上野耕平のサックスの音は、空気清浄機に似ている。
そんなことを言ったら叱られるでしょうか。いや、笑われてしまうかもしれません。
でも、これは私の偽らざる実感なのです。彼のどこまでも澄み切ったサックスの響きに触れていると、あたりの空気がクリーンになったような気がしてくる。空気中の塵やほこりも、スーパー飛沫、エアロゾルも、空間を軽やかに舞う上野のサックスの音が全部一掃してくれる、そんな錯覚にとらわれてしまうのです。何年か前にリリースされた彼のJ.S.バッハの無伴奏作品集は、我が家の強力なエアクリーナーとしてしばしば稼働しています。
もちろん、昨年末に発売された、上野の目下の最新盤「アドルフに告ぐII」でも、そんな感覚を存分に楽しみました。いや、それどころか、コロナ禍に伴う巣ごもりや梅雨の鬱陶しさに澱んだ私の心までもが換気され、清められたかのように感じさえした。そんな爽やかな時間を過ごしたくて、近頃このアルバムを繰り返し聴いています。しかも、聴き直すたびに、上野の演奏の新たな魅力に気づくので、聴き飽きる暇がありません。
「アドルフに告ぐII」は、同じタイトルを持つ上野のデビュー盤の文字通り第2作です。
収録曲は、逢坂裕の「ソプラノサクソフォンとピアノのためのソナタ エクスタス」(2017)、フェルナンド・デュクリュクのソナタ嬰ハ調、アンリ・トマジとフランク・マルタンの「バラード」(ピアノ伴奏版)、藤倉大の「ブエノ・ウエノ」(2019)と、いずれもサックスのためのオリジナル曲ばかり。二人の邦人作曲家の作品は上野のために書かれたもので、当盤が世界初録音となります。
このうち「ブエノ・ウエノ」では林英哲が和太鼓で共演、それ以外は山中惇史がピアノ伴奏を担当しています。録音は2019年10月に魚沼と横浜でおこなわれており、その僅か2か月後、藤倉作品の世界初演の翌日 (!) にリリースされました。
アルバム1曲目は、逢坂裕の「ソナタ エクスタス」。
冒頭は、ピアノの激しいトレモロと和音連打に乗って、サックスが華麗に音階を駆け上る印象的な幕開け。続いて、時折ロックのようなタテノリのモチーフを奏でるアグレッシヴなピアノ伴奏と、のびやかに歌おうとするサックスが、ソナタ形式をなぞりながら合一していく「法悦」のさまをドラマティックに展開していきます。スピード感と切れ味が際立つカッコ良い音楽ですが、汎調性に則った音の組み立てには、広い層の聴き手にもアピールする親しみやすさがあり、構えずに聴いて楽しめる曲です。
ここでソプラノサクソフォンを吹く上野の音は、軽やかそのものです。音は波動なので軽いも重いもないのですが、どこまでもすーっと伸びて自由に空間を漂い、舞い、消えていく、そのさまが軽やかなのです。
また、どんなに高い音でも、あるいは、どんなに強い音でも音圧にはゆとりがあって、響きが詰まって絶叫調に陥ることがないのもいい。高出力のアンプを敢えて音量を抑えて鳴らすような、たっぷりと余裕をもったサウンドの何と心地良いことでしょうか。
抒情的な旋律で見せるしなやかな歌いくちも、ふるいつきたくなるくらいにいい。ヴィブラートを抑制し、大仰な表現を避け、その背後にある和声の動きを気配として含ませながら、飄々と歌を紡いでいく。楽譜を高くから俯瞰して大きな流れを捉えているので、強弱や音高がどんなに目まぐるしく動く場面でも、音楽がせせこましくなることはなく、たっぷりとした呼吸が保たれる。こうして、のびやかなカンタービレが息づき、軽やかな歌が自由に羽ばたいていく。
作曲家であり、近年はピアニストとして研鑽を積んでいる山中のピアノは、上野のサックスとぴったり一致した美質を随所で感じさせます。例えば、早いパッセージでも一つ一つの音をクリアに弾き分けているのに、音は重くならないし、スピード感も失われない。ダイナミックな場面では楽器を十分に鳴らしているのに、音が飽和しない。
その一方で、アップテンポの部分でのノリの良さと、リリカルな楽想での柔らかくて人懐っこい表情は、彼の方が上野をリードしているようにも聴こえます。伴奏と言うよりは上野のサックスと対等で強固なパートナーシップは、境界を越えた忘我・恍惚状態を音で表現した逢坂の意図に沿うものと言えるのではないでしょうか。
