今年もまた “Opus One” レーベルの季節がめぐってきました。
一昨年と昨年は、ここから計8人の若手音楽家が巣立ちましたが、このたび第3期生として音盤デビューしたのは、バリトン歌手の黒田祐貴ただ一人。コロムビアの特設Webページも黒田のプロフィール写真で独占されていて、これまでの「密」な賑わいがもはや懐かしい。この御時世ではやむを得ないこととは知りつつも、一抹の淋しさを覚えずにはいられません。
しかし、コロナ禍の困難な状況を乗り越え、アルバムの企画からリリースに至ったという事実を見るだけでも、制作サイドから黒田にかけられた期待の大きさは容易に想像がつきます。
何しろ、黒田は「時の人」。そう、彼は昨年YouTubeで話題を呼んだ動画「鬼のパンツ×アベノマスク」のオペラ歌手なのです。しかも、専門家や目利きのファンの間でその美声と才能はつとに知られているとも聞きます。これ以上ない絶好の「商機」を捉えてのアルバム発売と言えます。
しかし、そんな生々しい話とは関係なく、ほぼ未知の音楽家との出会いに、期待に胸を膨らませて聴きました。
黒田祐貴のデビュー盤「Meine Lieder(私の歌)」は、主にイタリアとドイツの歌曲とアリアを収めたものです。昨年11月、高崎芸術劇場におけるセッション録音で、トータル演奏時間も約40分と短く、日本人作曲家の作品として、ピアノ伴奏を務める山中惇史の「おんがく」も収めており、レーベル設立当初に謳われたコンセプトは、律儀なまでに守られています。
アルバム冒頭、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」のフィガロのアリア「私は町の何でも屋」の出だし、「ラララ」と歌いながら颯爽と登場するところから、黒田の師である勝部太氏がライナーノートに寄せたコメントの通り、ビックリマーク満載の歌声が、まっすぐ耳に飛び込んできます!
声域はバリトンですが、その声質はテノールのように軽くて明るい。響きは透き通っていて、凛とした輪郭を持つクリスタルのよう。若いだけあって声には張りと力感はあるけれど、高音は十分なゆとりをもって朗々と鳴り渡る。
ハッと慌ててアンテナを立てて聴き進めていけば、こちらの耳をそばだて、心を沸き立たせずにはおかないものが次々と引っかかる。よく回るアジリタの技術と、イタリア語の明瞭な発音。随所で聴かせる流麗なカンタービレと、正確なリズム感に裏打ちされた敏捷な躍動。
確かにこれは只者ではないと身を乗り出し、黒田が繰り広げる声の活劇に耳と心を奪われるうち、フランス革命の風雲児たるフィガロが自信満々にふりまく笑顔につられ、つい微笑んでしまう。
華があって、聴く人を幸せにする歌が、ここにあります。フィガロはこうでなくちゃ!これぞロッシーニ!
続くモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」のセレナーデは、稀代の好色男が、マンドリン片手に、意中の女性を窓辺に誘い出そうとするアリア。
黒田が歌う求愛の調べは、一夜のアバンチュール目当ての下心よりも、ひたむきさと、貴族然とした気品を感じさせるもの。様式感を保った端正な歌いくちと、洗練された声の立ち居振舞い、女性の心を愛撫するような艶っぽいレガートゆえでしょうか。
でも、その歌の奥には、いつも醒めた感触がある。彼の求愛は心から出た真実だが、優しい嘘でしかない。偽りの言葉で女性を落とすゲームへの勝利は確信しているが、遊びにはとっくに倦んでいる。そんな絶望と地続きのサイコパス的な心理さえも、黒田のクールな歌から聴きとれるようにも思えます。
完璧なまでのモテ男の顔と、地獄落ちこそ相応しい極悪人の顔とが紙一重のところで交錯する複雑なキャラクター。そこにこそ、ドン・ジョヴァンニという男の危なさと魅力がある。黒田の歌を聴いていて、そのことを改めて実感しました。これはきっと舞台「映え」する歌に違いありません。
次のトラックからは、ガラリと雰囲気が変わります。
ブラームス、マルクス、R.シュトラウス、マーラー、コルンゴルトと、生涯の一時期をウィーンで過ごした作曲家たちの歌がずらり。いずれもドイツ語の詩をテキストとする作品で、さしずめ「ドイツ・リートの夕べ」といった趣。しかも、シュトラウスの2つの歌曲を除いて、ゆったりしたテンポで、豊麗なハーモニーと、抒情的な旋律をじっくり聴かせる曲が多く選ばれている。詩の内容も、恋愛の陶酔と、それとは裏腹の痛みと苦しみ、だからこそ求めずにはいられない憧れと夢想を綴ったものがほとんどで、まさにロマン派ど真ん中の歌ばかりです。
