音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.99

クラシックメールマガジン 2021年10月付

~二十億光年の孤独 ~ ブラームス/後期ピアノ作品集 ヴァレリー・アファナシエフ(p)~

村上春樹氏の最新刊「古くて素敵なクラシック・レコードたち」(文藝春秋社)がベストセラーになっています。氏が所蔵するクラシック音楽のLPコレクションから、これはというものをジャケット写真つきで紹介した書籍ですが、その中にこんな一節があります。
「これら小品はコンサートホールに向かない。自宅で夕刻に、ひっそり一人で聴くべきものだろう」
これはブラームスの後期ピアノ作品集の欄(タイトルは「間奏曲集」)でとり上げられたワルター・クリーン盤の解説からの引用で、氏は続けて「まったくそのとおりだ」と全面的に賛同しています。
1892年、ブラームスが59歳のときにまとめて書いたピアノ作品群(幻想曲集Op.116、3つの間奏曲Op.117、6つのピアノ曲Op.118、4つのピアノ曲Op.119)は、「間奏曲」「バラード」「ラプソディ」「カプリッチョ」などのシンプルなタイトルを持つ小品たち。
肉体と創作力の衰えを自覚した晩年の作曲家の「諦念」を反映した作品とされますが、そうした物語に依存して音楽を理解することの当否は別としても、村上氏が「沈潜しては浮かび上がり、また沈潜してはまた浮かび上がる、世界の片隅のひとつの孤独な魂」と評しているように、聴き手を深い内省に誘う曲たちであるのは間違いありません。
そのような音楽は「自宅で夕刻に、ひっそり一人で」聴くべきだと言いたくなる気持ちはよく分かります。ただ、これらの曲がコンサートホールには向かないとか、自宅で聴くべきだとは思いません。コンサートホールで忘れがたい演奏を聴いた経験はいくつもあるからです。特に昨年3月、コロナによる緊急事態宣言発令の少し前、アンドラーシュ・シフの来日公演で聴いた演奏は、生きて音楽を共有することの幸福を実感させてくれるもので、本当に素晴らしかった。
それでも、これら珠玉の作品は、太陽が地平線の向こうに沈みかかり、茜色の空が闇に覆われようとする夕暮れどき、自分が最も自分らしくいられる静かな場所で、自らの内面を見つめ、我が身の来し方と行く末に思いを馳せながら聴くのにふさわしい、とは思います。
さらに言うと、清少納言ではありませんが、ちょうど今の時期、秋の夕暮れにはブラームスのピアノ曲集が恋しくなる。古来、この季節が人々の心にもたらしてきたものがなしさ、わびしさ、あるいは「もののあはれ」という情趣が、この音楽と美しく共鳴するからなのかもしれません。
ブラームスの後期ピアノ作品集と言うと、グレン・グールドが1960年の秋に録音した、間奏曲だけを集めた有名なディスクを愛聴しています。
初めて聴いたのはもう30年以上も昔のことで、私は大学生でした。ある日、たまたま訪れたCDショップで、このアルバムが再生されたのです。冒頭に収められた間奏曲変ホ長調Op.117-1の最初のほんの数秒で、その美しくも孤独な響きに捉えられてしまった。私の周囲だけ時間が止まってしまったかのように、しばらく立ちずさんで聴き入っていたのを今でもはっきりと覚えています。
当然、件の音盤を入手しました。そして、毎日、狂ったように繰り返し聴きました。ブラームスの音楽が孕む内向きの抒情を、どこまでも詩的に表現したグールドの演奏は、若さゆえの「内面の嵐」に身も心も持て余し、悶々としていた私の心にそっと寄り添ってくれるようで、作曲者自身が楽譜に記した通り「わが苦悩の子守歌」として聴き、救いを得ていました。
以来、グールドがピアノを弾きながら歌うハミングや、僅かなミスタッチさえも脳内再生できるほどにこのアルバムを偏愛してきました。ショップでかかっているディスクに一目惚れするのは日常茶飯事ですが、グールドのブラームスとの出会いは、私のこれまでの人生の中でも最も幸福なものの一つです。
ならば、「この1枚さえあればほかはいらない」と言いたいところなのですが、そこは音盤中毒患者の性(さが)。ブラームスの後期ピアノ作品を収めたアルバムを目にすれば、聴かずにはいられなくなってしまう。ピアニストによって取り上げる曲はまちまちですが、ルプー、ポゴレリッチ、ルディ、ペライア、ヴォロドス、ソコロフ、カッサール、ポブウォッカ、田部京子、メジューエワ・・・と、独自の魅力と風格を持った演奏に出会い、それぞれ気に入って聴いています。
