誰もが知るクラシックの名曲と、日本人作曲家の作品を組み合わせてセッション録音するというコンセプトで始まった、アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルによる“Beyond The Standard”シリーズも第3弾に到達しました。
今回は、ベートーヴェンの交響曲第5番と、吉松隆のサイバーバード協奏曲という組み合わせ。後者ではサックスに上野耕平、ピアノに山中惇史、そしてパーカッションに石若駿という若い演奏家たちが参加し、2019年4月に東京オペラシティで録音されました。
バッティストーニと東京フィルの演奏するベートーヴェンの5番は、古楽アプローチに拘泥せず、モダンオーケストラの機能性とマッシヴな響きを駆使して、スピードと刺激に満ちたスリリングな表現を追求している点で、2010年代のスタンダードなベートーヴェン演奏の一つと言えます。両端楽章提示部の反復「あり」で演奏時間32分を切る快速テンポで駆け抜けるのも、珍しいことではありません。
しかし、だからと言って、平凡な演奏では決してあり得ない。
第1楽章冒頭で提示された例の4音からなるハ短調のモチーフが、様々な要素とぶつかり合い絶えず止揚を繰り返しながら、最後のハ長調の輝かしい主和音へと至る。その劇的なプロセスを、これほどまでに猛烈な推進力をもって描き切った快演は、そう頻繁に聴けるものではありません。そのマグマのように噴き上がる音楽のエネルギーに、私は引き込まれてしまいました。
しかも、ただ闇雲に突っ走るのではない。弾力性をもったリズムとしなやかで優しい歌を武器に、楽譜に込められたニュアンスを繊細に描き出してもいます。特に、第2楽章で聴くことのできる心に染み入るようなカンタービレの美しさは印象的です。
しかし、それ以上に個性的で印象に残るのは、両端楽章コーダのアッチェランドでしょう。一様にテンポを上げていくのではなく、全合奏による和音連打の部分に入って、ゲネラルパウゼ(全楽器が休み)の長さを詰め、突然テンポが上がったように聴かせているのが非常に珍しい。少なくとも私は、このような演奏を初めて聴きました。
具体的には、第4楽章コーダ直前の第333小節からの6小節間、プレストのコーダに入った後の第404小節から12小節間、そして第432小節からの最後までの三箇所。第1楽章のコーダの最後の3小節も同様です。
この休符を使った前代未聞のアッチェランドは、激情の迸りに任せた恣意的なものではありません。その前に、ちゃんと伏線が張られていて、狙いすましたかのように仕掛けられているからです。第1楽章では第346小節以降、段階的にアクセルを踏んでスピードを上げているし、第4楽章でもアレグロからピウ・アレグロを経て、プレストのコーダへとなだれ込むあたり、実に鮮やかなギアチェンジぶりを見せているのです。
これを最初に聴いたとき、何年か前に東京文化会館で観たバッティストーニ指揮のヴェルディの「リゴレット」と「トロヴァトーレ」の各幕のラストを思い出しました。彼は、いわゆるストレッタと呼ばれる大詰めの部分で突如テンポアップし、トゥッティの同音連打で音と音の間をどんどん詰めて、最後の一音に向けて猛然とダッシュしていたのでした。バッティストーニが容赦なく音楽を追い込み、灼熱の響きをオーケストラから引き出すのを目の当たりにして、聴き手である自分もドラマの渦中へと放り込まれたような強烈な感覚を味わったのでした。
そう考えると、バッティストーニにとってのこの交響曲とは、ヴェルディのオペラの先駆的楽曲という位置づけなのかもしれません。その推測が正しいとすれば、バッティストーニはベートーヴェンの音楽の堅牢な造型の背後に、人間臭いドラマの展開を見いだしているのでしょう。
動画サイトで見たBBCの“The Secret of The Fifth Symphony(2016)”という番組で、指揮者のサー・ジョン・エリオット・ガーディナーが語っていたことを思い出しました。
彼によれば、第1楽章冒頭のモチーフは、革命期のフランスで活躍したイタリア人作曲家ルイジ・ケルビーニの合唱曲「パンテオン讃歌」の一節の引用だそうです。実際、合唱が「タタタターン」というリズムに乗せ、「我々は剣を手に誓う。共和国と我らの権利のために命を捧げることを」とカノンのように歌っています。
