哲学者の三木清はかつて、「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にある」と書きました。
では、外出自粛要請で街から人の姿が大幅に消えた今、「孤独」はどこへ行ったのでしょうか?
どこへも行ってはいません。孤独は、街ではなく、自宅のPCやスマホの液晶画面の中にある。以前は街に行かねば見られなかった大勢の人間の「間」は、家の中にいつも漂っていて、マウスをクリックすれば私たちの目の前に大量に現れる。街に孤独があった頃以上に、私たちは孤独の中で生きているのかもしれません。
考えてみれば、ここ何年かは「孤独」ブームでした。この二文字をタイトルに持つ本や雑誌のまあ何と多いことか。「孤独のすすめ」「極上の孤独」「孤独の価値」「孤独がすぐ消える本」「孤独をたのしむ力」・・・。しかも、よく売れているらしい。実は、孤独という言葉は、我々の身近なところで漂流していたのです。
そこへ来て、このパンデミック。危機はあらゆる問題を顕在化し、広がりを加速します。ステイホームを続ける多くの人々は、リモート画面の前で孤独と真正面から向き合って生きていかねばならないらしい。ウィズ・コロナ、ウィズ・孤独。
となれば、シューベルトの出番です。常に「孤独」とセットで語られる彼の音楽は、現代人が抱える「孤独」とも深く共鳴し、多くの人の心に響くはずだからです。彼の器楽曲、室内楽曲、歌曲は演奏者も少なく、「新しい生活様式」とも親和性が高いので、自然と演奏機会も増えるでしょう。彼の作品への共感の輪はどんどん広がり、「シューベルトの時代」がやってくるに違いない。
ということで、今月はシューベルトのディスクを。「うちで踊ろう」ならぬ「うちでシューベルトを聴こう」です。
コロンブス、もとい、コロムビアは、シューベルトの名盤の宝庫です。スウィトナー指揮の交響曲全集、ダルベルト、アファナシエフ、田部京子らのピアノ・ソナタ、プライの三大歌曲集、そして、カルミナ四重奏団(以下SQ)の後期弦楽四重奏曲。
綺羅星のようなディスクたちの中からどれをご紹介するか悩んだ末、カルミナSQによる弦楽四重奏曲第15番を選びました。1996年2月、彼らの他の多くのディスク同様に、スイスのラ・ショー・ド・フォンにあるムジカ・テアトルで録音された名盤です。
シューベルトの弦楽四重奏曲第15番は、カルミナSQのように第1楽章提示部の反復を省略しても、演奏時間約45分近くを要するスケールの大きな音楽です。作曲者特有の同じモチーフの執拗な反復、目まぐるしい転調、美しい歌謡的旋律を随所に見ることができますが、長調と短調の激しい交錯、弦楽四重奏曲では珍しいトレモロの多用が際立っています。
・・・というような、どの曲目解説にも必ず書かれているようなことはともかく、この曲もまたシューベルトらしい「孤独」の音楽です。
孤独という言葉を連想させるレトリック(修辞)が、楽譜に仕込まれている訳ではありません。背景に孤独にまつわる物語がある訳でもない。ひたすら純粋な音楽として捉えることも、可能なのかもしれません。
しかし、この曲を聴いて、孤独という言葉を意識しないでいることは難しい。少なくとも私には。
例えば、第2楽章の冒頭でチェロが奏でるホ短調の旋律。三木清の言う「大勢の人の『間』」の中で誰とも心を通い合わせることができず、どこにも自分の居場所を見つけられない、そんなときに作曲者の頭に浮かんだメロディなのではないかと思うほどに淋しい。
あるいは、同じ楽章中盤から終わりにかけて。トレモロを伴った激しいパッセージが何度か荒れ狂いますが、そのたびにファーストヴァイオリンとヴィオラが短三度音程をもった二音のモチーフを奏で、嵐のような叫びを無慈悲に断ち切ります。
すると、またしても不気味なトレモロが現れ、冒頭の旋律が切れ切れに歌われる。その寂寥たる音風景の中には、世界から完膚なきまでに拒絶された人間の姿があります。楽章の終わりに至って、ふと長調に転じて光が微かに射し込みますが、ひりつくような孤独は解決されぬまま保留されています。
