コロナ禍を経験して、ほんの少し前まではごくありふれた日常の一コマでしかなかったことが、奇跡のように思えることがあります。
新譜CDを発売日に聴くというのも、その一つです。プレスや印刷、包装など、工場でしかできない作業もあるだろうに、国内外の新譜はほとんど延期することなく発売されていて、ネット通販を使えばほどなく入手できている。それはすなわち、世界レベルで外出自粛や休業要請が出ていた中でも感染リスクを冒して職場に出向き、何らかの作業に携わった方々がおられるということを意味します。
一枚のCDがリスナーに届くまでには、音盤を「いのちの水」として生きる者にとって、エッセンシャルワーカーと呼ぶべき人たちが多く関わっている。そのことに、今さらのように気づかされました。
5月20日に予定通りリリースされたバッティストーニと東京フィルの“BEYOND THE STANDARD”シリーズ第4弾を宅配で受け取ったときも、そのことをひしひしと感じました。待望のアルバムをごく普通に入手できることに感謝しながら、ディスクのずしりとした重みを味わいました。
今回のバッティストーニの新盤は、ベルリオーズの幻想交響曲と黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を収めた一枚です。前者は2020年1月、後者は2018年5月、東京オペラシティ・コンサートホールでのセッション録音。日付を見てついつい「コロナ前」だなあなどと考えてしまうのは、時節柄仕方のないことでしょうか。
ベルリオーズがとても良かった。当シリーズで取り上げられた交響曲ではこれがベストかと思うほどに、存分に楽しませてもらいました。
しかし、実際に音を聴くまでは、幻想交響曲がこれほどまでに彼に「合う」音楽だとは正直思っていませんでした。勿論、第4楽章「断頭台への行進」から第5楽章「サバトの夜の夢」にかけて、彼がオーケストラを豪快に鳴らし凄絶なドラマを形づくるであろうことは、容易に予想できました。事実、その期待は裏切られなかったのですが、前半3つの楽章でこんなに魅力的な演奏が聴けるとは想像していなかったのです。
第1楽章冒頭、木管楽器の三連符による短い導入に続いて、弱音器をつけたヴァイオリンがピアニッシモで旋律を奏でる。その憧れと痛みを孕んだ儚げな歌を耳にしただけで、いっぺんに惹きこまれてしまいます。
何年前のことだったか、バッティストーニがヴェルディの「オテロ」のデズデモナや、プッチーニの「トゥーランドット」のリューのアリアで満場の涙を誘った、繊細で切実なカンタービレを思い出しました。それらはオペラに登場する女性が歌う音楽ですから、自身を主人公としたベルリオーズの「幻想」の設定にはそぐわない連想なのですが、傷ついて壊れかけた心にそっと寄り添うかのような優しい歌と、それをオーケストラから引き出すバッティストーニの思いやりと慈愛に満ちた手つきに、胸を打たれずにはいられませんでした。
その後、主部に至って、恋人を象徴する固定楽想(イデー・フィクス)が現れると、様相が一変します。彼女の存在が芸術家の「夢と情熱」をかき立て、狂おしいまでの渇望を生み出していくさまが、時に楽譜にはない加速を見せながらリアルに可視化されているのです。標題的である以上に、ソナタ形式の枠を飛び出そうとする奔放なファンタジーと、それを押しとどめようとする理性的な力の相克が音のドラマとして聴こえてくるあたりが、実に面白い。
同時に、細部への目配りも十全。響きは常に整理されていて混濁することは皆無で、普段は埋もれがちな細かい音型もクリアに聴こえてくる。しかし、楽譜の弱音の指示にはこだわらず、豊かな量感とたっぷりした呼吸を保って音楽を進めていて、精密さのみを追い求めた神経質で堅苦しいものにはなっていない。そのバランス感がとてもいい。
続く第2楽章「舞踏会」では、ヴァイオリンが奏でるワルツの旋律の、軽やかさと質感を併せもった羽二重のような手触りに思わずため息が出ます。そのメロディの終わりで、楽譜の指示通りテンポを落として元に戻すところの、洒脱な着地ぶりもすこぶる魅力的です。
