音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.91

クラシックメールマガジン 2021年2月付

~交響曲「無言歌」 ~ マーラー/花の章、交響曲第1番 山田和樹/読売日響~

私がマーラーの交響曲第1番を初めて聴いたのは、中学生になったばかりの頃、岩城宏之指揮札幌交響楽団のライヴ(1980年1月)がFMで放送されたときのことでした。無から生命が誕生する過程を描いたような爆発的エネルギーと、フィナーレでの闘争から勝利へと至る劇的な展開、表現力豊かなオーケストラのサウンドにすっかり魅了されてしまいました。
そして、第3楽章、フランス民謡「フレール・ジャック」のパロディが輪唱風に展開された後、2本のオーボエが、弦楽器のピツィカートに乗って哀愁を帯びたメロディを歌うところ(39小節以降)が最も印象に残りました。ユダヤ風の音遣いと、踊りのステップを思わせる付点音符のリズムが私の心を鷲づかみにし、同じ旋律がヴァイオリン群に引き継がれて綿々と歌われると、もうメロメロになってしまったのです。
世の中にはこんなにも胸を打つ美しい曲があるのかと、天地がひっくり返る思いでした。あまりに好きになりすぎて、エアチェックしたカセットテープの該当箇所あたりに鉛筆で頭出し用のマークを書き込み、何度も何度も同じ部分を聴いていたほどです。
こうして私はマーラーの交響曲との出会いを果たしましたが、その後、知識や経験を身につけるうちに、衝撃的な事実を知りました。十代初めの私が好んで聴いていた箇所は、専門家からはマーラーの音楽のキッチュな側面、つまり、下品、低俗、お涙頂戴で非芸術的、そんな要素の代表例として捉えられていたのです。場末の酒場で歌われる俗謡みたいな陳腐な旋律を交響曲に持ち込んだと、初演当時から激しい非難を浴びたとも知りました。
私は自らの耳や感性の貧しさを知り、愕然としました。マーラーの音楽の中に持ち込まれた異質な要素に違和感すら抱かず呑気に受け容れてしまった、私の文化的背景への無知、無教養に傷つきもしました。
ですが、好きなものは好き。どうすることもできません。ならばと、聖も俗もすべて包括した世界を描いたことにこそマーラーの音楽の良さ、新しさがあるのだという、何かの解説で読んだ言葉を楯に、開き直ることにしました。今でも、交響曲第1番を聴くとき、件の部分がどんなふうに歌われるかは最大の関心事です。幸いなことに、私が感銘を受けた演奏はどれも、それぞれのやり方で美しく歌ってくれるので、自分の嗜好を恥じることもなく、これまで生きてこられました。
どうして長々とこんな「自分語り」をしているかというと、昨秋リリースされた山田和樹指揮読売日響による同曲のライヴ録音を聴いて、40年前にマーラーの音楽と出会ったときの記憶が鮮やかに甦えったからです。熱に浮かされたように繰り返し聴いていた第3楽章のあの部分が、すこぶる魅力的なのです(トラック4:2分28秒~)。
なんと心の琴線に触れる「うた」でしょうか。
演奏者たちは、特に変わったことはしていません。私が好むユダヤ系指揮者が聴かせてくれるような濃厚で粘っこい表現もありません。しかし、どの音にも、平仮名で書かずにいられないようなやわらかな「うた」が溢れているのです。
大きなリタルダンドに導かれ、ついこぼしてしまったため息のように奏でられるオーボエの嘆きの歌。デクレッシェンドやテヌートの指示を守りつつ、オーボエに優しく寄り添うトランペット合いの手。涙を隠して陽気に振る舞うかのように、どこか重さを孕んだリズムの弾力・・・。
そして、クラリネットと打楽器が奏でるクレツマー(ユダヤの伝統音楽)風のパッセージを挿んで、前出のオーボエの旋律を、今度は第1ヴァイオリンが1オクターヴのユニゾンでなぞり始める。
さっきオーボエが奏でたリタルダンドつきの3つの8分音符は、今度は4分音符に引き伸ばされた上に、最後の音にはデクレッシェンドがあって、静かに消えていく。ここで読響のヴァイオリン奏者たちはむしろ大きなヴィブラートをかけ、楽譜にはないポルタメントをつけて、まさしく「エスプレッシーヴォ」で歌いぬいています。かつてレナード・バーンスタインがオーケストラの弦楽器奏者に向かって、「(弓を持つ)右手はピアニッシモで、(指板を押さえる)左手は最大限のフォルティッシモで!」と叫んでいた姿を想起せずにはいられませんが、この自らの内側に強く向けられた熱い表現に続けて、例の旋律が、こぼれんばかりの美しさと、目に涙をいっぱいにためたような憂いを伴って響きます。
それは確かに俗っぽく、センチメンタルな旋律には違いありませんが、山田と読響の演奏には野卑ないかがわしさはない。あらゆる喜怒哀楽を結晶化させたような、心の襞に触れるうたが、ここにあります。
