音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.43

クラシックメールマガジン 2017年2月付

~静寂の音 ~ ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番、パガニーニ狂詩曲 反田恭平(p)/アンドレア・バッティストーニ指揮RAI国立響、東京フィル~

反田恭平とバッティストーニが共演したラフマニノフ・アルバムを聴いて、ピアノもオーケストラも音を出さない「間(ま)」が一番印象に残ったと言ったら、音楽家に失礼だと叱られるでしょうか?あるいは、何を聴いているのかと笑われるでしょうか?
その「間」とは、「パガニーニの主題による狂詩曲」の第18変奏の終盤、トラック23の2分35秒付近からの休止を指します。
パガニーニの「24のカプリース」第24番の主題を転回させてできた有名な旋律を、ピアノとオーケストラが朗々と歌い上げる。甘美なロマンをまとった高揚は、ヴァイオリンからチェロへと引き継がれる下降音型とともに、潮が引いていくように鎮められていく。オーケストラの音がやみ、ピアノが、上昇する短いモチーフを2回、ためらいがちに奏でると、ついにすべてが沈黙する。時が止まったかのような静寂が続いたのち、変奏の結びのパッセージが、ひそやかに、そして名残惜しげにピアノから流れだす。
実測で約6秒の「間」は、楽譜上では、フェルマータもなく、ただ四分休符が二つ並んだ「二拍の休み」でしかありません。しかし、反田は、この部分を、たっぷりと間合いをとって、それまでのテンポからすれば、楽譜の倍以上の時間、「休んで」います。
他の演奏からは、ついぞ聴いたことのない想定外の「間」ですが、そこには、効果だけを狙った芝居っ気も、とってつけたような不自然さもありません。あと数ミリ秒長くても短くてもいけないというほどに絶妙の長さで、ここは絶対にこうでなくてはならないという必然に貫かれた「間」なのです。
不思議なことに、6秒の間、一つも音が鳴っていないはずなのに、演奏家の、そして作曲家の万感がこめられた「音」が聴こえてくる気がします。私は「静寂」の中に「音楽」を聴いているのか、それとも、「音楽」の中に「静寂」を見出しているのか。そんな思惟を喚起する6秒間の「静寂の音」に、私は深い感銘を受けました。
もちろん、「音のある」ところでも、印象的な場面には事欠きません。
例えば、ピアノ協奏曲第2番、第2楽章の冒頭。弱音器をつけた弦楽合奏の前奏が始まってすぐ、ファゴットがそこに加わり、下降していく3つの音(シ♭-ラ♭-ソ♭)を吹くのですが、この演奏では、スコアに記されたピアニッシモの指示よりはるかに強く、克明に聴こえてきます。 今までに接したことのない新鮮な響きなので、最初聴いたときには、その意図をはかりかねたのですが、聴き進めていくうち、第3楽章で、この音型が何度か形を変えて登場することに気づきました。
あの有名な第2主題をピアノが弾くとき、1回目は同じファゴットで、2回目はクラリネットで、そして、3回目、大詰めでピアノとオーケストラが朗々と歌い上げるときには、クラリネット、ファゴット、ホルンで高らかに。また、第3楽章コーダに突入する直前でも、管楽器がこの3つの下降音型をフォルティッシモで吹きます。
第2楽章の沈潜を導き出したファゴットの下降音型が、第3楽章の第2主題が繰り返されるたび希望に満ちた響きを獲得し、最後に至って、確信に満ちた歌の中で晴れやかに解放される。傷ついた魂の救済などと呟いてしまいそうな、切実な音のドラマを感じずにはいられません。
バッティストーニは、第2楽章冒頭のファゴットの下降音型を、音楽全体を貫く一種のライトモティーフ的性格をもったものとして捉え、聴き手に伏線として明確に感じとらせようとしたのでしょうか。いずれにせよ、聴き慣れたはずのこの曲の新たな一面を垣間見た気がして、私は大きな喜びをもって聴きました。
それだけでなく、今をときめく若手音楽家たちは、目の覚めるような鮮やかな演奏を繰り広げています。
反田のピアノは、切っ先鋭いタッチでピアノを豪快に鳴らし切り、音楽の核心へとひたすら斬り込んでいく。ディミヌエンドしながら高い音へと向かうカンタービレでのガラス細工のような繊細さ、ため息のような呼吸を生むルバートの切なさ、楽想に応じて猫の目のように変化する多彩な音色といったところも忘れがたい。 一方、バッティストーニは、2つの性格の異なるオーケストラから、熱いカンタービレと、ゴージャスな響きを引き出し、ソリストを盛り立てながら、スケールの大きなロマンの世界を堂々と謳いあげている。
全体に、彼らの演奏には、昨年大ブームを巻き起こした伊藤若沖の絵のごとく、音楽の背後にある文脈と切り離しても、その魅力を即座に感じられるような華があるのは間違いありません。
しかし、そうした音楽の外に放射される強烈な魅力は十分認識しつつも、私は、彼らの演奏の内側で響いている「静寂の音」に強く惹かれています。
耳をすまして「静寂の音」を聴くとき、私たちはきっと「立ち止まって」います。外界の音であるにせよ、自己の内面の声であるにせよ、その音は、歩みを止め、心の動きを止めなければ、ほんとうには聴くことはできないからです。