先行する長大な第1楽章にも、孤独の響きが満ち溢れています。例えば、冒頭、転調の鮮やかな短い導入のあと、最弱音のトレモロに乗って、第一ヴァイオリンが第一主題をひそやかに提示するところや、シンコペーションと付点音符が特徴的な第二主題を、チェロが受けついでレガートで優しく奏でるあたり。どちらも、だだっ広い宇宙の中にぽつねんと置かれた人間の声のように、言い知れぬ孤独を宿して響きます。
そして、楽章全体の、何度も逡巡しながら展開する不思議なソナタ形式。ここではないどこかへ進むべきか(第一主題)と、居心地の良い今の場所にとどまるべきか(第二主題)、二つの思いに引き裂かれ、答えの出ない自問自答を繰り返します。これも、たった一人で自己と対峙することでしか経験し得ない、果てしない堂々巡りそのものです。
同様に、第3楽章の緊迫したスケルツォ主部と、牧歌的でノスタルジックなトリオの対比、第4楽章、自暴自棄なまでに踊りをやめないタランテラ、そのいずれもが、作曲者の内なる孤独から生まれた音楽だと言えます。
こんな深刻な音楽を聴いていたら、孤独は辛くて耐えがたいものに感じられてしまうのではないか!という向きもあるかもしれません。
しかし、そうではありません。むしろ、絶対的な孤独の中に身を置き、自己にまっすぐ向き合わなければならなくなったときにこそ、シューベルトの音楽は良き友、良き伴侶となってくれるのです。
理由は、冒頭で引いた三木清の「孤独について」の別の一文に端的に書かれています。
孤独は最も深い愛に根差している。そこに孤独の実存性がある |
そう、シューベルトの音楽に内在する孤独は、三木の言葉の通りに「深い愛に根差している」のです。シューベルトが友人宛に書いた手紙の中の、余りにも有名な言葉を思い起こさずにいられません。
長い年月、ぼくは歌をうたった。愛をうたおうとした時、愛は苦しみになった。そして苦しみをうたおうとすると、苦しみが今度は愛になるのだった。
愛と苦しみは、こうしてぼくを二つに裂いた。(1821年)
(前田昭雄訳 「カラー版作曲家の生涯 シューベルト」新潮文庫刊)
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愛と苦しみに裂かれるとは、何と孤独に満ちた言葉でしょうか。彼の特に晩年の音楽は、彼の中でせめぎあう「愛と苦しみ」をうたったものであり、その内面の孤独から生まれたものであることを端的に表しています。勿論、この弦楽四重奏曲第15番も然りです。
シューベルトが身を削って音楽として表現した「愛と苦しみ」は、孤独を知る聴き手の心にすっと沁みわたり、あたたかな連帯を生みます。だから、こんな時こそ、「シューベルトを聴こう」なのです。
シューベルトの音楽に沼落ちした中毒患者の譫言を、長々と綴ってしまいました。いい加減、肝心のカルミナSQ盤の演奏について、述べなければなりません。
彼らの演奏の最大の特徴は、誰もが異口同音に言うように、驚異的なアンサンブルの精度の高さにあります。
ただ単に音程や発音のタイミングが揃っているとか、楽器間のバランスが良いというような、表層的なレベルにとどまる話ではありません。微細なまでに分解された「部分」が互いに協調し、複雑だけれどなめらかな動きをもった「全体」を作り上げていく、そのさまが他に類を見ないほどに精緻で、息を呑むほどに美しいのです。
しかも、一つ一つの部品のかたちも、それらを組み合わせたフォルムも、完璧な均整を保っている。決して「木を見て森を見ず」というような皮相な音楽には、なっていない。紋切り型のたとえになってしまいますが、彼らの本拠地であるスイス製の時計のようです(因みに、私はスイス製の時計は一つも持っていません)。
一切の不純物を排した純度の高い響きにも、耳と心を奪われます。どんな局面でもすべての音が明瞭に聴きとれ、各奏者が柔軟に役割を交代しながら、声部の主従関係、強弱、音色、表情を瞬時に変化させていることが容易に感受できる。この磨き抜かれた透明な響きこそが、彼らの音楽づくりの要諦となっているのは間違いありません。
しかし、それだけでは、カルミナSQが弾くシューベルトの魅力を説明したことにはなりません。
彼らの演奏は、バルトークの弦楽四重奏を収めたアルバムのライナーにある、ヴィオラ奏者のウェンディー・チャンプニーの言葉を借りれば、「作品の表面的な美しさの奥にあるものを見抜」いたものと言えます。それは彼らがシャンドール・ヴェーグから学んだことなのだそうですが、どの作曲家の作品であろうと、彼らの精緻極まりない音のつづれ織りの中から、作曲家の固有の響きや語法、あるいは思考のプロセスが、はっきり感じとれるのです。
