ギタリストの朴葵姫が昨年デビュー10周年を迎え、記念アルバム「Le Départ」をリリースしました。
ただし、今回の制作はコロムビアではなく、昨秋韓国で発売されたディスクのライセンス販売です。ライナーノートのクレジットを見れば、プロデュースは朴自身になっていますし、録音スタッフにも韓国の方々が名を連ねています。
「Le Départ」が変則的な形でのリリースになったのは、言うまでもなく、コロナ禍の影響です。昨冬のコロナ感染爆発時に韓国にいた彼女は国外へ出ることができず、韓国内でセルフプロデュースに初挑戦、試行錯誤の末にアルバムを完成させました。エンジニアもクラシック録音のプロではなかったので、産みの苦しみを経験したことでしょうが、自らの手でアルバムをプロデュースするという夢が叶い、プラスの側面もあったようです。
アルバムのタイトルは、収録曲の題名「旅立ち」からとられたフランス語で、キャリアの節目を迎えた朴葵姫の意志を反映した命名でしょうか。一方で、8年前のコロムビア第1作と同様に、アルベニス、グラナドス、ソル、タレガらスペインの作曲家の作品を中心に選んで演奏しているのは、原点回帰という意味合いがあるのかもしれません。その他、ヴィラ=ロボス、コストの曲に加えて、マーラーの交響曲第5番~第4楽章アダージェットのギター版も収められていて、単純な「スペイン・ギター名曲集」となっていないのは、朴自身のこだわりなのでしょう。
素晴らしかった前作「Harmonia」から3年。まさに待望の新盤を聴いて最も強く印象に残ったのは、朴葵姫が奏でるギターの音色の柔らかさと、多彩さです。それらは今まで聴いてきた彼女の演奏でも際立った特質でしたが、今回のアルバムではさらに磨きがかかり、魅力を増しているように思えます。
特に、微妙な強弱の変化に合わせて音色を細かく変えていくあたり、その彩りの豊かさには驚くしかありません。しかも、同じくらいの音量の箇所でも、曲想に合わせて音色にバリエーションを持たせ、繊細なニュアンスを表現しているのが素晴らしい。そんなのは基本中の基本、必須の技術でしょうが、朴葵姫の音色の作り方は合理的かつ得心のいくもので、ため息が出るくらいに美しい。
その音の美しさは、彼女が愛用しているダニエル・フレドリッシュの楽器に負うところも多いでしょうが、右手の卓越した技術なしには得られないものです。
ギターでは、左手で弦の端を押さえるポジションと、弦をはじく場所との距離によって音色が変わります。例えば、左手は自分の身体により近い位置で弦を押さえ、右手は左手により近い場所で弦をはじけば、音色は深みのあるものになる。加えて、指のどの部分で弦をはじくかでも、音色は変わります。爪ではじけば大きくて鋭い音になるし、指の腹ではじけばちょっとくぐもった丸い音になる。極端に言えば、ギターの音色は爪と肌で作るのです。
朴はそうした技術を巧みに組み合わせ、千変万化する音色を生み出しているのですが、穏やかで落ち着いたトーンの曲を多く収めた当盤では、「肌」で作る音を基準にして全体の音色を組み立てているように思えます。爪を使って鳴らしたであろうクリアな音にも、肌で作ったのと同質のあたたかい深みがある。
聴いていて思い出したものがあります。それは、彼女が愛用の2眼レフカメラ、ローライフレックスで撮った写真です。そのうちいくつかがネットで見られるほか、以前のアルバムのライナーノートにも何枚か掲載されていますし、いつだったか、音楽ライターの故オヤマダアツシ氏が、彼女の写真とトークを織りまぜたユニークなコンサートを開催して話題になったのも、記憶に新しいところです(悔しいことに、私は所用で聴きに行けませんでしたが)。
ドイツのローライ社のフィルムカメラで撮った写真では、モノクロであれ、カラーであれ、光が柔らかく取り込まれていて、被写体のうちに隣り合う色が美しく調和しています。そして、色数の多さと鮮やかさ、それらの間のコントラストよりも、一つの色の中における階調の深さとなめらかな連続性に、独特の味わいがある。そう、彼女が奏でるギターの音色と同じように。
朴が爪と肌で奏でたギターの音色と、アナログな機構でフィルムに焼き付けた色調は、どこかで深く共鳴している。私にはそう思えてならないのです。彼女の音楽的志向が趣味にも現れているのかもしれないし、逆に、趣味における好みが演奏に影響を与えているのかもしれない。あるいは、私という聴き手の、音楽以外の「物語」にバイアスされた勝手な想像かもしれません。でも、彼女が撮影した素敵な写真を見ながら当盤を聴くと、音楽を聴く喜びが倍増して実に愉しい。