ヴァレリー・アファナシエフがDENONに録音した2枚のブラームス・アルバムのうち、Op.117~119を収めた第1集(1992年録音)もまた、私にとってはかけがえのない存在です。彼は2013年の来日時にライヴでいくつかの曲を再録音しており、音楽の深まりを印象づけた演奏にも魅力を感じていますが、今聴き直しても褪せることのない唯一無二の個性の輝きゆえに、この旧盤に何度も戻って来てしまいます。
アファナシエフの他のアルバムと同様、彼は多くの曲で極端なまでの超スローテンポをとっています。しかし、その演奏は弛緩とは無縁で、ピンと張り詰めた緊張感はむしろ強まっています。思わぬところで強弱や緩急の落差がつけられたり、独特のアーティキュレーションで音と音がつなげられたりなど、楽譜の深い読みが随所で見られ、聴き手の注意を引きつけずにおかないからです。
また、不協和音が出てくれば少し間合いをとったり、音楽が減衰するに従ってテンポを落としたり、クレッシェンドの頂上で大きな呼吸をとったりするなど、さまざまな局面で強弱や緩急の変化がつけられていて、その強度や振幅には、曲想やハーモニーの推移に応じたグラデーションがある。そのことで、音楽の内部構造が繊細かつ立体的に明らかにされているのも見逃せない。
このように際立った個性を持ったアルバムですが、グールド盤とアファナシエフ盤には共通点があります。それは、孤独を宿したパーソナルな音楽であるということです。聴衆の存在を拒絶するかのような静けさの中で、演奏者が音楽の一番核心にあるものを凝視して自己の内面に深く沈潜し、思考をめぐらせてピアノを奏でている、そんな趣があるのです。
しかし、その孤独の質は、まったく違う。
グールドの演奏にあるのは、いわば密室の孤独。演奏者はさほど広くない無響室のようなスタジオに閉じこもって、目の前にあるピアノの音と自らの思考に集中し、ひたすら音楽を奏でている。そこには、かつてある評論家が「絶対零度の孤独」と評したように、自らを外界から狭い空間に隔絶し、内に引きこもるような閉塞感がある。
反面、外界から遮断された環境に我が身を置くことの愉悦も感じられる。それは録音の数年後に演奏会からドロップアウトする彼の音楽家としてのありようを反映しているように思いますが、それよりも、私という聴き手は、ひりつくような孤独の背後にある肯定的な響きに慰めや安らぎ、希望を見いだしているのかもしれません。
一方、アファナシエフの演奏が抱える孤独は、もっと広い空間の中にあるものです。
彼が多用する極端なスローテンポは、演奏者の側からすれば、コンサートホールのような場所で、客席の一番奥からの反響を聴きながらでなければ成立しづらいはずです。グールド盤のような環境でこのテンポをとれば、音楽がブツ切れになって空中分解されてしまう。事実、このディスクでは、録音会場のホールトーンは十分にとり入れられています。
だからという訳ではないのですが、グールドの演奏の中心にあるのが、村上春樹氏が言う「世界の片隅のひとつの孤独な魂」であるとするなら、アファナシエフが弾くブラームスの音楽は「二十億光年の孤独」とでもいうような広がりと静けさ、さみしさ、厳しさをまとっているように思えます。
時間が止まったようなゆったりとしたテンポの中で、ピアノから放たれた音が減衰して消えていくさまを耳で確かめながら、ぽつりぽつりと間合いをとって発せられる音が重なっていくのを聴いていると、その背後にある空間の広がりと時間の流れを感じて、いつしかイメージは宇宙へと広がっていく。すると、だだっ広い宇宙の片隅にあって自分という存在は無限小でしかなく、もはや点ですらないという「諦念のようなもの」が心にコツンと当たる。
しかも、アファナシエフが奏でるピアノの音色は透明で、常にメランコリックな色合いを帯びていて、「諦念のようなもの」は「敗北感」とでも呼びたい何ものかへと転化する。明るいところに向かって浮上しようとして羽ばたいても、イカロスの翼のように溶けてしまってまた落ちていく。意を決して再び浮上しようとするが、また・・・を繰り返し、最後には敗北を抱きしめて受容する、そんなストーリーを重ねたくなるような場面がいくつもある。
それが、いい。
「二十億光年の孤独」は谷川俊太郎の詩のタイトルですが、その中にこんなフレーズがあります。