この楽章でバッティストーニは、マーラーばりに細かい楽譜の指示には鷹揚な姿勢をとっています。後に追加されたコルネットのパートは不採用で、ハープも通常通り2台使用(楽譜の指示だと4台)。さらにヴァイオリンのポルタメントや、楽器間で不均一な強弱のバランスなどを強調することもありません。しかし、時折顔を出すグロテスクな音型は常に明晰に鳴らすなど、夢と現実のはざまで蠢く狂気を的確に炙り出していて、「何を表現するか」ということへの配慮にはぬかりがありません。
第3楽章「野の風景」では、前述の第1楽章の序奏部同様、弦楽器の清新なサウンドに痺れます。例えば、69小節からのヴィオラとチェロがユニゾンで朗々と歌うカンタービレ(6分1秒~)、131小節から第二ヴァイオリンが固定楽想を楚々と歌うところ(10分24秒~)と160小節から第1ヴァイオリンからヴィオラに受け渡される旋律(12分50秒~)の深々とした抒情。そして、各パートに散りばめられた細かい音符の、繊細にして雄弁な動きにも耳をそばだてられます。
木管楽器の彩り鮮やかな音色も、心に残ります。楽章の冒頭、羊飼いたちが吹く笛を模して、舞台上と舞台裏で呼びかけ合うコールアングレとオーボエの孤独の歌、48小節からの強迫的なパッセージに応える木管アンサンブルの清涼なハーモニー(4分28秒~)、119小節からのクラリネットの寂寥感あふれるメロディ(9分26秒~)、そして、4台のティンパニが奏でる遠雷の後で、消え入るようなコールアングレのソロ(14分34秒~)など、聴きどころは枚挙に暇がありません。
このあたりは指揮者の力量以上に、東京フィルの充実した演奏力をほめたたえたいと思います。ソロもアンサンブルもどこまでも音楽的で、確固たる美感を備えている。何度聴いても惚れ惚れします。これだけ高度な音楽がオケ側から聴こえてくれば、指揮者はやりたいことを思い切りやれるだろうし、自身が触発される場面も多いでしょう。指揮者とオーケストラの間の幸福な「ミュージカル・ディスタンス」が耳に嬉しい。
と、そんなディテールを積み重ね、のどかな田園風景が描かれていく訳ですが、その純度の高い透明な響きは、彼らがレスピーギの「ローマの泉」や、「トゥーランドット」などで聴かせてくれたものでした。つまり、バッティストーニはここでも、自らの持ち味を十分に生かした音楽をやっているのです。しかも、プログラムに盛り込まれた芸術家の孤独や不安もまた、振れ幅の大きな起伏の中で十全に表現されてもいる。実は、この楽章こそ、バッティストーニ向けの音楽だったのでした。私は聴く前の考えを完全に改めました。
第4、5楽章は一転してパワー全開、怒涛の音楽が繰り広げられます。恋煩いにあえぐ芸術家は、恋人を殺した罪でギロチンにかけられ、その葬儀に魔女や幽霊が集まり宴を繰り広げるというおぞましい夢を見る。人間の深層心理の闇に根ざした一部始終を、バッティストーニは時に一気呵成にたたみかけ、時に大胆なケレンを見せてドラマティックに音化していく。そして、大詰めではやはり猛烈なアッチェランドをかけ、狂乱の幕切れを演出します。
バッティストーニの巧みなドラマ展開と、彼のタクトに強靭なアンサンブルで応えるオーケストラの激烈な大音響の渦に巻き込まれ、冷静さを保つのはとても難しい。録音と同時期におこなわれた実演は聴けなかったのですが、どれほど凄い盛り上がりになっていたことでしょうか。
もちろん、前述のようなバッティストーニの配慮は、隅々まで行き届いています。例えば、第4楽章の冒頭6小節目(0分10秒~)から、楽譜ではピアニッシモと指示されたバスーンのパートを、かなり強めに吹かせています。恐らくこれは、少し後で4本のバスーンが大活躍(26小節目以降、1分14秒~)することの伏線なのだろうと思います。隅っこに紛れ込んだ重要人物にスポットライトを当てて、聴き手の注意を喚起するかのような。
また、ホルンのゲシュトップや、オフィクレイド(チューバで代用)の低音を強調したり、第5楽章355小節目(6分57秒~)から2パートに分かれたヴィオラがロンド主題を奏でる部分で、ややスルポンティチェロ(弦の駒の近くの部分で弓を擦る奏法)気味に弾かせたりして、音楽のグロテスクな側面を強調しているのも印象的です。
そして、第5楽章の鐘(2分48秒~)!
