新人の作品には一言半句の鮮烈があればよい。(芥川賞 ~ 「風に訊け」開高健 集英社)
これは、1980年代に某週刊誌で開高健氏が担当していた読者対象の人生相談(ライフ・スタイル・アドバイス)のコーナー「風に訊け」で、読者からの「芥川賞の選考委員の中であなたの選評が一番厳しい。あなたが満点を与える基準は何か?」という質問に答えて述べた開高氏の回答の一部です。氏は、新人の作品には満点などあり得ない、数万語、数十万語、数百万語からなる地下に埋もれた鉱脈から鮮烈な一言半句が地表に露出していれば、その作品に評を入れるのだと書いていました。
私は芥川賞の選考委員ではありませんし、ましてや、音楽の聴き手として対象を採点するような立場の人間でもないのですけれど、氏の言葉にはとても共感します。ちょっと言葉を置き換えて考えてみればいい。
初めて聴くCDには一フレーズの鮮烈があればよい。
確かにそうです。買ったCDを聴いて、ほんの一フレーズでいいから、キラリと光る音があれば、それだけでそのCDは私の記憶に刻み込まれる。愛聴盤として常に傍らに置いておきたくなる。時折「鮮烈な一フレーズ」に触れて心を高揚させたくなる。勿論、それが世間一般の客観的な評価と結びつかなくてもいい。あくまで自分にとっての鮮烈な音楽であればそれでいい。
では、この3月に日本コロムビアから発売された、ヴァイオリニスト日下紗矢子さんの『リターン・トゥ・バッハ』はどうだったでしょうか?鮮烈な一言半句はあったでしょうか?
ええ、ありましたとも。とても鮮烈な瞬間が。それは、ヴァイオリン協奏曲第2番の第1楽章、再現部直前の短いカデンツァ。トラック6の5分付近からのほんの15秒間、日下さんが伴奏なしでソロを弾くところです。
冒頭で提示された主題が何度か仕切り直して奏でられるうちに短調に転じ、独奏ヴァイオリンとオーケストラが対話をしながら音楽が緊張を高めていく。高い音へと向かう独奏ヴァイオリンに対抗するかのように、オーケストラがどんどん低い音へと向かい、ついには、もはや議論はここまでと決裂したかのような不安定な和音が鳴り響いてオーケストラは沈黙する。すると独奏ヴァイオリンだけが一人高いE(ミ)の音を一しきり伸ばしたあと、だんだん音の勢いを弱めながら少しずつ下降していく。ストレートにただ降りていく訳ではなく、時々、ふわっとちょっとだけ上昇してからまた下降していく。それが数回ディミヌエンドしながら繰り返されるうち、最後は消え入るように沈黙へと沈み込んでいく。そして、暫しの休止の後、突如、冒頭のホ長調の和音が回帰する。
言葉にしてしまえば、ただそれだけの場面なのですが、ここでの日下さんの演奏こそが、私にとっての「鮮烈な一言半句」だったのです。いや、日下さんがここで何か突出して特別なことをやっている訳ではありません。シェリングやクレーメル、ハーンらがやっているように通奏低音を付加することもなく(楽譜には選択自由としてカッコ付きで書かれている)、装飾音もごく控えめに付加されているだけです。それでも、私にとっては、決定的ともいえる15秒でした。
このカデンツァに至るまでは、アルバム冒頭の「シャコンヌ」から、ソナタ、協奏曲と、古今の様々な演奏スタイルを十分に咀嚼した上で、「自分はこれでいく」という日下さんの強靭な意志が貫かれた音楽として私の耳と心に届いていました。そして、彼女は、決して迷わない、決してブレない音楽家であり、どんな問題に対しても、多数の選択肢の中から的確な解決策を、瞬時に、迷わず選択できる人というイメージを抱き始めていました。
そもそも、バッハの音楽は、強弱やテンポの指示が楽譜に最小限のことしか書かれていないので、そこから何を掴み取り、どのように表現するかは、演奏する側の裁量に任される。楽器や奏法から、弓使いや音程の取り方、テンポ、装飾音、強弱に至るまで、たくさんの選択をして弾かなければならない。楽譜を研究する時も、実施に演奏をする時も、常に何らかの選択を迫られる。
日下さんは、古楽奏法を意識してヴィブラートを抑えめにし、一瞬の弛緩も見せずに早いテンポできびきびと音楽を前へ進めていく。一方で、みずみずしい音色を駆使して、のびやかで、仄かなロマンを帯びた歌も聴かせてくれている。ソリストとして、オケのコンサートマスターとして蓄積してきた様々な技術や知識の中から、時として相反するような要素が共存するリスクを冒してでも、常に自分が最善と信じるものを選び取った結果、生み出された演奏と言えるのでしょう。
そんな日下さんがディスクに残した「音の足あと」は、まっすぐで、美しい。その方向、歩幅、深さ、すべてにおいて無駄がない。足あとの向かう先には、間違いなくバッハの音楽の真実がある。だからこそ、この演奏は素晴らしいと感じていました。
そこに15秒のカデンツァが現れたのです。
どうしてその部分が鮮烈だったかを音楽的な言葉で説明するのはとても難しくて、曖昧な言葉でぼんやりと表現してお茶を濁すしかないのですが、沈黙の中に溶解しようとするな儚げな音の運びから、「自分が今まで進んできた道は、間違いじゃなかっただろうか?」「もっと他の選択肢をとった方が良かったのではないだろうか?」「自分はこのまま同じように歩き続けて良いのだろうか?」そんな言葉のどれもがぴったり当てはまってしまいそうな不安げな心の「ゆらぎ」が込められているように聴こえたからです。そして、その「ゆらぎ」から、人間の心の弱さに根ざしたような、自らに対する懐疑的な問いかけが聴こえてきたような気がしたからです。
