誰かと一緒にアンサンブルをするということは、「異榻同夢(いとうどうむ)」のようなものなんじゃないだろうか。
荘村清志、福田進一、鈴木大介、大萩康司という4人のギタリストが、一堂に会して録音した新盤「DUO2」のライナーノートを読んでいて、ハの字型に配置された椅子に腰かけてギターを弾く6通りのデュオの写真を見たとき、そんな考えが頭に浮かびました。
「異榻同夢(いとうどうむ)」とは、「異なる腰掛け(榻)に座って、同じ夢を見る」から転じて、「環境や立場が違っても、同じ考えやゴールを持つ」という意味で使われる言葉で、「同床異夢」の対義語。写真の個性豊かなギタリストたちの表情と、彼らが座る椅子を見ていると、「異榻」という言葉がとてもしっくりくる。
一方で、合奏する音楽家たちは、共に同じ時間、同じ空間に身を置き、同じパフォーマーという立場で演奏します。ならば、他者とアンサンブルするのは、「同床同夢」のようなものではないかという気もする。
「DUO2」の場合、その成立背景を考えれば、なおのことです。
荘村、福田、鈴木、大萩は、昨年8月、「第15回Hakujuギター・フェスタ2020」に出演するはずでした。しかし、コロナ禍の影響で、フェスタの開催は延期。コンサートが開かれるはずだった3日間、彼らは演奏会場のハクジュホールに集まり、録音マイクに向かったのです。
その折の4人にとっては、幻となった「ギター・フェスタ」の会場にいること自体に、大きな意義があったはずです。聴衆との一期一会が約束されていた空っぽのホールの舞台に共に立ち、「同床同夢」のデュオ演奏をディスクに刻み込んだ。そんな物語を思い浮かべて聴く方が、何だか魅力的にも思えます。
でも、「DUO2」を聴いていると、やはり「異榻同夢」でいいんだという、確信めいた思いが募ります。音楽家たちが同じ環境、立場に立っていることよりも、異なる個性を持った交換不可能な存在が、その持ち味を押し殺さずに一つの楽曲の「部分」となり、互いに協調して「全体」を作っている。そのことの意味が、2つのギターの音を通して、より強く、生き生きと伝わってくるのです。
例えば、ギター・フェスタのプロデューサーを務める荘村と福田のデュオによる、アルバム冒頭に収められた、仏人作曲家J.M.レイモンの「ミッドナイト・メモリーズ」。昨年のコンサートで初演が予定されていた委嘱作品で、感傷的で甘美な旋律が、ゆったりしたテンポの中で哀愁を醸し出す佳曲です。
左右のスピーカーからは、それぞれ独自の美質と風格を持った、荘村と福田の歌とハーモニーが聴こえてきます。左チャンネルからは、クリアだが柔らかい響きの中で、なめらかなレガートで優しく歌う福田の音。右チャンネルからは、ブリリアントな音色で、撥弦楽器としての特性を生かした粒立ちの良い音を連ね、凛としたカンタービレを紡ぐ荘村の音。両者は、まるであらかじめ用意されたパズルのピースのごとくぴたりと組み合わさって、一枚の絵を完成させていきます。
メンデルスゾーンの無言歌「浮き雲」(リョベート編、トラック3)での淡く香るロマン、ヴィヴァルディの「2台のマンドリンのための協奏曲RV532から第2楽章」(トラック2)での楚々とした抒情、カステルノーヴォ=テデスコの「エレジー風フーガ プレリュード&フーガ」(トラック4)での厳格なポリフォニー、いずれの曲でも同様のことが言えます。ファーストとセカンドを入れ替えても、それぞれが与えられた役割を果たしつつも、美しくも幸福な「異榻同夢」の音楽を奏でていて、聴き入るしかありません。
続いては、福田と大萩が弾くフォーレの組曲「ドリー」から「子守唄」と「ドリーの庭」の2曲(トラック5,6、佐藤弘和編曲)で、「異榻」と「同夢」がほどよいバランスで共存した、穏やかな安らぎに満ちた演奏が胸に残ります。
両曲でファーストを担当する福田は、ここでも優美なレガートを駆使して、愛情に満ちたフォーレの音楽をあたたかく歌い上げています。一方、セカンドの大萩は、師の福田から学んだであろう魅惑的なレガートで呼応しますが、音の色合いと質感には微妙な違いがあって、耳に心地良い対照をなしています。また、曲の起伏やハーモニーの移ろいに応じて音色を変化させながら、歌の連鎖を優しく包み込んでいくあたり、両者の熟達の技も聴きものです。
次は、鈴木と大萩のコンビによるアルベニスのピアノ曲「スペインの歌」から「椰子の木陰で」(リョベート編、トラック7)、ピアソラの「タンゴ組曲」の第2楽章アンダンテ(トラック8)。