また、第4楽章第48小節で低弦が提示し、続いてトロンボーンが高らかに吹奏するフレーズは、「ラ・マルセイエーズ」の作曲者ルージェ・ド・リールが書いた”Hymne Dithyrambique“ という革命歌の引用であり、該当箇所には “La Liberte”、つまり「自由」という言葉が当てられているとも述べています。
ドキュメンタリーでは、別の学者が、若き日のベートーヴェンが書いた政治的歌曲「自由な男 Der Freie Mann」を挙げ、この旋律と第2楽章の冒頭の音型との類似性と、第4楽章がこの歌曲と同じハ長調で書かれていることの意味合いを指摘しています。
これらの考察を根拠として、ガーディナーはこの交響曲の背後にはフランス革命の思想「自由、平等、友愛(和訳は在日フランス大使館のものに拠る)」へのベートーヴェンの共感、特に「自由」への願いが隠されていると主張しています。
大家の言葉だからとそれを鵜呑みにし、音楽に安易に物語を見いだす聴き方は危険かもしれません。しかし、ベートーヴェンが「フィデリオ」、荘厳ミサ、そして第9といった大作で明確に、そして感動的に表現したものを思い起こすとき、彼の主張には強い説得力があります。
まったくの想像なのですが、バッティストーニもベートーヴェンの音楽の背後にフランス革命的な思想を読み取り、それをリアルな音のドラマとして表現することを目指したのではないかと思うのです。しかも、「最近の研究の成果」がそうだからと表面的になぞるのではなく、彼自身がその思想に共鳴して演奏に臨んでいるに違いない。だからこそ、後年のヴェルディのオペラを彷彿とさせるホットな演奏が生まれたのだろうと思えてなりません。例のアッチェランドは評価が割れるかもしれませんが、私はこのベートーヴェンには強い魅力を感じています。
続いては、吉松隆の「サイバーバード協奏曲」。1994年にサックス奏者、須川展也によって初演されて以来、何度も演奏されてきた人気曲、名曲です。
外見は、急-緩-急の三楽章からなる古典的な協奏曲。サックスの独奏を軸にしたピアノ、パーカッションのトリオ、そしてオーケストラが絡み合いながら、クラシック、ジャズやフュージョン、ロック、ポップス、エスノなど雑多な音楽の要素を次々と投入して頑強な枠組みに揺さぶりをかけます。
その一方で、吉松が大きな影響を受けた北欧の作曲家(特にシベリウス)の作品を思わせる、ひんやりとした透明な響きが時折聴こえてくるのがとても印象的。第2楽章の、涙の滴がぽとりと心の中に落ち、水面に波紋を広げていくのをそのまま音にしたような孤独の響きも強く胸を打ちます。
この曲については、作曲家自身が曲にまつわる「物語」を文章にしています。作曲中に妹さんをガンで亡くしたことを明らかにし、サイバーバードとは「生命維持装置と人工呼吸器に囲まれて最後まで自由な空を飛翔する鳥を夢見た、そんな妹と私との見果てぬ夢」だと書いている。
音楽の聴き方に唯一の正解などありませんが、吉松の言葉に沿って、彼の内側で湧き起っていたであろう思考や感情の動きに思いを馳せながら「サイバーバード」を聴くのも悪くない。いや、むしろ音楽がすとんと腑に落ちます。
当盤での若い演奏者たちは、そうした音楽の物語性を強調して演奏している訳ではありません。むしろかなり早いテンポをとってエッジの効いたリズムを軽やかに弾ませ、透き通った音色と洗練された歌いくちが心地良い、クールでスマートな演奏を繰り広げています。でも、音楽とのちょっと醒めた距離感ゆえに、聴き手はむしろ自由にイメージを広げながら音楽を聴くことができるのです。
上野耕平のサックスがとびきりの快演を聴かせてくれています。音色、表現ともに非常に純度が高いのですが、味気無さをまったく感じさせません。細部の陰翳をきめ細かくとらえ、随所で繊細な表現を聴かせくれているからです。いじらしいまでに優しいカンタービレも心に残る。そして、自らを前面に押し出すのではなく、他の音楽家たちと対等な立場で一つの音楽を作り上げようとする意図が、音の振る舞いから感じとれるのも清々しい。これこそ、私たちの時代に必要なリーダーの姿そのものです。
山中のピアノ、石若のドラムは、自由闊達に振る舞い、素晴らしいプレイを聴かせてくれています。しかし、二人ともクラシックをベースとした人たちだからか、音楽の堅牢な建てつけの美しさを感じさせてくれるのが素晴らしい。