19世紀後半に書かれた曲と、20世紀前半に書かれた曲をほぼ交互に歌っているのも特徴的です。この時期、ウィーンを舞台に大輪の花を咲かせた芸術文化の爛熟が、ハプスブルグ帝国崩壊への大きな歴史の流れにすっぽりと内包されたものであることを、ダイナミックに体感させる組み立てと言えるでしょうか。
これら独墺系レパートリーの選曲には、静かに内省を促すような歌も大切にし、聴き手の知的好奇心を刺激する仕掛けも欠かさないという、黒田の音楽家としてのありようや指向が、見てとれるように思います。
ここでの黒田の歌は、少し前に世間を賑わせた言葉を借りれば、最良の意味で「わきまえた」ものと言えます。どの曲でも、詩の内容や曲のフォルムに相応しい歌が繰り広げられているからです。カンタービレは深い思索と結びついた内向きのベクトルを感じさせるもので、ドイツ語の発音もきれい。彼がいかにドイツ・リートの流儀を知悉した音楽家であるかは容易に見てとれます。
そして、作曲家独自のトーンや音遣いが、説明的になることなく、自然な佇まいの中で明らかにされているのが、とてもいい。
声の重心を低めにとり、より深みのある表現を目指したブラームス。儚げな浮遊感を持たせながら、どこまでも柔らかに歌うマルクス。輝かしい声でヒロイックに、そして情熱的に愛を歌うシュトラウスの歌曲と、胸が痛くなるほどの真摯さで友人を慰める「ナクソス島のアリアドネ」のアリア。夢とも現実ともつかぬ幻想の中で交わされる男女の対話を、詩情豊かに歌うマーラー。そして、失われた幸せな過去への感傷と憧れを、遠いまなざしで歌うコルンゴルトの「死の都」のアリア。
一つ一つの言葉が表象するものを分析的に捉えるだけでなく、音符の背後にある作曲家の音楽的パーソナリティや内面的な宇宙の広がりをも把握できる高い視点と能力。そうした黒田の「強み」は、いかんなく発揮されていると言えます。
特に印象に残ったのは、日頃聴く機会にあまり恵まれないヨーゼフ・マルクスの2つの歌曲。
「若き詩人は恋人を想う」は、ハンス・ベートゲが漢詩の独訳を編んだ詩集「中国の笛」(マーラーが「大地の歌」でテキストとして使ったことでも有名)の一編につけた曲。月を映す池の水面を前に、「調和するために生まれた二つのものが一つになる」のを夢見る詩人の心の陶酔と高まりが、印象派的な和声をもった伴奏に乗せ、淡い官能を帯びて歌われます。
「かつてのように」は、ピリクヘルトの詩をテキストとした短い歌で、愛することの苦しみと、それゆえの喜びが、たゆたう3拍子のリズムの中でゆったり歌われます。
どちらの曲も、みずみずしい抒情をたたえた旋律と、親しみやすいサロン風のハーモニーが耳に心地良い。黒田は、これらの曲たちのなだらかな稜線をもったリリカルなメロディを、ひな鳥を手に持つような繊細な手つきで歌っていて、マルクスの音楽のもつ独特の魅力を堪能できます。しかも、常に芯のある発声を保って旋律線をくっきりと描いているのも好感が持てます。
コルンゴルトの歌劇「死の都」で、ピエロのフリッツが歌うアリア「私の憧れ、私の空想」も心に残ります。黒田はソフトで透明感あふれる弱音を駆使して、過ぎ去りし日々への思いを切々と歌っていますが、高音での絶妙の歌いまわしが、そくそくと胸に迫ります。
しかし、このデビュー盤で、黒田という音楽家のありようを最もはっきりと表しているのは、アルバムのタイトルになったブラームスの「私の歌」ではないでしょうか。
55歳を迎え、人生の秋を自覚したブラームスが、自身の内面を映し出したような翳りのある詩につけた、2分半ほどの短い歌曲。死への諦観(詩に出てくる糸杉は死の象徴)を色濃く帯びた音楽で、その静謐な調べはブラームスが後年書いたピアノ小品集のすぐ隣にあるものです。
そんな「人生下り坂」の音楽を、かなり遅いテンポをとり(ディースカウ/バレンボイム盤よりほぼ1分長い!)、余白を残した透明な響きの中で、抑えた表情で歌っています。枯れ葉のように落ちてくるピアノの音を受け止めながら、諦観をまとった歌が静々と空間に広がっていく。そんな過程をスローモーションで見るかのような演奏。