共に福田に師事した同門であるとは言え、2人の個性の違いは明らか。艶消ししたような渋くて飾らない音色で、間合いをとって語りかけるように歌う鈴木と、濃やかな彩りを持った音色と、スマートな音の運びの中で、しっとりとした抒情を聴かせる大萩。
ゆったりしたハバネラのリズムに乗って、明暗を微かに揺れ動く旋律が琴線に響くアルベニスと、溢れ出る感情を、さりげない言葉の中に押しとどめて囁くような、サウダージ(郷愁)の歌が胸に迫るピアソラ。いずれの曲でも、持ち味の異なるギタリストが、互いの表現力に触発され、曲の内奥へと共に潜っていくさまが聴きとれます。
アルベニスでは、ファーストの鈴木がデュナーミク(強弱)の変化に注意を払い、旋律が形づくる稜線をニュアンス豊かに描けば、セカンドの大萩は、核となるリズムをたしかに刻みながら、鈴木が描く輪郭の内側に豊かなハーモニーをつけて彩りを添え、音楽に血の通った肉づきを与えていく。曲の終盤、余情に満ちた2人の掛け合いが、夏の終わり、幻となった宴の日々を後ろ髪引かれる思いで見送るさまを想起させ、フェスタ延期のさみしさが沁みてきます。
ピアソラの「アンダンテ」でファーストを弾く大萩は、ゆったりとしたテンポ(彼自身の多重録音によるCDより1分近く長い)をとり、変幻自在なヴィブラート、音色、節回しを駆使して、タンゴの妖艶な音の振る舞いを余すところなく表現していて、これがとてもいい。対して、セカンドの鈴木は、ファーストが紡ぐ蠱惑的な歌を、絶妙な間合いと、陰翳豊かな繊細な表現で受け止め、大萩からさらに官能的な歌を引き出しています。エモーショナルな昂ぶりが頂点に達したときの大萩の情熱的なヴィブラートは、鈴木とのコンビネーションでこそ映えるに違いない。
荘村、福田に続いて日本のギター界のこれからを背負っていく中堅デュオの、美しき相乗効果を記録したアルベニスとピアソラは、「ギター・フェスタ」の輝かしいマイルストーンとなることでしょう。
続く福田と鈴木のデュオは、ポンセの「間奏曲」(トラック9)と「スケルツィーノ・メヒカーノ」(トラック10)をいずれもJ.M.サラーテの編曲で弾いています。
「間奏曲」はピアノが原曲で、映画「ある愛の詩」の主題曲に似た感傷的な旋律と、3度や6度の和音の響きが印象的な、メランコリックな美しさをたたえた作品。実は私の偏愛する曲なのですが、ギター版があるとは寡聞にして知らなかったので、嬉しい選曲。「スケルツィーノ・メヒカーノ」も同じく原曲はピアノ(ソロ・ギター版もあり)ですが、こちらは一転して、穏やかに溢れ出る喜びが愉しい。
「間奏曲」では鈴木が、「スケルツィーノ・メヒカーノ」では福田がファーストを弾いていて、互いの美質を生かした素敵な演奏を聴かせてくれていますが、2人のセカンドのパートでの役割の果たし方も巧みです。旋律美が際立つ前者では、福田は伴奏に徹して淡々とハーモニーをつけ、旋律を受け持つときもさりげなく流している。一方、独特の弾力を持ったリズムが印象的な後者では、鈴木は随時センス抜群の合いの手を入れ、福田に絶妙のパスを出して、曲の進行に弾みをつけています。
このような彼らの当意即妙のアンサンブル能力があってこそ、「異榻同夢」が可能になるのだと実感します。
自他ともに認める武満徹のギター作品演奏のエキスパート、荘村と鈴木のデュオは、武満徹の映画音楽から羽仁進監督の映画「不良少年」(トラック11)と、黒澤明監督の「どですかでん」(トラック12)。共に編曲は鈴木ですが、前者の最初のテーマ部分は荘村の手によるもの。
荘村と言えば、武満が残したギター曲のいくつかの初演者であり、プライベートでも親交があったギタリスト。一方の鈴木は、武満が亡くなる直前に見いだされるも、彼がいなくなってしまった世界で活動を始めたギタリスト。世代の異なる彼らの間には、作品との距離のとり方にも、大きな差があることでしょう。もちろん、それぞれの音楽家としてのありようも違う。
しかし、武満の音楽への敬意と愛情で結ばれた2人は、互いの差異を乗り越えて、味わい深い演奏を聴かせてくれます。明るい希望を宿した親しみやすい歌の中にはいつも翳りがあって、どこか傷つきやすい心が透けて見える。そんな武満の繊細な音楽を、彼らはなんと優しい手つきで奏でていることでしょうか。
殊に「どですかでん」は、シンプルな美しさを持った旋律を、しみじみとした情感と、生命がみなぎる快活さのコントラストのうちに歌っていて、胸に刺さります。この曲は、鈴木が渡辺香津美と組んだ、奔放な自由さをもった旧盤の演奏を偏愛してきましたが、それに勝るとも劣らない魅力をたたえた新盤の登場を、心から喜びたいです。
