少し前のことですが、発泡酒のテレビCMで「リッチ」という言葉が使われていました。バブル崩壊後の長い不況とデフレ経済の時代を通して、リッチなんていう言葉は聞かなくなって久しく、ほとんど死語かと思っていたのでとても新鮮に響きました。デフレ時代の申し子のような発泡酒にもリッチを売りにした商品が出るということは、もしやこれは景気が上向いていることの表れなのかと、ほとんど実感はないながらも、ちょっと気持ちが浮き立ったりしました。
そんな「リッチ復権」ともいうべき気運にぴったりのディスクを聴きました。コロムビアからリリースされたイタリアの若手指揮者アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルの演奏するレスピーギの「ローマ三部作」。2013年5月31日にサントリーホールでおこなわれ、各方面から絶賛を浴びた定期演奏会でのライヴ録音です。
バッティストーニは1987年ヴェローナ生まれということですから録音当時26歳。現在、パルマ歌劇場の首席客演指揮者のポストにあり、イタリア、ドイツのオペラハウスでオペラ指揮者としての活動をメインにメキメキと頭角を表してきた人です。東京フィルには2012年の二期会「ナブッコ」公演のために初来日して客演し、すぐに意気投合したとのこと。この上演も弱冠24歳の天才指揮者登場と大変な話題になり、コロムビアとの契約へと結びついたそうです。イタリアで指揮したヴェルディのいくつかのオペラの映像はDVD化されていますが、音盤は正真正銘の「デビュー」となるようです。
冒頭の「ローマの祭り」からして心を奪われるのは、まず何よりも音の色彩の豊かさ。録音が超優秀(SACDハイブリッドです)なことも手伝って、オーケストラから本当に多彩な響きが次から次へと耳に飛び込んできます。全編、聴いていてハッと息を呑む瞬間があちこちにあって、これがライヴだなどとはまったく信じられません(多少の編集はおこなっているのでしょうが)。そもそも、これら3つの交響詩はオーケストラの音響の見本市みたいな作品ですから、そうなるのは当たり前と言えば当たり前なのですが、オーケストラの能力を誇示して聴き手をねじ伏せようというような風情は皆無で、厳しく吟味され絶妙に配合された色合いの響きをもって、レスピーギの音楽の持つ魅力を余すところなく聴き手に伝えようという真摯な意志が痛いほどに伝わってきます。
例えば、「ローマの噴水」の「黄昏のメディチ荘の噴水」や、「ローマの祭り」の「五十年祭」、「ローマの松」の「ジャニコロの松」を聴いてみれば、印象派風とも言える微妙な色合いや滑らかな手触りをもった、上質で繊細な響きのみずみずしさに誰もが耳をそばだてずにはいられないのではないでしょうか。大音響で鳴り響く豪華絢爛な場面にばかり注目が集まってしまい、ともすれば映画音楽的とか娯楽音楽と軽視してしまいがちな曲が、実はこんなにも繊細で美しい響きに彩られた音楽だったのかと初めて気づかされた思いがします。
もう一つ、私がバッティストーニと東フィルの演奏に大きな魅力を感じたのは、その弾力性のあるリズム。非常に精度の高い緻密なアンサンブルをベースにして、概ね早めのテンポで颯爽と駆け抜けるストレートな演奏なのですが、小節線を意識させないようなのびやかな歌を聴かせたり、ほとんどロックのような激しいタテノリを見せたりと、まさに変幻自在のリズムがいつも息づいているのです。そして、生き生きとしたリズムの反復や、異なったリズム同士の衝突によって、ごくごく自然な興奮や熱狂が生まれ、私はどんどんその渦中に引きずりこまれてしまう。
特に、「ローマの祭り」の切れ味よく展開する音の絵巻は圧巻。「チルチェンセス」での、コロッセウムで雄叫びを上げるライオン、怯える囚人、それを見てはやし立てる群衆の姿、あるいは「公現祭」での祭りに集う酔っ払いや物売りたちの声や、手回しオルガンの音、そうしたものをその場で見ているかのような臨場感が際立っています。後者の最後の猛烈なアッチェランドなど往年のトスカニーニやバーンスタインの演奏を上回るほどの激しさですが、決してどぎつくなったり、音が汚くなったり、上っ面だけ興奮を煽るような下品な音楽になっていないところが素晴らしい。そこに至るまでに目のつんだ緻密な表現をおこなっているからこそ、そして、常に洗練されたセンスを示すことのできる優秀なオーケストラあってこそ、初めて可能になった表現に違いありません。
同様に、「ローマの松」でも、古代ローマの人たちの祈りの歌や、軍隊の行進などが目に見えるかのようでしす。終曲の「アッピア街道の松」で、確固たる足取りをきっちりキープした上で、オーケストラと金管のバンダ(別働隊)が相互に響き合ってヴォルテージを上げていくさまをナマで体験したらさぞかし興奮したことでしょう。コンサート会場にいた幸運な聴衆に激しい嫉妬の念を抱かずにはいられません。
このようにレスピーギの音楽の魅力と、オーケストラを聴く多様な面白さ、醍醐味といったものを豊かに味わわせてくれる演奏は、それだけで十分にリッチなものであると言えますが、私自身はこの演奏を通して得ることができた体験こそがリッチだと感じています。音響的・音楽的にリッチな演奏というのなら、方向性は違ったとしても、「ローマ三部作」には、あのトスカニーニの名盤以来、大指揮者と名門オーケストラの手になる名盤がたくさんありますから、それだけなら恐らく私はこの演奏を聴いてここまで心を動かされなかったと思います。
では、私は、自分の体験の何をリッチだと思ったか。
