コロナに気をとられているうちにも季節はめぐり、ふと気がつけば、実りの秋真っ盛りになっていました。抜けるような青空は既に高く、木々の葉はめいめいに色づき、枝はたわわに実っています。大地に育まれた果実は、多様な生命をつなぐ恵みとなっていくことでしょう。
2018年春から始められたアンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルの“BEYOND THE STANDARD”シリーズも、通算第5作にして完結編となる「オーケストラ名曲集」がリリースされ、収穫のときを迎えました。
第1作(「新世界」と伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」)でまかれた種が、第2作(「悲愴」と武満徹の「系図」)で芽を出し、第3作(「運命」と吉松隆の「サイバーバード協奏曲」)に至って花を咲かせた。そして、第4作(「幻想交響曲」と黛敏郎の「舞楽」)で紅葉し、ここに来て実を結んだ。そんなところでしょうか。
クラシックのスタンダードな作品と、邦人作曲家の作品を組み合わせてセッション録音するというコンセプトのもと、立ち上げられたプロジェクト。この意義深い取り組みの掉尾を飾る「オーケストラ名曲集」は、美味で滋養に富んだ「実り」の一枚となりました。
演奏、選曲、録音、ライナーノート(いつも通り、片山杜秀氏による熱のこもった読みもの)、すべてにおいて語り尽くせぬ魅力がありますが、まず、バッティストーニと東京フィルの演奏が期待をはるかに超えて素晴らしい。
今回、収録されているスタンダード曲は、スメタナの交響詩「モルダウ」、シベリウスの交響詩「フィンランディア」、ムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜」、ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」から「ワルキューレの騎行」、ファリャのバレエ音楽「恋は魔術師」から「火祭りの踊り」、バーンスタインのミュージカル「キャンディード」序曲。「超」の字がつく有名曲がずらりと並んでいます。
毎度のお楽しみ、日本の管弦楽曲には、外山雄三の名曲「管弦楽のためのラプソディー」が選ばれ、アルバムの最後は、配信ではリリース済のバッティストーニの「エラン・ヴィタール(管弦楽のためのラプソディー)」が飾っています。
そのまま中学校の音楽鑑賞の教材に使えそうなベタな選曲ですが、バッティストーニと東京フィルの演奏では、どれも初めて接する曲のように、新鮮に聴こえます。
例えば、「モルダウ」や「フィンランディア」のあまりにも有名なメロディや、「キャンディード」序曲でのみずみずしい歌。
これらの楽曲を幾度となく演奏してきたはずの百戦錬磨の弾き手たちが、楚々とした心の震えを感じながら奏でている。そう思わずにいられないほどに、ヴィブラートや音色、フレーズの扱いのすべてから、音楽をすることの喜びがひしひしと伝わってくるのです。私も、遠い昔にこれらの曲に出会った頃の初心に帰り、時の経つのも忘れて、美しい旋律の魅惑に酔いました。
バッティストーニの、ストーリーテラーとしての腕前にも唸ります。8曲のいずれもが、劇的な展開をもったエキサイティングな音楽ですが、彼は、顔の表情豊かに、そして、大きな身振り手振りでオーケストラをぐいぐい引っ張る指揮姿そのままに、起伏の大きなドラマを豪胆に進めていきます。
しかも、音楽の進行には、予定調和とは無縁の即興性がある。良い意味で先が読めない。演奏者たちも、一瞬たりとも気が抜けない状況で、音楽に全集中せねばならなかったことでしょう。しかし、だからこそ、オーケストラ全体が大きな渦に巻き込まれるまま楽曲の頂点に達したとき、蓄積された緊張は一気に解放され、絶大なエネルギーが放出されます。
そんなスリリングな過程が音として聴こえてくれば、絵本を読み聞かせてもらう子供のように、フレッシュな驚きと、次の場面への抑えきれぬ期待とを抱いて、ただ胸躍らせて聴き入るしかありません。
例えば、ムソルグスキーの「はげ山の一夜」。近年流行の荒々しい原典版は採用せず、リムスキー=コルサコフが編曲した一般的なバージョンを使っていますが、バッティストーニはオーケストラを思い切りよく鳴らし、おどろおどろしい神話の情景をリアリスティックに描いています。一方で、終結部での、安らぎと不気味さが共存した不思議な空気感も印象的で、この静けさの先ではいったい何が起きるのだろうかと、あらぬ想像をめぐらせてしまいます。それは、語り巧者バッティストーニの、熟達した技の力によるものに違いありません。
