音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.70

クラシックメールマガジン 2019年5月付

~祝賀の音楽 ~ 雅楽、第9、ジョン・レノン~

あけましておめでとうございます。
そんな言葉さえ飛び交う祝賀ムードの中、元号が変わりました。何がどうめでたいのか私にはきちんと説明できないのですが、前回とは違って上皇陛下もお元気ですし、カレンダー上は10連休でしたから、とにかくめでたい。
コロムビアからは、タイムリーにも「祝賀の雅楽」(COCJ-40784)と題するアルバムが発売されました。2001年に発売されたものに新規曲目解説と英文を追加した再発盤ですが、ディスクのフィルム包装には、ご丁寧にも「祝!令和」と書かれたシールが貼付されています。いや、仕事が早い。
アルバムの音楽監修は、文化勲章の受賞者で、フィギュアスケートの羽生結弦選手が使用した楽曲の作曲者、演奏者としても知られる笛奏者の芝祐靖。彼が音楽監督を務める伶楽舎の演奏で、「越天楽」「萬歳楽」「合歓塩」「長慶子」など、天皇即位など慶事に取り上げられる舞楽、管絃の名曲が計14トラック収められています。
完全なる雅楽初心者の私は、笙、篳篥、龍笛など雅楽特有の楽器の音色と、それらが緩く同期して微妙な音程で重なりながら、響きがまっすぐ立ち上がっていくさまを面白がって聴いています。
そして、こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、日本古来の音楽という以上に、ワールドミュージックとしてアジアの音楽を聴くような感覚で楽しんでいます。大陸文化の影響を強く受けた音楽なので、さほど間違った感じ方でもないと思っているのですが。
雅楽に馴染みの深い読者諸氏も多いことかと思いますが、私のようにこれから雅楽を聴いてみようという方は、この機会に是非「祝賀の雅楽」を。
さて、西洋クラシック音楽の分野での「祝賀の音楽」と言えば、ベートーヴェンの交響曲第9番でしょう。各種の記念演奏会や柿落としから、独裁者の誕生祝賀会に至るまで、「第9」ほどに祝典の場で多く演奏された曲が、他にどれくらいあるでしょうか。
今からちょうど30年前、そう、平成元年となった1989年にも、ベルリンの壁の崩壊と、それに伴う東欧諸国の民主化成功を祝って、超一流の音楽家たちがこぞって「第9」を取り上げました。
その頂点に立つのは、言うまでもなく、レナード・バーンスタインが東西ベルリンでクリスマスに開いた演奏会でしょう。
バーンスタインは、東西ドイツと第二次世界大戦終結時の連合国(ソ連、イギリス、アメリカ、フランス)の音楽家を招集し、渾身の力を振り絞って自由の喜びを歌い上げました。第4楽章でシラーの歌詞の “Fruede(歓喜)” を ”Freiheit(自由)” に替えて歌わせたことでも広く知られ、その歴史的な演奏会の記録は今なお聴き継がれています。
コロムビアからも、1989年12月におこなわれた記念碑的な演奏会での「第9」のライヴCDが二点リリースされていました。
その一つめは、1989年12月14日、「ビロード革命」成就を祝って、ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルがプラハのスメタナ・ホールでおこなった演奏会のライヴ録音(Supraphon原盤COCO-6580 , 1990.9.21発売)。
もう一つは、ノイマンの演奏から約2週間後の12月30日から年明け1月1日にかけ、ウィーン・コンツェルトハウスにて開かれたウィーン交響楽団の年末恒例「第9」演奏会のライヴ録音で、指揮者はエリアフ・インバル(COCO-6646 , 1990.10.21発売)。
当時は、まさに激動の日々の真っ只中でした。
1989年11月9日のベルリンの壁崩壊を受け、チェコスロヴァキアでも、11月17日から連日、民主化を要求する大規模なデモとストライキがたびたびおこなわれました。ヴァーツラフ・ハヴェルをリーダーとする市民フォーラムが主導する民主化運動は、またたく間に国内全土に広がります。弱体化した政府はもはや持ちこたえられず、12月10日、グスタフ・フサーク大統領が辞任し、41年続いた共産政権が事実上倒れました。ノイマンとチェコ・フィルの演奏会は、このときに開かれたものです。
ポーランド、ハンガリー、ブルガリアから続いて、東ドイツ、チェコスロヴァキアと、ソ連支配下にあった国家が相次いで崩壊したところで、今度はルーマニアでも民主化デモが起きました。革命勢力と政府軍の激しい衝突の末、12月25日には長年独裁者として君臨したチャウシェスク大統領が処刑され、新政府が樹立されたのでした。