一口に「立ち止まる」と言っても、自らの意志でそうするばかりではありません。突然我が身にふりかかったことの重大さ、深刻さに言葉を失い、なす術もなく、ただ立ちずさむしかない、という場合もあります。
ピアノ協奏曲第2番を作曲した当時のラフマニノフが、まさにそうでした。1897年5月の交響曲第1番の初演の大失敗にひどく傷ついた彼は、作曲家としての自信を失い、3年にわたって、大きな曲を書くことができませんでした。一度は筆を折ることさえ覚悟した彼は、1900年、催眠療法士ダーリの治療を受けて自信を回復しますが、その復活の過程で書かれたのがこの協奏曲なのでした。
つまり、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番とは、美しいメロディーや、華麗なオーケストレーションに彩られたロマンティックな音楽であると同時に、過酷な現実を前に立ち止まることを余儀なくされた人が、深い苦悩を克服し、再び歩き始めたときに書いた音楽でもあるのです。
そのことは、この協奏曲の、哀しみをたたえたメランコリックな旋律、弱音を主体にした繊細な音の動き、心の揺れを感じさせるような和声の微妙な移ろいなどに如実に現れています。
傷を負ってうずくまり、周囲から自己を遠ざけ、孤絶した「静寂」の中で夢想の世界へと逃避する。自分自身に落伍者、敗北者の烙印を押し、もう二度と元には戻れないのではないかという不安に喘ぎながら、いつか暗闇の中に一条の光を見出せる日を祈るような気持ちで待ち続ける。そんな弱々しい心のありようを映し出したような音楽。
その視点に立ってアルバムを聴き直してみると、協奏曲に限らず、この音盤に収められたあらゆる音から、立ち止まらざるを得なかった人からしか生まれない、実感のこもった「静寂の音」が聴こえてくるような気がしてきます。これまで聴いてきたどの演奏よりも、はっきりと。
どうしてそんな音楽が生まれてきたのかと考えてみると、反田とバッティストーニが、ラフマニノフの音楽が本質的に抱えている「静寂」に真正面から向き合っていて、同時に、それを自分のものとして感じて音楽として表現しようとするとき、彼ら自身もまた「立ち止まっている」からではないかと思います。 静寂の中に身を置き、立ち止まって、五感を研ぎ澄ます。そして、音楽の内部にあるさまざまなもの、情緒であったり、音楽自体のもつ構造的な美であったり、そうしたあらゆるものを味わい尽くし、作曲家が音に託した深い思いや、美への飽くなき追求に、ほんとうに出会う。
そんな孤独で困難なプロセスを、労を厭わず、誠実に実行して生まれた音楽だからこそ、立ち止まることを余儀なくされ、苦難を乗り越えようとする人の心のありようが、共感のこもった、あたたかな「静寂の音」として聴き手にはっきりと伝わる。
私自身、自らの意志に反して、しばらく立ち止まらざるを得なかった経験があるので、余計にそうなのかもしれませんが、彼らの演奏から感じられるあたたかさは心に沁みます。音楽の脈動を全身で受け止め、聴き終わったときに得られるカタルシスにも、とても大きなものがある。だからこそ、私は、彼らの紡ぎだす「静寂の音」に、この上もない魅力を感じているのです。
そんなふうに私の心をとらえてやまない「静寂の音」には、演奏者たちには姿の見えないはずの、一人一人の聴き手への共感さえもが、込められているように思えてなりません。いや、現実にはそんなことはあり得ないのですが、そう思わずにはいられないほどに、彼らの演奏には、私という存在と、ちっぽけな妄想を包摂してくれるだけの懐の深さ、大きさがあるように感じるのです。
そう考えると、彼らの作り出す音楽から感じられるあたたかさとは、実は、聴き手をあたたかく迎え入れ、音楽の中に、たしかな居場所を提供してくれる「優しさ」のことなのかもしれないと思います。
反田恭平は、インタビューで「将来どんなピアニストになりたいか」と聞かれると、いつも「優しいピアニスト」と答えていますが、このラフマニノフを聴く限り、彼は既に十分「優しいピアニスト」になっていると私は思います。これからは「もっと優しいピアニスト」になって、多くの聴き手を柔らかく包み込み、幸せにしてくれるのでしょう。
バッティストーニにも同じことが言えます。彼の音楽も、やはり「優しい」。レスピーギの「ローマの泉」やマーラーの「巨人」、あるいはプッチーニの「トゥーランドット」で聴かせてくれた、繊細で、心にしみじみと沁みてくるような音楽を思い起こせば良い。彼もまた、反田同様に「優しい指揮者」なのであって、今後、「もっと優しい指揮者」となって、私たちを楽しませてくれるに違いありません。
私は、この優しい人たちの作り出す、あたたかな「静寂の音」を、ずっと聴き続けていきたいと思います。そして、彼らが、ただ前を向いてまっすぐ突き進むばかりでなく、時には立ち止まって、耳をすまし、目を凝らして、何かを得て、それを、音楽を通して私たちと共有してくれることを心から願っています。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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