豊かな聴体験を与えてくれたことに感謝を込めて、この「ロザムンデ」を。
なお、この映画は海外ではDVD化されているようですが、入手困難な状況です。是非とも権利関係をクリアして、日本語字幕付きで商品化してほしいものです。
コロナ禍の影響で、せっかくのベートーヴェンのアニヴァーサリー・イヤーはさみしいものになってしまいました。しかし、お祭りの有無に関わらず、楽聖の遺してくれた素晴らしい音楽は、私たちに多くのことを語りかけ、問いかけ続けてくれることでしょう。「べーとーべん」になり損ねた私も、初心を忘れることなく、「いい感じのベートーヴェン」を楽しんでいきたいと思います。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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