万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
谷川俊太郎「二十億年の孤独」
ちっぽけな自分の中にある孤独は、またどこか離れたところにあるちっぽけな孤独とひき合い、もとめ合う。どんどん膨らんでいく宇宙の中で、孤独を結びつける引力が消えてしまうのではないかと不安を抱きながら、だからこそまたもとめ合う。
アファナシエフの演奏を聴いていると、ブラームスの音楽の根源には、孤独な魂同士を結びつける引力への渇望があり、演奏者自身もそれを共有しているのかもしれないと思えてきます。同時に、人と人が真に結び合うためには、それぞれが自ら進んで孤独であろうとせねばならぬという気さえしてくる。
厳しい音楽です。そこにはグールド盤にある愉悦の感覚は、ほとんどない。しかし、孤独をめいっぱい敷き詰めた音楽に触れながら、自らの内側に沈み込み、宇宙の中心で人生の真理に思いを馳せるのは、詩的な箴言で綴られた哲学書を読むようで、思考が強く刺激されます。
振り返ってみれば、私がこれらの音盤に出会った20代の頃、晩年を迎えた人間の「諦観」がどんなものか実感などまったくありませんでした。それでも、当時の私が二人の演奏に激しく惹かれたのは、この音楽から立ち昇ってくる「孤独」には、馴染みがあったからなのでしょう。
そして、黄昏の柔らかな光を感じながら、敢えて小さな自室の電気を消して物思いに耽りたいようなときにはグールド盤、皆が寝静まった夜更けすぎ、完全なる静寂の中で宇宙に思いを馳せながら孤独を楽しみたいときにはアファナシエフ盤というように、そのときの気分によって音盤を選び「ひっそりと一人で」聴いて親しんできたような気がします。
このように、アファナシエフ盤は私にとっては生きる糧とでも言いたくなる役割を担ってくれていて、その魅力には語り尽くせないものがありますが、どれか一つ印象に残る曲をと問われれば、悩んだ末に、有名な間奏曲Op.118-2を挙げます。
ここでもアファナシエフは抑えたテンポをとっていて、8分をかけてじっくりと演奏していますが、この曲の顔とも言えるあの優美な旋律を、アファナシエフはなんと繊細に奏でていることでしょうか。特に、ピアニッシモと指示された部分で、極度に音量を落として再び歌うあたり(トラック5、0分30秒~)の深沈たる味わいと、主部の旋律の反行パターンをドルチェで弾くときの壊れものを扱うような手つき (1分58秒~)は、強い印象を残します。
また、三部形式の中間部で嬰へ短調に転じて哀しげな翳りが忍び込んだあと、清らかな和音が静かに下降して空気を鎮めていくところ(3分57秒~)では、そこに込められた祈りのような感情に打たれない訳にはいかない。ここが丁寧に弾かれているからこそ、その後に短調が戻ってひとしきり悲痛な感情が表出され、やがて静かに主部が戻ってくるあたりの音のドラマには奥行きが与えられ、味わいがぐっと増しているのは間違いありません。
そのほか、間奏曲Op.118-6での凍てつくような静けさも忘れがたいし、アルバム冒頭の3つの間奏曲Op.117はそれこそ「二十億光年の孤独」を思いながら聴きたい。アルバムの最後、Op.119の最後のハ長調、変ホ長調の2曲は、明るく力強い曲調を持ちますが、抑えたテンポでずしりとした重量感と、細やかな陰翳を伴って弾かれているのもいい。
このディスクのライナーノートには、アファナシエフ自身が書いた印象的なエッセイ「ブラームス晩年の作品」が掲載されています。彼はヴェルレーヌの詩を引用し、「もののあはれ」という言葉にも触れて、こんなふうに述べています。
ブラームスの音楽は日本庭園のように季節のプリズムを通して味わわれるものである。ブラームス晩年の作品は秋と冬の気配にあふれているように思える。
ヴァレリー・アファナシエフ(明比幸生訳)
ここまで観念的で散漫な印象を書き連ねてきましたが、このあまりにも印象深い演奏の核心にあるものは、結局のところ、彼のこの言葉ですべてが言い尽くされているような気がします。
いま、ご自身の人生に秋と冬の気配を感じている方も、あるいは、人生の春や夏真っ盛りの方々も、この秋の夜長、アファナシエフとともに「二十億光年の孤独」を味わってみてはいかがでしょうか。きっと何か大切なものを見つけられるはずです。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

音盤中毒患者のディスク案内 インデックスへ