音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.94

クラシックメールマガジン 2021年5月付

~名盤の理由 ~ ブルックナー/交響曲第7番 マタチッチ/チェコ・フィル~

今年は、アントン・ブルックナー(1824-1896)の没後125周年に当たります。
1996年の没後100年の際は、世界的にもかなり盛り上がった記憶がありますが(思えば、ヴァントも朝比奈もまだ元気でした)、コロナ禍の中で迎える今回は、そこまでの高揚はまだ見られていません。125という数字にあまり迫力がないですし、3年後には生誕200周年を迎えるという計算もあるのでしょうか。
それでも、ウィーン・フィルがクリスティアン・ティーレマンの指揮で交響曲全集の録音・録画を開始(単独の指揮者と組んでの全集制作は史上初とのこと)したほか、日本でも各地のオーケストラが積極的にブルックナーの交響曲をとり上げ続け、少し前には新聞で特集記事が組まれるなど、関心は高まっているようです。
ということで、今月は記念の年に因んでブルックナーの音盤を取り上げることにしたのですが、さて、どの音盤について書くかが実に悩ましい。
曲は、DENONレーベルで最も同曲異演盤の多い交響曲第7番を選んだのですが、何しろ、マタチッチ、ブロムシュテット、スクロヴァチェフスキらの名盤揃い。どれも愛聴していますし、中でも、スクロヴァチェフスキと読売日響による2010年のライヴは、前日の公演を実際に聴いて感激した思い出もあって、愛着が深い。
さあ、困った。どうする。いっそのこと、全部ご紹介するか。
あれこれと悩んだ末、他の2枚に後ろ髪を引かれながらも、ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮チェコ・フィルによる、1967年3月録音のスプラフォン盤をとりあげることにしました(COCQ-85313)。
何のかんのと言って、この演奏が一番好きだからです。最初にこのディスクに接してから随分時間が経ちますが、ほぼ定期的に聴きたくなるほどの中毒性がある。繰り返して聴いているので細部まで記憶しているつもりなのに、聴き直すたびに新たな発見があって心を動かされる。まったく飽きることがありません。
発売当初からずっと、世評の高いディスクでもあり続けています。NHK交響楽団の名誉指揮者として度々来日し、多くの聴き手に愛されたマタチッチの代表盤の一つとしてだけでなく、この曲の数ある名盤の中でも、独自の風格を持つ演奏として称賛されてもいます。また、何度も再発売を繰り返してカタログに生き残り続けており、2019年には、タワーレコードからSACDハイブリッド盤が出て(リマスターは日本コロムビアの毛利篤氏が担当)、大きな話題となったのも記憶に新しいところです。かつてブルックナー評論で人気を博した宇野功芳氏が、いつもベストとして挙げていたのをご記憶の方も多いでしょう。
散々言葉を尽くして称賛されてきた歴史的名演に対して、屋上屋を重ねるようなことしか言えずにもどかしいのですが、スケール雄大、気宇壮大なブルックナーです。
その演奏スタイルは、ワーグナーの流れを汲んだ後期ロマン派的なもので、昨今流行の先鋭的なブルックナー演奏に慣れた耳には、時代を感じさせなくもありません。弟子の助言を受けて修正した初版を採用した部分もあるのでなおのこと、作曲家本来の意図に反した「間違い」だと主張する人がいても不思議はない。
しかし、録音当時68歳、まさに円熟期を迎えていたマタチッチの豪放磊落とも言うべき、スケールの大きな音楽づくりには抗いがたい魅力があります。
マタチッチは、基本的にゆったりと安定したテンポを守り、細かいことには拘泥せず、悠揚迫らぬ運びで曲を進めています。息の長い旋律が、豊かな肉づきをもった響きに包まれながら、大きな呼吸のうちにたっぷりと歌われ、複数の主題とポリフォニックに絡み合ってうねりながら高揚し、膨れ上がり、広々とした空間を満たしていく。
この響きは、いったいどれほど広々とした空間と、悠然たる時の流れの中から生まれたのだろうかと思わずにいられません。それは実際の演奏会場からはみ出た、ブルックナーが楽譜の向こう側に見た音のユートピアと、指揮者とオーケストラの団員が各々の内面に描いたイメージの総和たる仮想的な時空間であって、大聖堂とか宇宙とか、すっかり手垢にまみれた常套句を使いたくなるほどに巨大な「場」のはずです。