あるいは、「フィンランディア」での、抑圧から独立をかちとるまでの、輝かしい勝利への道筋。「火祭りの踊り」での、妖艶なシーケンスの反復で熱狂の度合いを高め、最後に容赦なくたたみかけて法悦の境地に達する、周到な音の運び。以前、東京フィルの定期演奏会でストラヴィンスキーの「春の祭典」のアンコールとして「八木節」の部分だけを演奏し、会場を興奮の坩堝に巻き込んだ外山雄三の「ラプソディー」の血沸き肉躍る歌と踊り・・・。聴きどころは枚挙に暇がありません。
このように、歌とドラマの横溢するバッティストーニと東京フィルの演奏によって、それぞれの楽曲は、なんと生き生きと息づいていることでしょうか。「人生は願望だ。意味じゃない。バラはバラでありたいと望んでいる。岩は岩になろうとしている」というチャップリンの映画のセリフが、そのまま音楽として鳴り響いているかのように、演奏家によって生命を吹き込まれた音楽が、自らの「ありたい姿」に向かって変容を繰り返し、自己の「アイデンティティ」を輝かせているのです。
そして、作曲者の音楽家としての個性、所属する(した)国家や民族の一員としての意識、作曲年代、音楽の形態(交響詩、舞台作品、ラプソディー)が複雑に絡み合って形成された楽曲固有のアイデンティが、他の曲との間で互いに作用し、化学反応を起こしている。
そう思い当たって、改めて音盤全体を見渡してみれば、王道ど真ん中を往く選曲も、無類の面白さを持ったものに思えてきます。私は、こんなメタストーリーを思い浮かべて楽しんでいます。
まず、この音盤の構成を、大きく3つの部分に分割します。
1つ目は、国民楽派の作曲家が、自らの民族意識を盛り込んで書いた3曲の交響詩(「モルダウ」、「フィンランディア」、「はげ山の一夜」)。次は、オペラ(ワルキューレ)、バレエ音楽(恋は魔術師)、ミュージカル(キャンディード)と、舞台作品の音楽たち。最後は、管弦楽のためのラプソディーが2曲(外山とバッティストーニ)。
これらのうち、最後のパートはアンコール的な位置にあると捉えて、初めの2つのパートの曲の並びに、作曲者の出身国を重ねて考えてみます。すると、ある構図が浮かび上がってきます。
第1のパートでは、民族と国家間の支配・被支配という関係性と、対立の歴史が見えます。
スメタナが生きたチェコと、シベリウスが生涯を過ごしたフィンランドは、他国の強い影響下にあったか、実際に支配された歴史を持つ国です。一方で、ロシアは独立前のフィンランドを支配し、第二次世界大戦後にはソ連がチェコの人々の民主化への願いを打ち砕きました。「モルダウ」「フィンランディア」の二曲は、独立と自治を願う人たちの精神的支柱でもあった。
第2のパートでは、今度は社会体制の相違、対立の図式が浮かび上がってきます。
ドイツとスペインは共に、独裁者によるファシズムの嵐を経験した国です。音楽そのものとは直接関係のないことですが、ワーグナーの音楽はヒトラーによって政治的に悪用され、ファリャはフランコ独裁政権を嫌ってアルゼンチンに亡命した。一方、アメリカは自由と平等を謳う多民族・民主主義国家であり、ドイツとアメリカは第二次世界大戦で敵として戦いました。
これら2つのパートの最後に「キャンディード」が置かれているのには、大きな意味があるような気がします。
フランスの哲学者ヴォルテールの小説を原作とするミュージカル「キャンディード」は、1950年代、アメリカで吹き荒れた「赤狩り」への痛烈な批判として書かれました。脚本家のリリアン・ヘルマンとレナード・バーンスタインは、「何であれ今あることは正しい」という楽天主義から脱却し、自律的に考え行動し始める若者の姿をありありと描くことで、不条理な他者排斥に抗うには、自己主張と議論が必要だと訴えたのです。それこそが、民主主義の礎であると。
ヘルマンとバーンスタインの思いの根底には、ヴォルテールが説いた「寛容」の精神への共感もあったことでしょう。であればこそ、続く第3のパートに収められた2曲、つまり、ドイツと同盟を組み、ファシズムに蝕まれた末に敗戦国となった、日本とイタリアの音楽も、たしかな居場所を得ているように思えます。