そうした彼らの演奏の美質は、このシューベルトの弦楽四重奏曲第15番でも生きています。この曲に内在する「孤独」を、そして引き裂かれた愛と苦しみを、カルミナSQ盤ほど切実に、心に沁みるものとして感じさせてくれるものは他にありません。それは、彼らがシューベルトの音楽の楽譜の背後にあるものが何かを突き詰め、そこに何も足さず、何も引かず、ありのままに演奏しているからです。
シューベルトの音楽は壊れやすい。腕の立つ人たちが自らの技術を誇示しようとしたり、耳目を引く「解釈」で承認欲求を満たそうと何か特別なことをやろうとしたりすると、その音楽の持つ繊細な魅力は潰れてしまう。かと言って、何の工夫もしなければ、ただ繰り返しの多い退屈な音楽になり下がってしまう。
その点、手練を尽くして彫琢の跡を消すようなカルミナSQの演奏は、汲めども尽きぬシューベルトの音楽の魅力を、余すところなく伝えてくれる「名演」と言えます。ただ唯一残念なのは、第1楽章の提示部の反復が省略されていることです。反復されることで感じられる感銘があるので、できることならカットしてほしくなかった。
カップリングの弦楽四重奏曲第12番「四重奏断章」も、15番に負けず劣らぬ素晴らしい演奏。シューベルトが第2楽章を書きかけたところで未完成のまま残した曲の第1楽章にあたりますが、こちらもトレモロを多用した激しい動きが印象的な音楽です。カルミナSQの面々は、時にドラマティックに、時にノスタルジックにダイナミックレンジの広い表現をとりながら、シューベルトの天才的な筆致を鮮やかに再現しています。
当盤は1996年の初発売時、評論家やファンの間でも大きな話題になりました。翌年に生誕200年を控えてシューベルトへの関心が高まっていたことも要因だったでしょうが、カルミナSQ盤の出現によって、特に第15番への評価が急上昇したような記憶があります。私自身もリリースと同時に聴いて感銘を受け、以来25年間近くにわたって愛聴してきました。
しかし、時代の流れでしょうか、この名盤は、コロムビアのHPからは直接購入できなくなっています。SportifyやApple Musicなどのサブスクリプションでは配信されていますが、カルミナSQのシューベルトをいい音で聴きたいと仰る方には、次善策として2000年録音の「死と乙女」「ロザムンデ」を収めた一枚を。何しろシューベルトの人気曲であり、演奏も第15番同様に素晴らしいもの。必聴盤です。
カルミナSQは、2017年、惜しくも第二ヴァイオリン奏者のスザンヌ・フランクが闘病の末に亡くなり、チェロ奏者のシュテファン・ゲルナーも健康上の理由で脱退してしまいました。
第一ヴァイオリン奏者のマティアス・エンデルレ、その妻でヴィオラ奏者のチャンプニーの二人が残りましたが、最近になって、彼らの愛娘でチェリストのキアーラ・エンデルレと、チューリッヒ・トーンハレ管や歌劇場などで活躍する弾いているヴァイオリニストのAgata Lazarczykが加入して、活動を再開したようです。
キアーラのチェロは、何年か前に、エルネスト・ブロッホの無伴奏チェロ作品CDを聴きましたが、精確な技巧と、歌心に溢れたカンタービレが魅力的で印象に残っています。母親の胎内にいる頃からカルミナSQの響きに触れてきた彼女は、名手ゲルナーとはまた違う魅力をカルテットに吹き込んでくれることでしょう。そして、カルテットの大切な中声部を担ってきたフランクがいなくなってしまった不安を、次世代を担う若いヴァイオリニストが払拭してくれることを期待が高まります。
ただ、彼らは以前のようなワールドワイドな活躍は、まだ見せていません。僅かにYouTube動画でその演奏に触れることができる程度。恐らく今は、新しいアンサンブルを作り上げる助走期間なのでしょう。いつかまた、新生カルミナSQのシューベルトを、音盤やライヴを通じて聴ける日が来ることを願わずにいられません。
いや、その前に新型コロナ・ウィルスを何とかしなければなりません。カルミナSQのシューベルトを聴いて孤独と向き合い、その価値を味わいながら、彼らとの「再会」の日を待つことにしましょう。