マタチッチとチェコ・フィルの演奏が、録音から半世紀以上を経た今もなお、多くの聴き手を惹きつけ続けているのは、このような大いなる音楽に包まれたいという人々の願望を満たしてくれるからなのでしょう。
でも、最近は歳をとったせいでしょうか、私はマタチッチの演奏の巨大さそのものよりも、その人間臭さにより強い魅力を感じるようになってきました。
それは楽譜のディテールを仔細に分析し、分解されたパーツを積み上げて精密に再現した演奏ではありません。音楽全体の流れを大きく捉え、それを一切の拡大縮小もせず、そのまま巨大なキャンバスに描きつけていくような発想から生まれた、バカでかい音楽です。そのアナログ的な手づくり感満載で人間っぽい音楽のありようが、私にはたまらなくいいのです。
だから、できあがった音楽のいでたちは、ゴシック様式の大聖堂や、整然とした法則で読み解ける宇宙よりは、ナスカの地上絵を想起させます。あまりに大きくて、高い視点から俯瞰してみないと音楽が表現しているものの全体像は掴めないし、その内容自体も謎だけれど、それが緻密な計算をもとに全体像を設計した上で描かれたことは確かで、その音遣いには間違いなく血の通った人間の手作業の跡がある。
そんな印象をもとにマタチッチの演奏を聴き直してみれば、誰もが称賛する豪快さや雄大さとともに、繊細な心遣いに満ちた歌の美しさが、胸に一層沁みてくるようになりました。交響曲第7番は、他の交響曲に比べて、歌謡的な旋律美に溢れていて、それが初演の大成功へとつながったのですが、マタチッチ盤には、その優美な旋律の歌わせ方に独特の味わいがあるのです。
特に、第2楽章の第2主題(トラック2,4分44秒~)。ヴァイオリン群がオクターヴのユニゾンで奏でる美しい歌を、マタチッチはたっぷりとしたテンポで朗々と歌わせていますが、ディミヌエンドで消えていく部分の儚げな表現に激しく胸を打たれます。第69小節からの第1主題への移行部分の高弦の消え入るような歌と、第73小節でいったん間を開けて音量を落とし、テンポも抑えて沈潜していくあたりの表現のそくそくと胸に迫る哀しさ。ある部分から別の部分へと移行するときに、後ろ髪引かれるような綿々たる歌を聴かせ、こちらの心を震わす箇所が全楽章の至るところにある。
あるいは、あるいは、第3楽章のトリオ(トラック3,3分57秒~)での、弦楽器の懐かしさを感じさせる歌の隙間から、言語化できない深い思いが響きからはみ出していくあたりの、味わい深いファンタジーも忘れがたい。
マタチッチというと、あのいかつい外見とぶっきらぼうな指揮ぶりそのままに、厳しい父性が屹立する音楽に関心が向かいがちですが、実は、こんなにも慈しみに満ちたあたたかい母性を孕んだ音楽を奏でていたのかとしみじみと感じています。
とは言え、やはり堂々たる偉容を誇る演奏の壮大さ・豪快さについては、語っておかなくては気が済みません。
例えば、各楽章のクライマックスでの、オーケストラの響きの壮大さはどうでしょう!恐らく、リアルな音量もかなりのものだったでしょうが、すべての楽器が十全に鳴り切っているのに、オーケストラの音には飽和感は皆無で、どこまでも拡散していくようなのびやかさがあって、いっぺんに魅せられてしまいます。
例えば、第1楽章のコーダ、第433小節(練習番号Z)でフォルテ・フォルティッシモに到達してから、最後までの頂上部分(トラック1、21分07秒~)。僅かな加速を続けながら、ヴァイオリンの細かい動きを含む弦楽器のトレモロと木管のロングトーン、そして、地響きのようなティンパニのトレモロに乗って、ホルンとトロンボーンがホ長調の第1主題の変形を高らかに歌い上げ、トランペットが鋭い信号音を吹く。
一点の曇りもない肯定と賛美に満ちた音楽で、誰が演奏しても感動的な部分ですが、マタチッチとチェコ・フィルの演奏には、「青天を衝け」と言わんばかりにひたすら高揚し、突き抜けようとする力が溢れていて、何度聴いても感極まってしまいます。これをナマで聴いたら、一体どんなに凄かっただろうかと想像せずにはいられません。
同様に、尊敬するワーグナーの死を予感して書いたとされる、第2楽章、第178小節(練習番号W)のティンパニ、トライアングル、シンバルを伴った頂点(トラック2、19分09秒)での、奥行きをもった響きの大きさと痛切さも心に残ります。これがあるからこそ、その後に続く、ワーグナーの死を知って書いたというワーグナー・チューバ四重奏の慟哭からコーダにかけての静謐な哀しみと、痛みを孕んだ祈りが胸を打ちます。