「Le Départ」でもう一つ印象深かったのは、その音楽の身のこなしの軽やかさとしなやかさです。音の動きがシンプルにして洗練の極みであり、音と音のつながりがスムーズなのです。
例えば、再録音にあたるアルベニスの「カタルーニャ奇想曲」が好例です。コロムビア移籍第1作「スペインの旅」での録音と比べ、より繊細な陰翳がつけられていて、音楽の情報量が増えているように感じますが、実際にはテンポは切り詰められ、演奏時間も30秒以上短くなっているのです。音楽上のあれこれの創意工夫は、淡々としたさりげない動きの中に結晶化されている。
このなめらかな音のつながりは、今度は左手のテクニックと関連しています。弦を押さえる指使いの切り替えと腕のポジション移動が驚異的に素早く、針に糸を通すかのように正確なのです。発音してから左手の指を弦から離すタイミングが絶妙に早く、響きが残っているうちに次の音を押さえる準備が瞬時に整うので、音楽の生理に合わない瞬断は皆無。音と音はスムーズなレガートでつながれて旋律の稜線をなめらかに描き出し、フレーズとフレーズは自然な呼吸をもって連鎖して淀みのない流れを生み出していく。加えて、強弱と密接に連動した音色の変化と、自在な緩急を巧みに織り交ぜることで、そのレガートはこれまで以上の流麗さと生命力を獲得しているのです。
この技術の精錬は、彼女のトレードマークとも言えるトレモロ奏法にも、さらなる輝きを与えています。右手の正確なアルペジオの撥弦技術に加え、素早くしなやかな左手の動きのおかげで、音の跳躍や和声の動きを伴うパッセージでも音楽は滔々と流れ続ける。トレモロで弾かれていることを忘れ、旋律を豊かなハーモニーで包みこんだ音の帯を聴いているような錯覚に陥ってしまいます。マーラーのアダージェットがその好例で、「アルハンブラ宮殿に死す」というようなちぐはぐな印象を抱くことなく、マーラーが新妻アルマに宛てたラブレターなどとも言われる甘く切ない旋律の魅力に、どっぷりと浸ることができます。
さらに、音の振る舞いの軽やかさは、リズムの表現にも生きています。時には律儀なほどに正確に、時には曲想に応じて拍の重みや間合いを自在に変えながら、生き生きとした脈動を音楽に与えていく。
例えば、グラナドスの「詩的なワルツ集」。序奏と7つのワルツそれぞれのリズムには、曲調に相応しいキャラクターを持たせていて、単調に陥る危険性はまったくない。優しくも儚く揺れる3拍子の脈動の変容を、たっぷり16分間にわたって味わうことの何という愉楽でしょうか。
あるいは、ヴィラ=ロボスのショーロ第1番で聴けるリズムも印象深い。この曲では、H-E-Gの3音を抜き足差し足、リタルダンドしながら奏でた後、F#7の転回和音をジャン!と鳴らして仕切り直す場面が繰り返されるのが特徴的ですが、朴はその転回和音を、拍子抜けするほどに小さい音量で柔らかく弾いていて驚きます。その後も、2拍子のビートをソフトに刻むとともに、時間方向の微かなゆらぎをもたせ、独特のヨコノリのグルーヴを与えていて、何とも耳に心地良い。
これは恐らく朴葵姫が師事したアルヴァロ・ピエッリ直伝の解釈だと思います(ピエッリが同曲を演奏した動画がYouTubeで視聴可)が、ふわりと浮遊する拍節感と、音色の上質な甘さとまろやかさは、他の誰でもない朴葵姫だけのもの。2014年録音のアルバム「サウダーヂ」に収められた旧録音も魅力的でしたが、より複雑で成熟した味わいをたたえた新しい演奏には強く惹かれます。
このようにエレガントさを増した音の振る舞いは、先に述べた音色の柔らかさ、多彩さと分かちがたく結びついて、朴葵姫の音楽の魅力を高めています。しかし、彼女の演奏においては、それらは最終目的ではありません。両者を結んだ先に目指すものが何かがある、そんな気配がすべての音から感じられるのです。
それが何かと考えると、ただちに「歌」という言葉にたどり着きます。それはあまりにも当たり前で、今更感満載の答えに違いありませんが、今回のアルバムで聴くことのできる「歌」は、朴葵姫の音楽家としてのありようと深く関わっていると思わずにいられないほどに切実です。解釈、演奏技術、すべてはこの「歌」を紡ぐための手段に過ぎないと思わずにいられないほどに。
「Le Départ」に溢れている「歌」には、あたかも彼女の自宅の一室でセッションを組んだかのような、アットホームな雰囲気をたたえた録音も相俟って、ひたすら目の前の人たちを幸せにすることを願って奏でられたかのような、半径1メートルの親密なあたたかさがあります。