バッティストーニと東フィルのレスピーギを聴いていると、テレビや映画、写真などで見た(実際には行ったことがないので)ローマの遺跡や街の風景を思い浮かべるだけでなく、そこに「人間」の存在を強く感じます。その人間とは、ローマの街を闊歩する現代のイタリア人かもしれないし、遺跡のある場所にかつて生きていた古代ローマ人かもしれない。あるいは、作曲者や演奏者かもしれないし、聴き手である私たち自身なのかもしれない。とにかく色彩豊かな響きと生き生きとしたリズムをもった音楽から、私は人間の声、言葉、動きといった営みを感じずにはいられないのです。3つの交響詩をまとめて呼ぶとしたら、「ローマ三部作」なんていう味気ないものではなく、「ローマの人々」とか「ドラマ人間模様・ローマ」みたいな(それでも全然面白くないですが)タイトルをつけたくなります。
そんな楽しげな音を目の前にして、私は椅子に座ってただ一方的に音楽を受け取っているだけではいられません。自分がその音の中へ飛び込んでいき、Googleマップのストリートビューのようにローマの街の風景を自分の目線で見て、テレビ番組の「世界ふれ合い街歩き」のように直接人々と触れ合い、自分の目で遺跡を見て古代ローマの歴史に思いを馳せる、というような妄想に浸ってしまいます。旅行ガイドや本で見た写真を確認するだけのような受け身の旅行でははなく、自分で街を体験するような今風の旅行を擬似体験として得るのです。すると、聴き終った後に残る感想は、さしずめ、ローマの風景や行事をバックに、現地で知り合った人たちと一緒にカメラで「自分撮り(セルフィー)」したような思い出の写真のようなものと言えるでしょうか。
というように、バッティストーニと東フィルの演奏から受けたリアルな感覚が、私にはとても新しくて、面白くて、あたたかくて、そしてリッチな体験だったのです。
リッチというのは、必ずしも高価であるとか(2940円のディスクは決して安いとは言えませんが)、有名なブランドものだとかいうことを指すのではありません。私にとってこれまで得たことのないような、心が湧き立つような体験であること、そして聴いたことによって自分の世界が広がったような気持ちになれることです。発泡酒でそんなリッチな体験ができるかどうかは分かりませんが、バッティストーニのレスピーギからは間違いなくリッチな体験を得ることができました。その体験は勿論、私が音楽の作り手から与えられたものであるのは言うまでもありませんが、しかし、それ以上に、私自身が能動的、主体的に音楽の中に入り込むことによって得られたものだと思っています。
思うのですが、私が対価を払っているのは、ただ聴いた音楽の質の高さに対してだけではなく、得られた自分の体験の豊かさ、リッチさに対してなのではないでしょうか。逆に言うと、その体験が自分にとって真実のものであり、何よりリッチなものであったと感じたのなら、それがたとえキズのある演奏だったり、世評が必ずしも高いものとは言えなかったり、あるいは残念な物語の付随してしまった音楽であったりしても、何も自分を卑下したり否定する必要はない。であるならば、自分自身の感性を少しでも豊かなものにしていけば、音楽から得られる体験はもっとリッチなものになるのでしょう。いい音楽をもっと多く聴き、その中に積極的に入り込んで豊かな体験を得て、自分自身の中身を少しでもリッチなものにしていきたいと願わずにはいられません。
そして、リッチなものを追求する心こそが、美を生み、育んできたはずですから、音楽の作り手も、我々聴き手も、リッチという言葉の真の意味を問い直した上で、貪欲にリッチなものを求めていけば良いのではないでしょうか。バッティストーニと東フィルのレスピーギの音盤は、そんな「リッチの復権」、いや「リッチの逆襲」というムーブメントの急先鋒として、聴き手のリッチなものを聴きたいという願いを十全に叶えてくれる名盤として広く受け容れられるだろうと私は思っています。もし私が聴いた10枚ちょっとの同曲異演の音盤だけで歴史を語って良いのなら、これは歴史的名盤と呼んでも良いのではないかとさえ考えているくらいです。
今後、バッティストーニとコロムビアは継続的な共同作業をおこなっていくようです。1月に東京フィルに再登場した折に演奏したマーラーの交響曲第1番はライヴ録音済みで、この春にはオペラの管弦楽曲集の録音が予定されているとのこと。そのうち彼の指揮するオペラが映像や音盤として聴けるのも夢ではないかもしれません。
私の希望では、是非彼の指揮する「ラ・ボエーム」を体験してみたい。「ローマ三部作」で聴かせてくれたガラス細工のようにデリケートな表現に触れていると、オペラの第3幕、雪がしんしんと降る中、ロドルフォとミミが別れを決意するあの場面が、どんなに切なくて哀しいドラマになるのか聴いてみたくなったのです。かつてカルロス・クライバーが聴かせてくれたのとはまた違う角度から、このオペラの核心に触れることができるのではないかと期待が膨らみます。その他では、彼はロシア物が好きとのこと、オペラならムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」あたり、管弦楽ならR=コルサコフの「シェラザード」とか、ムソルグスキーの「展覧会の絵」(ラヴェル編)、チャイコフスキーの交響曲やバレエ音楽なんかも聴いてみたい。きっと濃密で生き生きとした「人間の営み」を感じさせる演奏を聴かせてくれるはずです。
いずれにせよ、これから彼の指揮する音楽から、どんどんリッチな体験を得られることを心から期待しています。
-
粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
音盤中毒患者のディスク案内 インデックスへ