オフィクレイドがグレゴリオ聖歌の「怒りの日」の旋律を吹く場面で、舞台裏で鐘が鳴らされるのですが、それとは別の低い音が聴こえてきます。何だろうと耳を凝らすと、ピアノが一緒に弾かれているのが分かります。
やられた!と思いました。少なくとも音盤では60年代末のレオポルド・ストコフスキー盤以降ほとんど誰もやらなかったことを、2020年録音の最新盤で聴くことになるとは。まったく想定外でした。
この部分の鐘にピアノの音を重ねるのは、ゆえなきことではありません。スコアには作曲者自身による「低い音の鐘が見つからない場合はピアノで代用して良い」と注釈が書かれているからです。
鐘をピアノで代用するのではなく両方を同時に鳴らす方法は、ストコフスキー以外では、ワインガルトナー、フリート、ワルター、バルビローリ、ミトロプーロス、クリュイタンス(チェコ・フィル盤のみ)らが採用した古い音源が残っています。50年代までは、日常的にピアノが併用されていたのでしょう。従って、バッティストーニが、ストコフスキーに倣ってピアノを重ねたとは言い切れない。
しかし、それでも私は、バッティストーニはストコフスキーの大ファンで、あのディスクを念頭に置いてピアノを使ったのではないかとにらんでいます。シリーズ第1作「新世界」でのシンバル追加はストコフスキーのお家芸でしたし、昨年実演で聴いたリムスキー=コルサコフの「シェラザード」でも、ストコフスキー盤を参考にしたと思しき場面があったからです。
言うまでもなく、105歳も違う二人の指揮者の音楽家としてのありようは、まったく違います。でも、鮮やかで豊かな色彩感、力感にあふれた音楽運び、楽譜の改変も厭わぬケレン味たっぷりの音づくり、大きな身振りを伴った雄弁な語り口など、バッティストーニがストコフスキーのレコードを通して学んだことは多いのではないかと思います。
とは言え、バッティストーニは懐古趣味者、反動主義者ではありません。古いアイディアでも自分の解釈を具現化するには必要だと思ったら、積極的に採用する。そんな彼のあっけらかんとした姿勢は実に今風と言えます。何しろ今は、古いものと新しいものが混在・並立し、すべてが相対化される超ポストモダンの時代なのですから。
ともあれ、この刺激とサプライズに満ちあふれた「幻想」、私はとても気に入りました。
考えてみれば、この曲に限らず、本シリーズで取り上げられてきた4つの交響曲は、確立した音楽の形式の中に、どうすればもっと多様な表現を盛り込めるかという課題に大作曲家たちが真正面から挑み、見事な回答を提示した画期的な音楽でした。
一方、バッティストーニが最も得意とするヴェルディの歌劇もまた、厳しい様式美の中に複雑な人間模様を編みこんだ音楽です。であれば、彼がこれらの交響曲で素晴らしい演奏を聴かせるのは、当然のこと。やはり、幻想交響曲はバッティストーニとすこぶる相性がいいのです。シリーズの白眉とも言える快演の登場を心から喜びたいと思います。
併録の黛敏郎の「舞楽」も、「幻想」に負けず劣らず魅力的な演奏です。
1962年、ニューヨーク・シティ・バレエ団の委嘱に応じ、舞を伴う雅楽の様式を意識して書かれた二部からなるバレエ音楽。雅楽風の静謐な音色と、ホルンや金管楽器が咆哮する爆音が渾然一体となったユニークな音空間を、バッティストーニと東京フィルはダイナミックかつしなやかに描いています。
特に「右舞」的な要素を持った第二部での、ダイナミックな力感の放射はスリリングです。黛が「涅槃交響曲」で既に明らかにしていた「生」への原始的な欲求は、ここでも眩いばかりにギラギラと輝いています。一方で、雅楽の「音取り」を下敷きにした繊細な音は、例えば初演者の岩城宏之とN響による歴史的名盤とは色合いが異なり、カラッと明るいものですが、これはこれでとてもきれい。
どんな曲であっても、その音楽の核心にあるものを捉えることに長けたバッティストーニの適応能力、嗅覚・皮膚感覚の鋭さに感心せずにはいられません。そして、東京フィルはここでも好調なアンサンブルを聴かせてくれていて、黛の音楽のもつ魅力をふんだんに味わわせてくれます。
これもまた、長く聴かれるべき「スタンダード」としての位置を獲得する名演だと確信します。彼らがもし「涅槃交響曲」や「金閣寺」を演奏したら、一体どんなに素晴らしいものになるでしょうか。興味津々です。
2018年5月に始まったバッティストーニと東京フィルによる当シリーズも、残すところあと一枚を残すのみとなりました。最終作は「スタンダード名曲集」(収録曲は不明)ですが、バッティストーニが来日し、通常編成のオケを相手にセッション録音することができるのかは、現段階では未知数です。
しかし、バッティストーニのフェイスブックページによれば、彼は8月にはアレーナ・ディ・ヴェローナ音楽祭に出演するそうですし、在京オケも新しいコンサートのかたちや経営形態を模索し始めるなど、希望の光も見え始めています。
CD制作に携わる「エッセンシャルワーカー」の方々の負担も軽減されて、第5弾の収録と発売がつつがなくおこなわれ、胸躍る音楽が聴けることを心から願いつつ、本稿を閉じます。