しかし、これは自分の内面で呟かれる淋しい歌であっても、歌が届く「あなた」の存在を諦めた歌ではない。哀しげではあっても、絶望的ではない。最後に2回繰り返される「私の歌を暗く響かせる」というフレーズの穏やかな歌には、孤独を分かち合う「誰か」の存在への希望がある。
彼がこの曲の題名をアルバムのタイトルとした真意は知る由もないのですが、黒田自身、いつもこの「あなた」を強く意識して歌っているのだろうと思います。それは音楽家ならば当然の行為でしょうが、当盤の中で最も内向的なブラームスの歌曲で、そのことを最も強く感じさせるところに、黒田という音楽家の真骨頂を見る気がします。
しかも、その歌には「私の歌があなたの歌となりますように」という願いを込めた奥ゆかしさがあって、好ましい。彼が音楽コンクールで「聴衆賞」を勝ち取ったことも、あの動画で多くの視聴者を画面に釘付けにしたことも、なるほどと深く頷けます。
考えてみれば、このアルバムで取り上げられたオペラの役柄のうち、フィガロ以外は皆、ギターやマンドリン片手に「あなた」に向かって歌います。しかも、「ナクソス」のハルレキンは道化師で、「死の都」のフリッツはピエロ。おどけた仕草をしたり、自らをネタにしたりして、とにかく「あなた」を微笑ませることを職業とする人たちです。意識してか無意識か、彼自身をそうしたキャラクターに重ねているところもあるのだろうかなどと想像してしまいます。
コンパクトながら、黒田の「私の歌」がぎっしり詰まったアルバムは、彼をピアノ伴奏で支えている山中惇史の「おんがく」で締めくくられます。童謡「ぞうさん」などの作詞でも知られるまど・みちおの詩につけた曲で、メゾ・ソプラノの寺谷千枝子(90年代、何度も実演で聴いた懐かしい方です)に献呈されたもの。
ここでの「あなた」は文字通り「音楽」。五感を使いきって音楽を慈しみ、愛したい。そう願う言葉に込められた官能を、一度はドラマティックなまでに高揚させ、もう一度、静かに繰り返し、まどろむような余韻の中に消えていく。ここでも黒田は、音楽への愛情をのびやかに、そして情熱的に歌い上げていて胸を打ちます。
作曲者の山中惇史は、多くの音楽家の伴奏者としても活躍する若き名ピアニスト。当盤でも、黒田に勝るとも劣らない、楽曲のスタイルや作曲家の語法を把握する能力の高さを実証しています。こんな伴奏で歌えるのは、黒田にとってはまさに「鬼に金棒」でしょう。また、ピアノ、作曲、編曲、何でもござれの山中は、制作者にとっては、あらゆる無理難題を解決してくれるフィガロのような頼もしい存在なのでしょう。
コンパクトながら、黒田の「私の歌」がぎっしり詰まったこのアルバム、私は心から楽しみました。是非とも彼の実演を聴いてみたいし、次のアルバムにも期待が高まります。そして、彼が今後どんな音楽を聴かせてくれるのか、どんな音楽家になっていくのか、目が離せません。
ところで、昨年(2020年)はコルンゴルトの歌劇「死の都」の初演100周年でした。当時23歳だった作曲者は、第1次世界大戦とハプスブルグ帝国崩壊を経て荒廃したウィーンを目の当たりにして、古都ブルージュを舞台にした小説をオペラ化したと言います。
一方、昨年からのコロナ禍では、欧米各国の都市の多くでロックダウンが実施され、まさに「死の都」と化しました。その光景はコルンゴルトが見たのと同じではないでしょう。しかし、失われてしまった過去と、これから否応なくやってくる未来のはざまで揺れ動く私たちの心のありようには、作曲家のそれと相通ずるものがあるはずです。
オペラでは「喪失からの再生」とでもいうような物語が描かれていますが、これから私たちはどのような「再生」を生きることができるのでしょうか。ちょうど7年前の今頃、東京の新国立劇場で観た公演の感動を思い出しつつ、そんなことを考えながら、黒田が歌うアリアを聴いていました。
来年のことを言うと「鬼が笑う」でしょうが、次の“Opus One”ではまたどんな音楽家に出会うことができるでしょうか。今から楽しみでなりません。その頃にはワクチンも行き渡り、かつての日常が少しでも戻っていますように。
※黒田祐貴の祐は示へんが正式表記です。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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