聴いていて、以前、山田がジョージア(旧グルジア)の作曲家ヴァージャ・アザラシヴィリの「無言歌」という曲をピアノで弾いた演奏会のことを思い出しました。これは元々「Dgeebi Midian(過ぎ去った日々)」と題されたポピュラー曲で、マーラー以上に感傷的で甘い旋律をもち、日本の演歌とも通ずる独特の節回しが特徴的な音楽。山田はメロディになみなみと注ぎ込まれたメランコリーと、溢れんばかりのファンタジーをありったけの愛情をこめて演奏し、満場の喝采を受けていました。
山田はアザラシヴィリの「無言歌」のチェロ・アンサンブル版を聴いて感動し、指揮者を志したそうです。アマ、プロ問わずあちこちの団体でオケ編曲版を指揮していて、彼のこの曲への愛着は生半可なものではない。かく言う私も、かねてから「無言歌」を偏愛してきた人間ですので、彼のアザラシヴィリ愛に深く共鳴しましたが、それ以上に、自分の心を動かす音楽であれば、その出自を問わず、持てる情熱と技術を等しく注ぎ込んで誠心誠意演奏する、高いプロ意識に打たれずにいられませんでした。
山田は、マーラーの第3楽章の人懐っこい旋律も、アザラシヴィリを演奏するときと同様の気構えと情熱をもって指揮しているに違いありません。僅か20小節足らずの些細な部分に過ぎませんが、このハートフルな熱い「うた」に触れ、少年時代にこの交響曲から受けた感銘と、山田が弾く「無言歌」を聴いて流した熱い涙の記憶が入り混じって甦り、激しく心を動かされました。
五臓六腑に染み渡るようなエモーショナルな「うた」は、ディスク冒頭に収められた「花の章」を含め、全曲を通してあちこちで聴くことができます。
例えば、同じ第3楽章の第83小節(トラック4:5分30秒~)から始まる「さすらう若人の歌」の引用箇所。3部に分かれたヴァイオリン奏者たちが、最弱音のまま声を潜めて奏でる一つ一つの音に、どれほど痛切な「うた」を忍ばせているかは、そのヴィブラートや、十分に時間を保って余韻たっぷりに弾かれる音の動きを聴けば一目瞭然です。
第4楽章の第2主題(トラック5:3分30秒~、12分05秒~)の情感をこめたホットなカンタービレも、忘れがたい印象を残します。特に再現部のクライマックス(14分47秒~)での感極まったような「うた」は感動的です。
考えてみれば、マーラーの交響曲第1番は自作歌曲と深い関連があります。ですから、歌謡性に焦点を当てるのは、ごく自然なことです。しかし、この曲はただ「うた」を繋ぎ合わせただけの単純な音楽ではありません。紆余曲折はあったにせよ、最初から交響曲として着想され、最終的に標題のない純器楽交響曲として成立しているのです。フレッシュな抒情をたたえた歌謡的な旋律、激しい動きを伴う劇的なパッセージ、広大な空間を思わせるサウンドスケープといった異質なものが、あっと驚くような場面転換を経て、目まぐるしく入れ替わりながら共存しています。演奏者は、そうした複雑な構造を正しく把握し、一つの交響曲としてまとめ上げなければならない。
その点、山田和樹はテンポや強弱、表情に関する作曲者の事細かい指示に従いながらも、エキセントリックな表現に走らず(ある種の聴き手には物足りなく感じられるかもしれません)、一貫した大きな流れを生み出し、この曲の交響曲としてのありようを明らかにすることに成功しています。
山田のそのスマートな音楽の構築力の源泉は何かと考えてみるに、音楽の抑揚やアクセントから具体的な言語的イメージを掴みとり、それを言葉として表現する高い言語能力にあるのではないかと思います。彼が標題音楽的、あるいは文学的なアプローチをしているという訳ではありません。音と音とのつながりから浮かんだ映像を繋ぎ合わせ、意味のある物語、あるいは、強固なロジックとして自らの内で美しく言語化し、再構築しているように思えるのです。
冒頭で触れた岩城宏之が書いたコラムによれば、マーラーの直弟子であるブルーノ・ワルターは、戦前、マーラーの交響曲第1番をリハーサルするとき、第3楽章についてはこんなふうにオーケストラに語ったのだそうです。
三楽章はチェコのどこかの田舎のユダヤゲットーでの物語である。コントラバスのソロで始まるが、死んだ仲間をみんなでかついで墓地に埋めるために、ゆっくり行進する。遠くからユダヤ人監視のための巡邏(じゅんら)兵の一隊がやってくる。ユダヤ人たちの集会は禁じられていた。息をひそめる。巡邏兵が去る。ユダヤ人の未来と独立と平和を夢見る。また巡邏兵が近づく。葬式といえども集会である。そうでないことを示すために、突然全員が酔っぱらったふりをして大騒ぎをする。また巡邏兵が近づく。ますます悲しく葬式が続く。