鮮烈なオープニング曲に続く、フェルナンド・デュクリュックのソナタ、アンリ・トマジの「バラード」、フランク・マルタンの「バラード」というフランス系の作曲家(マルタンはスイス人ですが)が書いた名曲でも、上野が奏でるサックスの音は生き生きと振る舞い、エスプリに満ちた洒脱な音楽の味わいを明らかにしています。
しかし、響きの透明さや軽やかさ以上に、心の琴線に触れるような哀愁が耳と心をとらえて離しません。
中でも、トマジの「バラード」には強く惹かれます。
原曲は1938年にアルトサックスとオーケストラのために書かれた作品で、イギリスの古謡と、スコットランドの舞曲、そしてブルースの要素が取り入れられています。静と動、明と暗が交錯しながら、作曲者の妻のスザンヌ・マラールのファンタジックな詩の世界を描いていく。
舞曲のパートでの、高度なテクニックを駆使した華麗な演奏も魅力的なのですが、冒頭から奏でられるイギリス民謡風の静かな旋律での、哀愁を帯びた優しい歌が胸に沁みます。
昨年の秋にNHK-BSで放送された音楽番組で、上野がこのトマジの「バラード」を吹くライヴ映像を見ましたが、その際に併せて流されたインタビューでは、彼はこんなことを言っていました。
「トマジのバラードには、散っていく、あるいは枯れていく美しさがある。何と言えばいいか、背中から漂う哀愁が感じられる作品です」
このアルバムでは、まったくその言葉通りの演奏を聴くことができます。
上野は、アーチ状の旋律の稜線を描くとき、下降する曲線をいかに美しく奏でるかに細心の注意を払っているように思います。一つのフレーズを静かに閉じるときの、音の「消え際」の美しさはいかばかりでしょうか。特にロングトーンでの減衰曲線のなめらかさと、音が完全に消える瞬間の息遣いの完璧さには、ただただ惚れ惚れとします。
彼の儚く消えてゆく響きへの繊細にして周到な配慮は、まさしく「散っていく、あるいは枯れていく美しさ」への哀惜から生まれたものに違いありません。
人生の折り返し地点を過ぎ、下り坂を歩み始めた私には響く音楽です。
日々の生活のあれこれに疲れ果て、自分の愚かさと小ささに無力感を抱きながら、ただ一人、黄昏の風景の中に融け込んでいく。でもまあいいか、明日は明日の風が吹くさと自分に言い聞かせ、とりあえず微笑んでみる。そんな心象風景を重ねたくなるような音楽の風情が、やたらと沁みるのです。
何事も成し遂げられなかった一日の終わり、こういう音楽を聴いて眠りに就きたい。今日出会ったささやかな幸せを胸に抱きながら、めぐり来る明日を生きる力を得たい。そう思わずにいられないような、たまらなく愛おしい音楽です。
トマジの曲と同じ年に書かれたマルタンの「バラード」は、ライナーノートでオヤマダアツシ氏が書かれているように、「単一楽章のドラマティックな、そしてサクソフォンの表現力を極限まで試すかのような力作」で、高い技巧と幅広い表現力を要求する難曲ですが、上野も山中も持てる技術を惜しみなく投入して、渾身の演奏を繰り広げています。
特に曲の末尾2分間ほど、モダンな音の構築の中で、果てしなく高揚していくあたりの力感溢れる表現は、実にダイナミックです。しかも、ただ力で押していくだけでなく、旋律線に隠された細かいニュアンスを丁寧に描きながら、じっくりとヴォルテージを上げていくあたり、彼らの鋭敏な感性と洗練された知性を感じます。
しかし、この曲でもトマジ同様、音の「消え際」、音が無へと収斂していくさまが心に残ります。フレーズの着地点をきれいに響かせることができるのは、ブレスコントロールの巧みさゆえなのでしょうが、その高いテクニックは器楽的と言うより声楽的であるように感じます。例えば、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの全盛期の歌のような。サックスのリードではなく、人間の声帯で作ったような「消え際」の響きには血が通っていて、決して冷たい印象を与えない。そこが素晴らしい。
この「バラード」は特にプログラムを持たない純音楽で、成立背景について語られることもありません。しかし、上野が奏でる「消え際」の響きに耳を傾けていると、第二次世界大戦前夜を生きた人々の、世界から急速に失われつつあったものへの強い思いと、滅びへの危機感が反映されているような気がしてなりません。それはあまりに感傷的な聴き方でしょうか。