日本民謡に基づいた外山の曲が持つローカル性と、生命の躍動。ベルグソンの「生命の飛躍(エラン・ヴィタール)」という思想に触発され、一つの音があらゆるスタイルの音楽を包摂して進化していくさまを描いた、バッティストーニの自作曲に内在する世界観。そのいずれもが、ラプソディーという自由な音楽形式の中で翼を広げ、他の曲たちと美しいハーモニーを奏でている。
「キャンディード」のアイデンティティである「寛容」「自己を主張する精神と議論」によって、国家や民族、体制の対立を克服した先には、心沸き立つお祭りと、生命の飛躍がある。そんなストーリーを当てはめて当盤を聴いていると、コロナ禍で閉塞しがちな気持ちも、心なしか晴れてくるような気がします。
こんなふうに、正解・不正解といった世界とは無縁のところで、視点を変えて音楽を捉え、歴史や地理など、いろいろな要素を重ね合わせたり、共通点を括り出して因数分解したりすることで、音楽への考えは広がり、深まっていく。バッティストーニと東京フィルの演奏には、こんなふうにして、聴き手のイマージネーションと思考を刺激せずにはおかない、不思議な力があるのです。
東京フィルの見事な演奏ぶりについて、述べておかねばなりません。今回は、曲の性質もあって管楽器の活躍ぶりが眩しい。「フィンランディア」冒頭や「ワルキューレの騎行」での金管アンサンブルの純度の高い響き、「モルダウ」や「火祭りの踊り」での目まぐるしく動く木管のモチーフの彩りや、「はげ山の一夜」終盤の儚げなクラリネット・ソロ、いずれも強い印象を残します。無論、弦楽器のサウンドの豊かさと量感、ここぞというところで打ち込まれる打楽器のアタックも、一聴に値します。
そして、それらのすべてが、指揮者の音楽づくりとピッタリと調和しているのは、頼もしい限りです。彼が首席指揮者に就任して4年を過ぎ、両者の共同作業はまさに佳境に入ったと言えるでしょう。
クリアさと、ホールの豊かな響きを絶妙のバランスで両立させた録音も、いつもながらに優秀なものです。技術スタッフの方々は、バッティストーニと東京フィルの魅力的な演奏に刺激を受け、持てるテクニックをすべて注ぎ込んだに違いありません。
私は、本コーナーにて、前作のベルリオーズと黛の盤をとり上げた際、その演奏を「シリーズの白眉」と賞賛しましたが、「もう一つの白眉」が登場したのだと言うしかありません。シリーズの最後にこれほど大きなクレッシェンドが待ち受けているとは、想像できていませんでした。まさしくスタンダードの名に恥じない、快哉を叫びたくなる名盤の登場を、心から喜びたいと思います。
さて、ミュージカル「キャンディード」は、数奇な運命をくぐりぬけた主役の二人が歌う「私たちの庭を耕そう(Make Our Garden Grow)」で締めくくられます。「人間は純粋でも、賢くも、善でもない。できることを精一杯やるだけ。私たちの庭を耕そう。美しい花々や見事な樹木は、どっしりとした大地に育つ」と、最後にはすべての登場人物が唱和して、壮大に歌い上げます。
考えてみれば、バッティストーニと東京フィルの“BEYOND THE STANDARD”というシリーズは、「私たちの庭を耕す」取り組みだったと言えるのかもしれません。
西洋のスタンダードな曲と日本の音楽に向き合い、その組み合わせがどんな化学反応を起こすのかをしっかり見届ける。そのことで、美しい音楽を生み出す「庭」は耕されていく。奏でられた音が実となって土に還るたび、次の新しい音楽を生む土壌もまた育まれていきます。この庭は、限られた人たちだけのものではありません。誰にも開かれていて、「私たち」すべてが共有するものです。
“BEYOND THE STANDARD”は今回の「オーケストラ名曲集」をもって、ひとまずの完成を見ましたが、今後も、バッティストーニ、東京フィル、コロムビア、そして私たち聴き手が、共に力を合わせて音楽の庭を耕し、美味なる果実を分かち合えることを、心から願ってやみません。
聴き手の一人として、このプロジェクトに関わった方々に深く感謝を述べるとともに、最後に再びこの言葉を呟いて、本稿を閉じることとします。
私たちの庭を耕そう。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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