楠木繁夫・三原純子 / 音故知新 昭和の名歌手 楠木繁夫・三原純子商品情報

楠木繁夫・三原純子 / 音故知新 昭和の名歌手 楠木繁夫・三原純子

楠木繁夫・三原純子 / 音故知新 昭和の名歌手 楠木繁夫・三原純子

[ALBUM] 2021/07/28発売

楠木繁夫・三原純子 / 音故知新 昭和の名歌手 楠木繁夫・三原純子

COCP-41498 ¥2,530 (税抜価格 ¥2,300)

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  • 1.落城のたそがれ / 楠木繁夫

  • 2.花白蘭の歌 / 楠木繁夫、李香蘭

  • 3.マニラの月 / 楠木繁夫

  • 4.南から南から / 三原純子

  • 5.どうぢゃね元気かね / 楠木繁夫

  • 6.月の小島 / 楠木繁夫、三原純子

  • 7.戦果はラジオで / 楠木繁夫

  • 8.真昼の丘 / 三原純子

  • 9.春の流れ / 三原純子

  • 10.花笠をどり / 三原純子、霧島昇

  • 11.轟沈 / 楠木繁夫

  • 12.突撃喇叭鳴り渡る −一億総決起の歌− / 楠木繁夫、三原純子、近江俊郎

  • 13.いさをを胸に / 楠木繁夫、松原操

  • 14.仕奉増産歌 / 楠木繁夫、菊池章子

  • 15.思い出の喫茶店 / 楠木繁夫

  • 16.嘆きの窓 / 三原純子

  • 17.南から南から(戦後版) / 三原純子

  • 18.銀座から / 三原純子

  • 19.たそがれの広告塔 / 楠木繁夫

  • 20.夜風のタンゴ / 楠木繁夫、三原純子

  • 21.ぜったい愛して / 楠木繁夫、渡辺はま子

  • 22.トンコ節 / 楠木繁夫、久保幸江

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*全曲モノラル録音

監修・解説:郡 修彦(音楽史研究家)

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楠木繁夫・三原純子 プロフィール

 楠木繁夫は本名を黒田進と言い、1904年(明治37年)1月20日に高知県佐川にて医師の黒田龍起の四男として誕生、母親の影響により少年時代より音楽に親しみ、楽器を奏で作曲を行う程でした。県立高知第一中学校時代には東京音楽学校への進学を希望しますが、医者を希望の父親に反対され母親の取り成しにて可となります。1922年(大正11年)春に卒業し1年間の準備を経て1924年(大正13年)春に東京音楽学校乙種師範科に入学し翌年卒業。梁田貞(1885〜1959)に師事して声楽を学び、1926年(大正15年)春に同校予科に入学、翌年に本科声楽科へ進級、同級は伊藤武雄と薗田誠一の2人です。在学中も梁田貞より日本語の発声に関する厳格な指導を受けた事が、後の基礎となりました。また、高木東六(1904〜2006)を含む学友3人と映画や喫茶店に通い、遊びの話や音楽批評に花を咲かせ青春を謳歌しましたが、1928年(昭和3年)5月に同校で学生25人が校長室へ乗り込む事態が生じ、高木東六・黒田進ほか3人の計5人が除籍処分となりました。
 これにより彼等は夫々の道へと進み、黒田はレコード歌手を目指して1929年(昭和4年)に名古屋の株式会社アサヒ蓄音器商会の「ツル」レコードより本名にて活動を開始、以降の5年間に最低55種の芸名を使い、30余のレーベルから800余曲を発売しています。この間に株式会社日本蓄音器商会では1930年(昭和5年)から翌年にかけて、本名と秋田登等幾つかの芸名にて「コロムビア」レコードを中心に、系列の「ニッポノホン」「オリエント」「ヒコーキ」にも足跡が見られます。そして、1934年(昭和9年)に作曲家の古賀政男(1904〜1978)に招かれ帝国蓄音器株式会社の専属になり、楠木繁夫の芸名にて再出発し、大ヒットを連発して同社の創生期に大いに貢献します。絹の如き歌声と繊細な表現力、朗々たる声量が聴く人を魅了して楠木繁夫の全盛時代を築きました。1939年(昭和14年)7月には日本ビクター蓄音器株式会社へ移籍して2年半程の在籍の後に、1942年(昭和17年)に株式会社日本蓄音器商会へ復帰しました。
 三原純子は本名を黒田粋子(旧姓木村)と言い1920年(大正9年)8月6日に岐阜県の飛騨白川郷にて木村奥左衛門の三女として生まれました。兄の影響を受け音楽に興味を持ち、女学校時代には学校行事での独唱を行う程であり、卒業後には音楽の道へ進むべく宝塚音楽歌劇学校を受験するも不合格でした。名古屋の百貨店勤務の傍ら洋琴家の谷愛作に師事して音楽の勉強を開始、程なく上京し作曲家の長谷川堅二に師事して声楽を学び、その紹介で大日本蓄音器株式会社の専属となり、松竹大船映画の若手俳優の三原純にあやかり三原純子の芸名にて「タイヘイ」レコードの1939年(昭和14年)6月新譜から歌手活動を開始します。若手女性歌手の一人として1942年(昭和17年)2月に同社が経営不振により大日本雄弁会講談社に買収されるまで在籍して活躍を続け、買収先の「キング」レコードより1曲発売の後に、株式会社日本蓄音器商会へ移籍しました。
 2人の顔合わせは「月の小島」の録音の時であり、次いで大映映画『歌う狸御殿』での共演を経て親密になり、1943年(昭和18年)12月8日の大詔奉戴日に吉田信(1904〜1988)夫妻の媒酌により東大久保の楠木宅にて結婚、参列者は高木東六と古賀政男に楠木の母親の合計7人でした。戦時中は鴛鴦歌手として演奏旅行を行い、レコードの録音も合間に行いました。やがて戦争の激化に伴い2人は飛騨高山に疎開、三原純子の実家の白川郷にも疎開しました。戦後は実演を中心に活動を再開し、レコードの録音は1947年(昭和22年)秋と大分遅れましたが、地方公演を精力的に行い各地で好評を博しました。
 1949年(昭和24年)には2人揃って帝蓄工業株式会社へ移籍し、「テイチク」レコードの歌手の一員として再出発しますが、やがて徐々に録音からも遠ざかり実演中心の活躍に移りました。三原純子は胸部疾患(肺結核)が少しづつ悪化し、楠木繁夫も演奏旅行の途中で軽い脳出血を患い、後遺症と積年の過労とヒロポンの薬害が加わり、歌手として衰えが出始めます。1956年(昭和31年)には三原純子の病状が悪化し、飛騨高山で療養生活を送る事になり演奏旅行の帰途にて2人は別れましたが、楠木は愛妻との別居の寂しさと自らの前途に対する絶望から同年12月14日に自宅にて縊死しました。時に楠木繁夫52歳、昭和歌謡史に名を残すヒット曲を連打した名歌手の余りにも悲劇的な最後で、その葬儀の出棺の時に松平晃は号泣しつつ楠木のヒット曲を歌い別れを告げました。三原純子も最愛の夫に先立たれた痛手と、病状の急変に伴い1959年(昭和34年)10月3日に39歳の若さで生涯を終えました。

郡 修彦(音楽史研究家)