1943年に作曲された4楽章からなるデュリュックのソナタもまた、サックスという楽器が最も良く鳴るように書かれた作品で、華やかさで技巧的なパッセージと、憂いを秘めたリリカルな旋律が耳に心地良い。
上野の演奏は、トマジとマルタンで述べたことがすべて当てはまります。彼はヴィオラ版の音型をとり入れて、より技巧的に映える演奏を繰り広げているのですが、それ以上に、情感豊かな歌と、静寂の中にしみ込んでいくような「消え際」が美しい。
山中のピアノも、逢坂の曲で述べた通り、上野との息の合ったアンサンブルと、それぞれの音楽の個性を大切にした表現が好ましい。その音楽の把握力と、自らの伴奏者としてのポジショニングの職人芸的な確かさは、彼の作・編曲家としてのキャリアが生きているのでしょうか。彼と同様にピアニストとしても活躍する作曲家としては、最近ではトーマス・アデスの例がありますが、彼の弾く独奏曲も是非聴いてみたいものです。
アルバムの最後に収められた藤倉大の「ブエノ・ウエノ」は、林英哲の和太鼓とサックスのデュオという風変わりな編成の曲ですが、ここでは他の曲とはまた一味違った上野耕平の音楽の魅力が花開いています。
「ブエノ・ウエノ」は、私がこれまで聴いてきたいくつかの藤倉の作品と同様、誰も思いつかなかったような斬新な響きが満載の音楽です。和太鼓のずしりとした響きと、軽やかに浮遊するサックスの音色が生み出す、万華鏡のようなサウンドスケープ。サックスの特殊奏法も頻出しますし、二つの楽器が双方向に対話し、時にはまったく同じリズムを刻んだり、時には対立したりもする、そのさまが滅法面白い。
演奏は最高にエキサイティングです。おもちゃ箱をひっくり返したような驚きのサウンドに満ちた音楽を、上野と林という世代の違う二人の音楽家たちが、生き生きとした愉悦に打ち震えながら、嬉々として演奏している。そのことが、音を通じてはっきりと感じとれます。
こんなふうに、面白い響きや楽しい音のつながりをひたすら探求する上野耕平の姿は、鉄道など特定の対象に熱中するオタクのそれと重なり、何でも面白いものを見つけて遊んでしまう子供のそれとも通じます。「好き」と「楽しい」「面白い」を突き詰めるピュアな感性と情熱、それもまた上野の音楽の魅力の源泉なのだと、この「ブエノ・ウエノ」を聴いて実感しました。
とりとめない感想を書き連ねてしまいました。この「アドルフに告ぐII」という音盤の魅力をお伝えしようと意気込んでは見たものの、圧倒的な力不足でまだまだ語り尽くせません。こんなことを書いてしまうと元も子もないのですが、是非、実際にアルバムを手にとり、あるいは、マウスをクリックして音をお聴きいただきたい。その軽やかなサックスの響きが空気清浄機となり、儚い消え際を大切にした優しい歌いくちが慰めとなり、無邪気なまでに楽しさを追求した音楽の喜びが力となってくれることでしょう。
上野耕平は、コロナ禍の中、いち早くネット配信を開始するなど、新しい音楽発信のかたちを模索し、大きな存在感を示しています。メディアへの露出も多い。春から始まったFM番組ではモデルの市川紗椰と共にMCを務め、軽妙なオタクトークを交えてクラシック音楽を紹介するだけでなく、時には声優よろしく寸劇をやってみたり、リスナーからの無茶振りに応えてサックスで形態模写をやったりもして、幅広い層から人気を高めてもいます。
今後、彼が活躍の場をどのように広げていくのか、そしてどんな音楽を私たちに聴かせてくれるのか、まったく予想がつきません。この混沌とした時代、彼自身もまだ方向性を考えあぐねている部分もあるのかもしれない。しかし、彼は、時代の漂流物が浮かんだ空気を清めながら軽やかに飛翔し、私たち聴き手を今まで見たことのない場所へと連れて行ってくれるものと信じています。
「アドルフに告ぐ」の続編も、楽しみです。個人的には、今回のアルバムに収められたトマジとマルタンの「バラード」を、オリジナルのオーケストラ版で聴きたいものです。指揮はバッティストーニか、山田和樹か、はたまた未知の名指揮者か。勿論、同時代の新作もどんどん聴いていきたい。