当時私は大学生でしたが、東ドイツ政府の一つの言葉をきっかけとして、たった1ヶ月余りの間に、ドミノ倒しの如く次々と民主化が進んでいく東欧諸国関連のニュースを、半ば呆然と、興奮しながら見ていたのを今もはっきりと覚えています。
ノイマンとインバルの「第9」コンサートは、そんな劇的な状況の中で開かれました。
しかし、どちらも「お祭り騒ぎ」とは無縁の知的な誠実さをたたえた演奏であり、優れた指揮者とオーケストラの個性が存分に発揮されたユニークなものになっています。
ノイマンとチェコ・フィルによる演奏は、弦楽器主体のウェットで柔らかい響きを基調に、穏やかな語りくちで進んでいきますが、アーティキュレーションは折り目正しく楷書的で、コツンとあたる硬質な音が芯にある。そこがいかにも彼ららしい。
しかも、頂点に達する前に、僅かなタメを作ってからエネルギーを一気に放出させたり、ここぞという局面でティンパニや金管を思い切って強奏させたりしつつ、それでもなおかつ自然さを失わない技はまさに巨匠芸と言えます。
一方、インバル指揮ウィーン響の演奏は、颯爽たるテンポをキープしたスマートな外観をもっていますが、指揮者の音楽的指向が細部にまで克明に刻み込まれています。
引き締まった造型の内側で異質な対立要素の緊張関係を明らかにし、それらを強い意志をもって白熱のうちに統合していく。そうしたシリアスな音楽作りは、彼のマーラーやブルックナーの演奏と変わらない。明晰なアーティキュレーションを追求し、響きへの鋭敏なバランス感覚を武器にして、解像度の高いテクスチュアを常に保ってもいるのも彼らしい。
どちらの音盤も、背景を度外視して単純に「第9」の演奏の一つとして聴いても、それぞれのかけがえのない個性を楽しめるだろうと思います。特に、安易な文学的表現に逃げず、スピードと量感にも頼り切ることなく、常に明晰な表現を目指す高い倫理観に、私は胸を打たれるでしょう。
しかし、これらがいつ、どこで、どういう文脈で演奏されたかを完全に無視して聴くのは、むしろ不健康なことかもしれません。「物語」に過剰に引っ張られて音楽を聴くのは危険ですが、胸を打つ演奏に触れたとき、演奏家がどのようにその音楽と対峙し、音の向こう側に何を見ようとしていたのかを知りたい、感じたいと思うのが人情というもの。
指揮者たちが残した言葉に耳を傾け、想像を巡らせたいと思います。
市民フォーラム、いや、チェコ国民の「勝利宣言」として「第9」を取り上げることについて、ノイマンはこのように述べています。
今ここで必要なのは、一国家を越えた普遍的な連帯の心を、すべての人々に伝える音楽ではないか、それにふさわしいのはベートーヴェンであり、『第九』こそうってつけだろうと私たちは考えました。あの深遠な音調と歓びに満ち溢れた讃歌は、まさに世界が大きく一つに包み込まれた姿、人類全体が結ばれ合った姿を歌い上げるのに、ぴったりの曲です。
(略)
お聴き下さい。響き渡るベートーヴェンの音楽は、私たちの喜びが、もう二度と失われるものではないことを高らかに宣言しているではありませんか。
(同一演奏のDVD ブックレットより)
そして、インバル盤のライナーノートに記された、彼自身による長文コメントと、山崎睦氏のレポートには、指揮者のこんな言葉が記されています。
第9交響曲からは、人物とか性格は思い浮かばない。そこで思い浮かぶのはむしろ、民族全体、人類といったものである。この音楽は冒頭から、期待と欲求を表現している。これは大衆的運動であり、その基調となっているのは、旧時代の終焉と救済への胎動である。
(略)
脅威が完全に払拭されたわけではなく、つねに存在している。ちょうど今の時代のように。だから我々は決して有頂天になってしまってはいけない。
インバル「ベートーヴェンの第9交響曲レコーディングに際して」
どの時代にも克服しなければならない問題があるが、いま我々が共に体験している、偉大な瞬間、そのイデーの出現をベートーヴェンは彼の「第9」を通して我々に挑み続けているのではないか。時代精神を真摯に汲み取ることにより、彼の”自由”のイデーが時代に即して理解されるのである。
山崎睦「例年にない劇的高揚」
二人の指揮者たちは共に「人類」という言葉に言及しています。インバルは「自由」という重要なキーワードにも触れています。彼らの「熱くて醒めた」演奏から聴こえてくる音が、どこから来て、どこへ行くのか、そして、私たちに何を語りかけてくるか、CDを聴きながらじっくりと噛み締めるべきかもしれません。
