チェリストの宮田大が、コロムビアと録音契約を結びました。今後、継続的にアルバムを制作するとのことですが、早くも第一弾となるディスクがリリースされました。
内容はイギリスのチェロ協奏曲集で、メインは宮田が各地で演奏を重ねてきた、得意のエルガー。カップリング曲として、ヴォーン・ウィリアムズの未完の協奏曲の緩徐楽章を補筆完成した「暗愁のパストラル」が収録されています。既に輝かしい演奏歴を誇る宮田ですが、意外にもこれが彼にとって初の協奏曲録音なのだそうです(映像では小澤征爾とのハイドンがあります)。
共演は、HyperionやSimax、Dacapo、BIS、シアトル響の自主制作レーベルなどのディスク、あるいは、新日本フィルへの客演でお馴染みのトーマス・ダウスゴーが指揮するBBCスコティッシュ響。2019年9月、オーケストラの本拠地グラスゴーでセッションを組んで録音されました。
目玉となるエルガーのチェロ協奏曲は、細やかな神経が隅々まで行き届き、十分にこなれた音の運びが美しい。ストラディヴァリウス製チェロの独特の音色も、効果的なヴィブラートも相俟って、目眩がしそうなほどに魅力的です。
一方で、両端楽章での悲劇性の表出や力感は十分だし、第2楽章の敏捷な動き(特にスピッカートが連続するボウイング)も目覚ましい。全楽章にわたって、強弱のダイナミックレンジもかなり広い。
エスプレッシーヴォな、つまり、表情豊かな演奏と言えます。
しかし、それはある意味、当たり前のことです。何しろ、この曲の楽譜には表情や速度に関する指示が随所に書かれていて、演奏者がきちんと守って弾きさえすれば、半ば自動的にエスプレッシーヴォな音楽として鳴り響くようにできているのですから。果たして、宮田は作曲者自身による事細かな指示に最大限忠実に従い、曲想の変化が生むダイナミズムをまさに「表情豊かに」描いている。
そんな宮田のエスプレッシーヴォな演奏を聴いて脳裏に浮かぶのは、「正しい」という言葉です。模範解答的演奏としての解釈の「正しさ」や、チェロを最も美しく鳴り響かせる奏法の「正しさ」もあります。しかし、音楽それ自身がこうありたい、こう鳴り響きたいと願い、自らの意志で無から生じてきたかのような無垢なまでの自然さ、そこにこそ彼の演奏の「正しさ」を感じます。
聴こえてくるのは、ただひたすら無為自然の音楽なのです。あらゆる音、あらゆるフレーズは、演奏者が微に入り細に穿ち、練りに練って作り上げたもののはずなのに、第三者の作為が感じられない。「個性」の名を借りたエゴイズムや、「差別化・差異化」を楯に付け加えられた戦略的打算もどこにもない。だから、聴後に私という聴き手の内に残るのは、ただただエルガーの音楽に触れたという、純粋でたしかな手応えだけなのです。それは紛れもなく、再現芸術としての「正しい」音楽のあり方に違いありません。
その代わり、宮田の演奏家としてのユニークな立ち位置は、チェロの響きの向こう側にはっきり透けて見えています。
彼は音楽をじっくり味わいながら演奏している。
自らが奏でる楽器の音にじっと耳を傾け、音楽そのものと、音楽で満たされた場の空気を、心の奥深くで味わい尽くしている。音楽にぴたりと寄り添うことで生じた彼の心の動きが次の音の挙動を決め、新たな音楽の流れを生んでいく。
それは演奏家にとって、必須の作業に違いありません。しかし、宮田の場合、「いま、ここ」で鳴り響く音から還元されるものが、質量ともに並外れて豊かなものであるように思えるのです。
全身の感覚を研ぎ澄まして音楽を感じとり、自身の内部の奥深いところで咀嚼し肚に落とす。その瞬間に活性化する感受性と、情報処理の速度と量が人並み外れたものであるからこそ、「いま、ここ」の感覚を伴う生き生きとした響きが生まれるのではないかと推察します。
先日、音楽之友社のWebページで公開されたインタビューで、彼は師であるフランス・ヘルメルソン(私の大好きなチェリストです!)から”make music”よりも”feel music”が大事だと教えられたと語っていました。彼はまさに師の教えを正しく実践しながら、”appreciate music”というような境地にまで達している(“appreciate”は、“enjoy”または“experience”と訳した方が良いのかもしれません)。