しかし、現実の録音の場では、彼女が音楽を届けたい無数の聴き手は、その目の前にはいません。マイクの前でただ一人、孤独に音楽を奏で続けるしかない。
先日、朝日新聞に掲載された吉田純子氏の記事に、こんなことが書かれていました。
文化の本質は祈りであり、ここにいない誰かを思う優しさの集積であり、時代や国境を超えた共感と連帯の源なのだ。
(2021.5.8 朝日新聞 多事奏論 アートの未来 発信だけでない「営み」守りたい 吉田純子) |
朴葵姫の音楽からありありと感じとれるあたたかさは、吉田氏の言う「ここにいない誰かを思う優しさ」と同質のものであり、いつか自分の音楽を聴いてくれるはずの人たちを思う想像力と、想像の中に存在する聴き手への、愛おしげなまなざしから生まれたものに違いありません。そう、彼女が写真を撮るときに被写体に向けていたのと同じまなざし。
「ここにいない誰かを思う優しさ」から生まれた歌は、祈りへと昇華されて飛翔していく。それがリアルな聴き手に届いたとき、「日常と共に在る」ものとしてそれぞれの暮らしの中に融け込み、やがて人と人の心を共感と連帯で結んでいく。そんなイメージを胸に、彼女は愛すべき音楽を、愛する聴き手に向けて奏でた。「Le Départ」というアルバムの制作過程に、そんなストーリーを見いだすのは邪道でしょうか。
しかし、そのプロセスは文化の本質であるとともに、レコード録音の本質でもあります。
「今、ここ」でしか分かち合えないライヴにこそ音楽を聴く醍醐味があるという考えは、疑う余地のない真理です。しかし、「ここにいない誰か」への想像力によって、人々を音楽でつなげていく「レコード」が、かけがえのない音楽の喜びを与えてくれることもまた、ゆるぎのない真理です。今後、記憶デバイスや流通形態は変化していくでしょうが、その喜びがあればこそ、音楽を記録に刻み込む文化は永遠に不滅なのではないか。朴葵姫の演奏を聴きながら、そんなふうに確信しました。
話が大きくなりすぎました。個々の曲の内容について、少しだけ記しておきます。
アルベニスの3曲「セビーリャ」「コルドバ」、前述の「カタルーニャ奇想曲」は、細やかな表情づけを粋な節回しの中に収め、人生を肯定するようなのびやかな明るい歌と、仄かな哀愁を秘めた歌の対比を繊細に描いていて、心に響きます。なお、当盤ではこれら3曲の編曲者が明記されておらず、「セビーリャ」が恐らくM.バルエコ編曲と思われる他は、誰の手によるものかは調べられませんでした。
ソルの練習曲第11番、タレガの前奏曲は、どちらも平易でメロウなメロディを持った短い佳品ですが、朴はこのままずっと聴いていたいと思うような、慰撫に満ちた歌で聴き手の耳と心を捉えて離しません。
先述のグラナドスの「詩的なワルツ」(パオロ・ペゴラロ編)も、単純に3拍子の踊りの音楽という以上に、古いアルバムを繰ってセピア色の写真を見返し(今の若い人たちには実感のない行為かもしれません)、過ぎ去った日々の悲喜こもごもの記憶をたどる、そんな時間を想起させるようなノスタルジックな歌が連ねられていて、たまらなく愛おしい。
アルバムタイトルになったコストの「旅立ち」は、劇的幻想曲と称するだけあって、8分を超えるドラマティックな構成をもった曲。旅への出立を思わせる勇壮なマーチもありますが、今までいた場所への愛惜を込めたような切ない歌が、心に沁みます。
そして、アルバム末尾に収録されたマーラーのアダージェット(佐藤弘和編)には、彼女が「歌」に込めた思いのすべてが結集しています。アレンジは必ずしも原曲に忠実なものではなく、シンプルな構造に置き換えられていますが、まさしく「ここにいない誰か」への愛と憧れに満ちた歌が、心にそくそくと迫ってきます。特に、主旋律がオルゴールのような音でポツリポツリと奏でられるところでは、粉々に砕け散ったものが、一つの歌へとつながって再生していくさまが目に見えるようで、強い感銘を受けました。
デビュー11年目を迎えた朴葵姫は、どんな旅立ちのときを迎え、これからどこへ向かい、何をどんなふうに聴かせてくれるのでしょうか。ファンとしては楽しみでなりませんが、どうか、またこうして「ここにいない誰か」に向けた歌を奏でて音盤に刻み、私たちの日常に寄り添ってくれますようにと願わずにはいられません。
-
粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
音盤中毒患者のディスク案内 インデックスへ