トリを務める荘村と大萩のデュオは、カルリの「対話風小二重奏曲」から「ラルゴとロンド」を披露して、「盤上のギター・フェスタ」を華々しく締めくくっています。
古典的で端整なフォルムをもった、明朗でコンパクトな曲ですが、セカンドの大萩が、ライナーノートで述べている通り、ファーストの荘村から受け継いだ旋律を、弦の爪弾き方を変え、荘村独特の撥音に近づけて弾いているところが面白い。それを受けた巨匠は、「じゃあ、これはどう?」とばかり、球種を変えて若い同僚にボールを投げ返す。するとまた大萩は気の利いた返しをして、荘村を刺激する。彼らが互いの個性の違いをはっきり認識し、リスペクトしているからこそ成立するスリリングな「対話」が、曲にユニークな生命を与えていて、聴き飽きません。
アルバムの最後には、ボーナストラックとして、鈴木と大萩によるソルの練習曲「月光」(鈴木編)と、福田と荘村による作者・編曲者ともに不詳の「ナイチンゲール」、さらに各曲のカラオケ版(前者は大萩のセカンド、後者は福田のファースト)が収録されています。ギター学習者の練習用に企画されたもので、お手本の演奏を聴けるだけでなく、指定の方法で楽譜を入手すれば、大萩、福田という名人とヴァーチャルに「共演」できるという嬉しい贈りもの。
カラオケに合わせて楽器を弾く「聴き手」は、大萩や福田とは同じ時間も空間も共有できない。コミュニケーションは弾き手からの一方通行なので、まったくの「同夢」を見られるとも限らない。しかし、だからこそ、ギターを構えた聴き手は、ディスクの再生音に耳を傾け、架空の共演者と同じ完成予想図を見ようとする。変則的ではあっても、これもまた間違いなく「異榻同夢」の音楽です。
演奏は一級で、練習者でなくとも聴いて愉しい。カラオケ版は、楽譜を見て自分ならどう弾くかと想像しながら聴くもよし、プロの技に耳を傾けて、その秘密を探るもよし。このアルバムを閉じるに相応しい、粋な計らいだと思います。
聴いている音楽が「異榻同夢」か「同床同夢」かなんて、割とどうでもいい話で、本質的な議論でもありません。ただ、「異榻同夢」という切り口で「DUO2」を聴いて、気づいたことがあります。
「DUO2」で素晴らしい「異榻同夢」を聴かせる4人のギタリストたちは、「弾く」名人であるばかりでなく、「聴く」能力にも秀でた人たちであるということです。
これほど個性も立場も異なるギタリストたちが、どうしてこんなに息の合ったアンサンブルが可能なのか、どうして「同じ夢」を見られるのか。そう考えたとき、以前、カウンセリングの勉強をしていたときに学んだことを、思い出したのです。
カウンセリングの目的は、葛藤や問題を抱えたクライアントの自律的な「行動変容」を促すことですが、それを実現するために必要なのは、カウンセラーの「傾聴」です。クライアントの話をよく聞き、それを肯定的に受け容れ、あたかも自分のことのように感じて、「同じ絵を見る」ように努める。その際、カウンセラーは自身の内部で起こったことも、正直に認識する。そうすることで、クライアントは心を開いて内省と自己探索を始め、行動を変えようとする。
アンサンブルとカウンセリングは別ものですが、他者と「同じ絵(夢)を見る」ためには「傾聴」が必要という点では、どちらも共通しています。アンサンブルにおいても、各奏者が自分の音、他者の音に耳を傾けなければ、音楽は成立しません。
音楽家が、音楽を通してやっているのも、まさにそれなんじゃないでしょうか。「傾聴」によって相手を受け容れ、互いが発した音で他者の内省と行動変容を促す。そして、他者が「異榻」にある存在だと強く意識するからこそ、相手を理解しようという願望や意志は強まり、「同夢」がより具体的なものへと変わっていく。他者と音楽をやる上では、互いの同質性よりも、互いの差異への認識の方が強く作用するのです。
言葉のない音楽だから可能なコミュニケ―ションもあるかもしれませんが、現実の世界でも、荘村、福田、鈴木、大萩のギタリストが奏でる音楽のように、まったく立場の違う人たちが互いの声に耳を傾け、「同じ夢」を見ようと歩み寄ることができれば、どんなに良いでしょうか。
コロナ禍がおさまりません。緊急事態宣言が発令されるなど、厳しい状況が続いていますが、どうかご自愛ください。そして、本年もよろしくお願いします。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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