宮田の真骨頂ともいうべき音楽を、第3楽章アダージョで聴くことができます。何ものかに憧れるように静かに始まり、もっと遠くへと言わんばかりに上向する旋律が、なだらかな稜線の起伏を描きながら繰り返され、情緒を強めていく。
高揚が頂点に達したところで、しかし、音楽はそれ以上の高みへ昇るのを諦めたかのように力を失い、静寂の闇の中へと階段を一歩ずつおりていく。開高健が愛用した「滅形」という造語に相通ずるような儚げな音楽の道すじを、宮田はあたかも自分自身が歩むかの如く、リアルな肌身に沁みる寂寥の痛みとともに切実に描いています。
同じ楽章の終盤で、チェロが最弱音に沈み込む部分を是非お聴き頂きたい。センチメンタルな旋律がほとんど聴こえないくらいの音量で歌われながら、深い情感が饒舌なまでに明らかにされているのが聴きとれるはずです。ここでの宗教的感情を喚起する深々とした音楽にこそ、宮田のチェリストとして、表現者としての力量のすごさ、真正さが、最も顕著に現れていると私は確信します。
あるいは、フィナーレの終盤、第1, 3楽章の回想と、希望の光が僅かに射し込むような美しい旋律が聴こえてくる箇所も同様です。その内向きのパッションを秘めた熱い表現は、大きな呼吸とともに、音楽の内奥から溢れ出る切ない情感を噛み締めて弾くチェリストの姿を彷彿とさせます。同時に、彼が音楽の一番奥深い核心にあるものを、いかに深く感じとって味わっているかが痛いほどはっきり伝わってくる。
この部分を最初に聴いたとき、とある詩の一節が浮かんで頭から離れませんでした。
いざ、さらば、夏の光よ
これはフランスの詩人、ボードレールの代表作である詩集「悪の華」の「秋の歌」にあるフレーズです。音楽評論家の故・三浦淳史氏が、かつてジャクリーヌ・デュ・プレが弾くエルガーのチェロ協奏曲を評するとき、いつも自らの訳で引用していました。
厳密に言えば、「さらば、あまりにも短かったわれらの夏の、烈しい日射しよ!(阿部良雄訳、ちくま文庫)」というようなニュアンスで訳すのが正しいらしいのですが、三浦氏の簡潔にして印象的な訳文は、デュ・プレが遺した歴史的名演を聴いて感じるものを的確に言い当てています。
エルガーのチェロ協奏曲は、1918年、第一次世界大戦と自身の大病という苦難の時期を越え61歳を迎えた作曲家が、そのキャリアの最後に書いた「白鳥の歌」と言うべき作品です。過ぎていった古き良き時代と、二度と帰らない青春の季節への哀惜を胸に抱きながら、残された日々へと決然と歩み出す、そんなストーリーを当てはめたくなるような憂愁が、全編にたちこめています。
録音当時20歳だったデュ・プレは、過ぎ去りゆく「夏の光」を眩いばかりに輝かしく、万感の思いを込めて描ききっています。だからこそ、遠ざかる光の烈しい輝きは美しさと哀しさを増し、喪失の痛みをとてつもなく大きくする。この余りにも鮮烈なデビュー録音のわずか8年後、難病のため引退を余儀なくされることになる天才チェリストの運命を思うと、原詩の「あまりにも短かった」の言葉が重く迫ってきて、なおのこと胸が詰まってしまう。
宮田の演奏を聴いていて、長年愛聴してきたデュ・プレ盤と分かちがたく結びついていたボードレールの詩の文句が、私の心に甦ってぴたりとピン止めされた。そのことに私は驚きました。
言うまでもありませんが、両者の演奏はまったく似ていません。協演の指揮者とオーケストラも含め、演奏家の個性や奏法、音楽の捉え方やセンスは、デュ・プレが僅かな期間に活躍した頃から半世紀以上の時を経て、すべてが大きく変わっています。加えて、宮田は伝説の名演を真似るようなことも、まったくしていません。