これは一体何なんだと、慌てて協奏曲のカデンツァの楽譜を見てみました。すると、ヴァイオリンの楽譜には、いわゆる「十字架音型」がいくつも隠されています。しかも、Xという記号(ダブルシャープ)も頻出していることに気づきました。
同じバッハの「マタイ受難曲」の「ペテロの否認」の場面を思い出さずにはいられませんでした。ユダの裏切りによってイエスが逮捕された後、逃げていた弟子の一人ペテロはイエスの裁判をこっそり見に行った。すると、ペテロは村人たちに見つかり、「お前はイエスと一緒にいただろう」と3回尋ねられるが、彼は3回とも「知らない」と答えてしまった。そして、3回目に「知らない」と答えたその時、鶏が鳴いた。ペテロは、「お前は鶏が鳴く前に私を3回否認するだろう」というイエスの予言を思い出し、師を裏切ったことを悔いて外に出て激しく泣いた。エヴァンゲリストは、慟哭するペテロの姿を淡々と短い言葉で、しかし万感の想いを込めて歌います。そして、暫しの休止の後、ソロ・ヴァイオリンの哀しみに満ちた旋律に導かれ、アルト(カウンターテナー)が歌う痛切なアリア「憐れんで下さい」が始まる。そのまさにブリッジとなる場面。
私が彼女の演奏するカデンツァから「ゆらぎ」を聴き取ったのは、「マタイ」の「ペテロの否認」に込められた深い深い痛みの感情と、日下さんの弾く協奏曲のカデンツァが呼び起こす、懐疑まじりの不安な感情とが、どこか深いところで共鳴しているように思えたからです。
たとえ日下さんが「どんな状況でも常に合理的な選択ができる人」だと言っても、やはり人間なのですから、時には自分の選択に対して自省や後悔の念を抱くことだってあるかもしれない。決然とした足どりを止めてでも、一度後ろを振り返って、「これでいいのか」「もっと他の方法はなかったのか」「誰かを傷つけたのではないか」と考えこみ、時には涙してしまうことだってあるかもしれない。そんな時に抱く感情、ああ、このまま消えてしまいたいと口をついて出てしまうような痛みが、日下さんの弾くカデンツァの美しいディミヌエンドの中に込められているように感じたのです。人間の心の弱さを知り、その弱さゆえに感じる痛みを知っている人からしか生まれてこないような音楽。日本語としては間違っているのですが、「痛切なあたたかさ」とでもいうようなものを感じました。勿論、それこそがバッハの音楽だと言えばそれまでですが、でも、すべての演奏家が彼女のように「鮮烈な一言半句」を聴かせてくれる訳ではありません。余りに私の心に響いてくる音楽だったので、日下さんがまるで私一人のために奏でてくれている音楽のように錯覚してしまいました。
すると、一瞬の静寂の後に、協奏曲の輝かしいホ長調のトゥッティが戻ってくる。カデンツァでの一瞬の逡巡を経て踏み出す一歩は、なおさら力強く、決然とした意志を感じさせる強い足取りになっています。してみると、あのカデンツァは、「いろいろあるけど、それでも生きていくのだ」という「それでも」を導き出す音楽だったとのかという気がしてきます。ならば、自分の来し方に思いを馳せ、「これで良かったのか」と自らに問いかけて、時に思い悩むこと(ペテロのようにとまでは言いませんが)は、決して無駄なことではないような気がして心がほんの少し軽くなる。体の凝りがほぐれるような穏やかな心持ちになる。
効能がもう一つ。このカデンツァの「鮮烈な一言半句」に出会ってからアルバム全体を改めて聴き直すと、そのたびにより親しみと共感をもって接することができるようになりました。初めてアルバムを通して聴いた時、特にソナタで、拍節感を大事にしすぎる故か、あるいは、ついつい感興が高まってしまったか、少し踏み込みすぎて音がきついかなと思うような箇所もあると思いました。もっと楽しんで弾いてもいいのにと思うところもありました。でも、それも彼女の切実な選択の末に出てきたものだと思うと、何だか愛おしく思えたりもしてきて、聴き返すたびにだんだん気にならなくなってきた。また、改めて聴くたびに、「シャコンヌ」での凛とした立ち姿と、瑞々しい響きに心洗われ、ピアノ伴奏やオケ伴奏との対話を通じた自然な感情の高まりには、厳しさと愉悦感がないまぜになった豊かなものを感じて胸を躍らせるにつけ、この「リターン・トゥ・バッハ」は今や、私にとって、とても大切なディスクになってきました。
素晴らしい「新人」と出会えたことを喜びたいと思います。次作への期待をもたずにはいられないところですが、私の希望としては、バッハのジャンルを絞った曲集か、もしくは、彼女がデビュー作で演奏していたB.A.ツイマーマンのような、ちょっと尖ったものを聴かせてもらいたい。いや、それだけでなく、読売日響やベルリン・コンツェルトハウス管での活躍ぶりも音盤で楽しみたい。とにかく彼女とコロムビアの「本当に作りたいもの」を聴かせてほしいと切に願います。
兵庫県出身で、ドイツと日本のオケのコンマスを務めた人というと、お馴染みの都響の四方恭子さんを思い起こします(しかも同じ市の出身)。私も兵庫の出身であり、彼女らと同じ市で産湯を使った人間ですから、ついつい応援したくなりますが、そんなことを抜きにしても、彼女の思いのこもった選択から生まれる「鮮烈な一言半句」を、もっともっと聴きたいと心から願っています。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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