あれから30年。ノイマンとインバルの「第9」の演奏のリアリティは、残念ながらいささか薄れてしまったように思えます。
あの頃、誰もが「冷戦は終わった!」と思いました。しかし、現実はそうではありませんでした。冷戦は、登場人物と姿かたちを変え、より苛烈な形で今も続いています。民族や宗教間の対立も一向に収まる気配がありません。
私たちのこれからの時代は、1989年のように喜ばしい「第9」の記録を残せるのだろうかと、不安になります。朝鮮半島や中東の平和、各地の内戦終結、独裁国家の終焉、核兵器の完全かつ不可逆な廃絶、差別や不平等の撤廃を祝う「第9」を、一体いつになったら聴けるのだろうかと。
しかし、それでも、生きていかなければなりません。絶望ばかりもしていられません。
インバル盤の「第9」のライナーノートには、こんな言葉もあります。
「すべての人間は同胞になる」は、一体ベートーヴェンはどう考えていたのだろう。本当にすべての人間のことを考えていたのだろうか。ジプシー(原文ママ)も黒人もアラブ人も、そしてユダヤ人のことも?我々が、この音楽を信頼する限り、そうだと信じることができる。
インバル「ベートーヴェンの第9交響曲レコーディングに際して」
今回、この文章を読みながらインバルの「第9」を久しぶりに聴き、ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」の歌詞を思い出しました。
ともかくハッピー・クリスマス
肌の黒い人たち 白い人たち
黄色い人たち 赤い人たち
さあ この辺で争いはやめようじゃないか
ジョン・レノン「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」山本安見訳
この曲も、確かにお祝いの音楽です。クリスマスと新年を喜びながら、平和を祝うことのできる日を夢見る音楽。ここに「イマジン」の「世界はひとつに結ばれる」という歌詞を引っ張り出してくれば、お花畑と笑われてしまうでしょうか。
でも、来年でジョンの死後40年を迎えるというのに、私たちはいまだに平和にチャンスを与えることもできていない。すべての人々が十分に力を得ることもできていない。国境や宗教、貧富の差など、人々を分け隔てる理由ばかりを探しているようにさえ思える。
私たちがジョンを夢想家だと笑う前に、お前ら今まで一体何をしていたんだ!と我々の方こそ彼に笑われるんじゃないかという気もします。もっとも、ジョンがいま、天国にいるのか地獄にいるのかはわかりませんが。
1989年12月に演奏された二つの「第9」も、ジョン・レノンの歌も、21世紀を生きる私たちにたくさんの宿題を置いていったように思います。
ここではジョン・レノンのアルバムをご紹介することはできませんが、コロムビアからは、林はるかのチェロ、林そよかのピアノのデュオ、アウラ・ヴェーリスによる「イマジン~チェロとピアノによるジョン・レノン・クラシックス」(COCQ-84989)という素敵な音盤が出ています。
当盤にはジョンの代表的なナンバーが収められていて、姉妹デュオの親密なアンサンブルと、林そよかのセンス溢れる編曲によって、ジョンの音楽にある愛に満ちたまなざしとどこかシャイな優しさに触れることができます。
無伴奏チェロが賛歌風に荘厳に奏でる「平和を我等に」、リズムの弾む「スタンド・バイ・ミー(言うまでもなくベン・E・キングのカバー曲)」もいいですが、しっとりとしたバラードが美しい。
「イマジン」「ラヴ」「オー・マイ・ラヴ」、少しセンチメンタルな味付けがなされた「スターティング・オーヴァー」。そして、優しい調べの「ハッピー・クリスマス」の最後、別れ際の突然のキスのような、ちょっとしたウィット。
歌詞も、ジョンの歌声もなしに、ただひたすら音だけで彼の音楽に触れていると、却って歌の内容がひたひたと迫ってくるようで胸を打ちます。この無言歌から再びジョンのオリジナルの歌に戻ると、聴き馴染んだはずの曲の新しい音の世界が広がる。それが楽しくて、私はこのアルバム、とても気に入って聴いています。
令和元年を迎えたからと言って、これまでのことをご破算にできる訳ではありません。過去の歴史に学びつつ、来るべき時代をとにかく生きのびていきたいものです。
そして、今年の「本当の」年末年始には、健やかに、いくらかでも希望を胸に「第9」や「ハッピー・クリスマス」が聴けますように。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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