宮田の奏でるエルガーの音楽の主体は、遠く過ぎ去った季節の日射しを、当時の輝きそのままに浴び、皮膚を剥がされるような痛みを感じながら、「いざ、さらば」と見送っているのではありません。「夏の光」はもう遠い記憶の向こうへと去ってしまい、ただ儚く煌めいているに過ぎない。旅立たねばならないのは、他ならぬ自分自身の方なのです。これから向かっていく暗闇に思いを馳せ、ひりつくような孤独を心のうちに宿し、忘却の彼方へと消えていく柔らかな日射しに「いざ、さらば」と別れを告げている。
こんなふうに、宮田の演奏は、デュ・プレ盤とはまったく異なる情景とともに、同じボードレールの言葉を想起させるのです。
どちらが正しいとか、どちらが好きかなどということは、もはやどうでもいい。私という聴き手にとって、デュ・プレ盤も宮田盤も、エルガーの音楽のかけがえのない「真実」に肉薄したものだからです。
そこへと到達するルートも、たどり着いた地点で目に映る風景も、デュ・プレ盤とは全然違う。けれど、エルガーのチェロ協奏曲で「いざ、さらば、夏の光よ」という美しい言葉へと私を導いてくれるチェリストに、ようやくリアルタイムで出会えた。しかも、「もののあはれ」を日ごとに感じる紅葉の季節の真っ只中に、ボードレールの「秋の歌」そのままの音楽に触れることができた。その幸運の重なりに、私は心から感謝したいと思います。
オーケストラの好演についても触れなければなりません。
指揮のダウスゴーはたしかな造型感覚を武器に、音楽の外観を見通しよくスマートにまとめながら、鋭敏なセンスがキラリと光るユニークな表現を随所で聴かせています。ヴィオラを始めとする内声部の音の動きが明瞭なのも、印象に残ります。聴き慣れた曲の内部に、こんなにもチャーミングが音の動きが隠れていたのかと新鮮な驚きを得る場面も多く、存分に楽しませてもらいました。
BBCスコティッシュ響は、際立った個性があるとかスタープレイヤーがいるという訳ではないでしょうが、宮田のチェロにぴったりと寄り添い、過ぎ去った日々への挽歌を美しく奏でています。その充実した響きはエルガーの熟達の筆から生まれた音楽にぴったりで、ダウスゴーの指揮で、同じ作曲家の交響曲や宗教曲を聴いてみたい気がします。
カップリングは、前述のとおり、ヴォーン・ウィリアムズの「暗愁のパストラル」。作曲者がカザルスのために書き始めたものの、未完に終わった協奏曲の緩徐楽章のスケッチを、2010年にデイヴィッド・マシューズが補筆完成した11分程度の作品です。
同じ作曲家の名作“The Lark Ascending(「揚げひばり」と訳されることが多い)”にも似た、イギリス音楽のエッセンスが詰まった穏やかな佳品です。タイトル通り、厚い雲が立ちこめるような仄暗い響きが全体を支配していますが、どこか和風の音遣いが時折現れるのが印象的で、味わい深い。マシューズの手による補筆には不自然さはなく、民謡調のメロディの哀しげな趣が沁みます。
ここでも宮田が音楽を味わい尽くして演奏していることが、音の立ち居振舞いから如実に伝わってきます。ダウスゴーとBBCスコティッシュ響の面々も、紛れもないウィリアムズの響きの世界を宮田と共に作り上げています。
動画で視聴可能な世界初演時のスティーヴン・イッサーリスの演奏、あるいは、Duttonレーベルのガイ・ジョンストンによる世界初録音も素晴らしいものでしたが、当曲の代表盤としての地位は当面は揺るがないことでしょう。
当盤の収録時間はとても短く、エルガーと合わせて40分程度。消費税が10%に上がったこともあり、まるでCD初期の時代に「戻った」ような価格設定なので、つい「あともう1曲、ソロでもいいから入れられなかったのだろうか」などと考えてしまうのが正直なところです。
しかし、コロムビアのスタッフが遠路グラスゴーに赴いての録音で、イギリスの音楽祭BBCプロムスの引っ越し公演での実演に合わせ、レコーディングからたった2ヶ月のタイミングでの発売。そうした事情を考えてみれば、これだけ素晴らしい演奏が聴けたこと、十分満足すべきなのでしょう。
宮田大のコロムビアからの次のアルバムはどんなものになるのか、私は情報を持っていません。どんな方向で共同作業が進むにせよ、宮田のエスプレッシーヴォな演奏を味わえるのを楽しみにしています。