バッティストーニと東京フィルは、トリオが作り上げるホットな場を、美しく、そして生き生きと盛り立てています。第3楽章の息つく暇もない高揚には胸躍りますし、痛いほどに透徹した第2楽章の響きは聴後に深い余韻を残します。
若い世代の音楽家たちの新鮮な感性と卓越した技術によって奏でられた「サイバーバード協奏曲」は、20世紀末の日本で書かれた音楽でありながら、2010年代のグローバルな世界を生きる私たちの姿を写したポートレートになってもいます。
アルバム前半のベートーヴェンの交響曲第5番に立ち返れば、それはガーディナーが言うように社会の抑圧からの人間の解放という、全人類を相手にした「大きな物語」を志向した音楽でした。「運命」という後付けタイトルに象徴される個人の内面の葛藤も、まさに全人類的な苦悩にまで引き上げられています。一方、吉松の「サイバーバード」は、彼のパーソナルな体験から生まれた「小さな物語」を表現した音楽。そう捉えれば、このアルバムに収められた二曲のありようは、まったく正反対であると言えます。
21世紀を生きる私たちは、「サイバーバード」の側の世界を生きています。
確かに、インターネットのおかげで、私たちは半径50㎝の圏内にとどまって、世界中のあらゆる動きを瞬時に知ることができるようになりました。しかし、「小さな物語」の中を生きている限り、世界の総体がどんなものかを理解できていません。一人の人間が理解するには世界は余りにも複雑すぎ、巨大すぎ、曖昧すぎ、不確定すぎ、余りにも移ろいやすいからです。「大きな物語」を想像することすらできなくなってしまった私たちが、同時代の音楽である「サイバーバード協奏曲」の「小さな物語」に身を委ね、自分を重ねて聴くのはとても自然なことです。
しかし、それでも私たちは、ベートーヴェンの音楽を聴いて、その背後にある「大きな物語」の何がしかを感じとって心を震わせ、魂を鼓舞されずにいられません。ベートーヴェンが生きた19世紀初頭のヨーロッパが抱えていた課題の多くは既に克服され、彼が胸に抱いていた「大きな物語」のリアリティは失われているのに、それはなぜでしょうか。
その問いへの答えを導く鍵は、ベートーヴェンが引用したとされるフランス革命歌の歌詞、そして吉松自身の文章の両方に見られる「自由」という言葉にあると思います。どちらの作曲家も自らを制限する「不自由」の存在を切実に感じとり、そこからの解放を求める強い欲求と意志を音に込め、とてつもないエネルギーを放出する音楽を書いた。聴き手は、緊張からの解放を強く指向する音楽から大きなカタルシスを得て、心を大きく揺さぶられる。そう考えれば、この二曲は実は根本的なところで共通点を持っているのだと思い至ります。
このことを様々な芸術作品に敷衍すれば、芸術家というのは、その創作活動の源泉に自由への志向を強く持ち、自由を阻害するものには非常に敏感な人たちだと言える気がします。さらに見方を変えれば、人間はいつでも自由を求めずにはいられない生き物である。どんなに自由を手に入れていったとしても、生きているうちは完全なる自由を手にすることはできない。だからこそ、空を自由に飛ぶ鳥に憧れ、芸術作品を生みださずにはいられない。このアルバムを通して、そんな「真理」に触れた気がします。
この夏は「自由」「不自由」という言葉をよく耳にします。愛知の美術展、香港のデモ。勿論、バッティストーニと東京フィルのアルバムはそんな事態を予測して制作されたものではありませんし、この音楽に「自由」というキーワードを見いだして、時事的な話題を連想するのも私個人の感想でしかありません。
しかし、それが可能なのは、選曲を含めこのディスクに収められた音楽が豊かな内容を持っていて、私の内部にある何かと激しく共振しているからです。当盤は、聴く人の数だけ、まったく異なる聴き方を提供し、大きく包容してくれるに違いないと確信します。
このような刺激的な思考へと誘ってくれる当シリーズ、発表ではあと二枚のリリースで終わってしまうそうですが、もったいない。いつまでも録音を続け、日本のオーケストラ音楽の一大アンソロジーを作り上げてほしいところです。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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