(岩城宏之 カラー版 作曲家の生涯「マーラー」より)
ウィーン・フィルの古参楽員からこの話を聞き、曲へのイメージは一変してしまったと岩城は書いています。ワルターの言葉はマーラー直伝のものではないでしょうが、これを聞いた当時のオケの面々も、若き日の岩城も、この交響曲をより具体性と肉体性をもったものとして把握できたに違いありません。そう考えると、岩城が指揮する第3楽章の演奏が、中学生だった私の心を捉えて離さなかったのも、ゆえなきことではない気がします。
そして、山田和樹も、ワルターと同じではないにせよ、マーラーの音楽に対して明確なイメージとストーリーを頭の中に持ち、それを説得力のある言葉として表現できる力を持っているに違いありません。だからこそ、オーケストラの音楽家たちは、リハーサルでの説明などで指揮者が思い描いたストーリーを言葉として受け取り、各自が想像力を羽ばたかせて表情豊かな「うた」を紡ぎ、壮大な「シンフォニー」を構築できた。そんなプロセスから生まれたのが、この魅力的な演奏なのではないでしょうか。前述のアザラシヴィリの曲のタイトルを借りれば、「無言歌」という副題こそが相応しいと言いたくなるような。
ところで、山田と読響が奏でる、明朗で力に満ち、未来へとまなざしを向けた斬新な響きを聴いていると、マーラーのウィーン音楽院時代の親友で、精神を病んで早世した作曲家ハンス・ロットの交響曲第1番を想起せずにはいられませんでした。
マーラーはロットの才能を高く評価し、ロットが遺した唯一の交響曲のパッセージを、幾度となく自作の交響曲に引用しました。「世が世ならマーラーはロットに盗作で訴えられただろう」と言う指揮者がいるほどに、あからさまに。
この交響曲第1番の第4楽章でも、1878年にロットが音楽院の卒業試験のために作曲した組曲ホ長調の冒頭主題が引用されています。同じ試験では、マーラーは現在失われたオペラへの序曲を提出したそうで、マーラーがロットの組曲を耳にしたのは間違いないらしい。
具体的には、ホルンが計2回吹くモチーフ。第1楽章冒頭に登場する4度の下降音型を2つ組み合わせた主題「レーラーシーファ♯」と、ロットの「ファ♯ソーファ♯ミソー」を繋げた形になっています。
このモチーフが、鮮やかな転調の「発現」の後、ロットの組曲からの引用が初めて登場するとき、勝利のファンファーレはなぜか途中で失速し、力を失って蜃気楼のように消えてしまいます。一方、荒れ狂う嵐のような激しい音楽と、憧れに満ちた第二主題の歌を経て、エネルギーが爆発するコーダに至って2度目に現れたとき、やっと完膚なきまでの勝利を手に入れる。
これら2度の引用に、「物語」を見たくなるのです。
1回目の保留されたフェイクの勝利(トラック5:10分14秒~)では、志半ばに倒れた才能豊かな友人ロットの姿が、コーダでの2回目の登場では(トラック5、18分53秒)、マーラーが天国のロットと共に、新しい交響曲の世界を作り上げて勝利の雄叫びを上げる姿が描かれている。
マーラーが本当にそんな意味を音楽に込めたかとは思えません。しかし、ビッグバンや生命の誕生を思わせるような爆発的な「生」とともに、葬送行進曲の足どりの中に「死」の想念を映し込んだ音楽の背後に、ロットの存在を見ることで、マーラーの若書きの交響曲に内在するドラマが、よりリアルなものとして胸に迫ってきます。素人のつまらない妄想と笑われるかもしれませんが、山田と読響の演奏はそんな想像をしたくなるほどに、豊かなイマジネーションを与えてくれるものなのだと自己正当化したいところです。
読響の演奏ぶりについてはあまり細かく触れられませんでした。しかし、どんなに錯綜した場面でも乱れることのないアンサンブルの強靭さ、山田の棒に応えた豊麗なハーモニーはいずれも固有の美質をもったもので、実に素晴らしい。コントラバスとトランペットを始め、数多く登場する各楽器のソロも舌を巻くほどに巧い。コロナ感染爆発の直前、幸運にもこの演奏をナマで聴けた人たちへの羨望やみがたいものがあります。
ともあれ、古今東西の名盤がひしめくマーラーの1番に、とびきり魅力的なディスクが新たに加わったことを心から喜びたいと思います。
最後に一つだけ。
このアルバムでは、演奏終了後に盛大な拍手が収められていますが、非音楽的な「ブラボー」の声が興醒めでした。最後の音が鳴ってから十分な間合いをとって拍手が始まっているので、編集できなかったのかなと少し残念です。ライヴの臨場感を大切にするという意図も十分に理解できるので、難しい問題ではありますが・・・。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

音盤中毒患者のディスク案内 インデックスへ