響きという点では、コントラバス・パートの明瞭さも印象的。例えば、第1楽章の第103小節から180小節(トラック1、5分17秒~6分12秒)では、コントラバスの4分音符の連続が、弦の振動が目に見えるほどに強奏されていて、いささかもブレないテンポに同期して、心臓の鼓動が強まっていくようにさえ感じて、耳に残ります。他にも、五弦のコントラバスにしか出せない重低音を随所で聴かせ、オーケストラのサウンドに立体感を与えていますが、音色にはチェコのオケらしい柔らかさがあってユニークです。
また、第3楽章スケルツォ主部のトゥッティの豪壮さもいいし、最終楽章で、頻繁なテンポ変化を伴う楽想の分断を、滑らかな推移のうちに、ソナタ形式のフォルムの中に無理なく収め、自然で説得力のある音楽として聴かせるあたりの器の大きさ、懐の深さはまさに名人芸です。
そして、これらの魅力が、先ほど述べたような繊細さと、何の矛盾もなく美しく共存しているのも素晴らしい。
もう一つ、使用楽譜について一言。
資料によれば、このマタチッチ盤は1885年にウィーンのグートマン社から出版された、初版スコアを使っているとされています。確かに、第1楽章が始まってすぐ、冒頭でチェロが奏でた第1主題を第1ヴァイオリンが再現する直前、第25小節のアウフタクト(トラック1、1分21秒)では、弟子の助言を受け容れて追加された部分が採用されていて、ホルンが1拍だけ下属音のH(シ)を吹いているのが聴きとれます。
しかし、その一方で、第2楽章のクライマックス直後、ワーグナー・チューバ四重奏の第189小節目4拍目は、現在広く流布しているノヴァーク版と同じ音になっていて、完全に初版に準拠しているという訳ではないらしい。そう考えると、ノヴァーク版をベースに、第1楽章冒頭だけ改訂版をとり入れた楽譜が使われたのではないかとも考えられますが、実際には逆なのかもしれません。
しかし、このあまりにも大きな演奏の前では、版の問題はさほど本質的ではありません。交響曲第7番においては、版によるスコアの音符の違いは少ないので、あくまで一つの時代の証言として、そして、マタチッチの解釈の変遷を見るための情報として見れば良いと思います(因みに、彼のラスト・レコーディングとなったスロヴェニア・フィル盤では、ハース版が使われている)。
つらつらと書き連ねてきましたが、そろそろまとめに入ります。
このマタチッチとチェコ・フィルによるブルックナーは素晴らしい演奏ですが、これが真の意味で「名盤」である理由は、複数の観点からも、まったく異なる楽しみや味わいを与えてくれることにこそあります。だからこそ、何度聴いても飽きることはないのだし、聴くことで音楽や、音楽家たちへの理解をさらに深めることができる。音盤を聴く最大の愉しみ、ここに極まれりというところ。
私自身もこれからたびたび聴いて、考えを更新していきたいと思いますが、私の中にある古い価値観とは無縁の若い人たちや、これまでブルックナーを避けてきたような人たちがこのディスクを聴き、その多様な魅力を先入観に縛られない新鮮な感性で受け止め、これまでになかった新しい言葉で語ってくれることに期待したいと思います。
考えてみれば、ブルックナーの没後100年の25年前には、前年に阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件がありました。あの頃、暗くて不安な世相の中、クラシック音楽はグレゴリオ聖歌とか「アダージョ・カラヤン」のベストセラーの延長で、「癒し」という文脈の中で、大量に消費されていました。ブルックナーの交響曲の受容のあり方も、その影響を多少受けていたかもしれません。
そして、今回は前年にコロナ感染爆発があり、私たちは現在も不自由な生活を強いられています。ならば、この危機の時代にあって、聴き手はブルックナーの音楽に何を求めるのでしょうか。そして、マタチッチとチェコ・フィルの名盤から何を聴きとるのでしょうか。
癒しでしょうか?祈りでしょうか?
その答えは、風に舞っている。いや、違う。私たちがこれから作っていくものです。ならば、マタチッチの演奏にある優しくて繊細な心遣いに満ちた答えを、見つけられたらと思います。たとえそれがあまりにもちっぽけで、「さざ波」すら起こせなかったとしても。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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