昨年来のコロナ禍の影響で海外アーテイストの来日中止が相次ぎ、日本人演奏家の活躍の場が広がるとともに、有望な若手指揮者たちの台頭が注目を集めています。
中でも、先ごろ東京交響楽団の正指揮者に任命された原田慶太楼の活躍ぶりには、目覚ましいものがあります。1985年生まれ、アメリカとロシアで名だたる巨匠のもとで指揮を学び、国際的に指揮活動を繰り広げてきた彼はいま、NHK交響楽団(以下N響)を始めとして、全国各地のオーケストラから引っ張りだこ。各メディアへの出演を数多くこなす一方、インターネットを使った情報発信にも熱心で、音楽ファンにはとってはすっかりおなじみの存在です。
その原田慶太楼が2020年11月、N響の演奏会に登場し、主にアメリカ音楽をとり上げた際のライヴCD「Danzón(ダンソン)」が発売されました。新聞で「こんなN響これまで見たことがない」と評されたように、普段はクールなオケの面々からホットなサウンドを引き出した原田の指揮ぶりは大評判をとりました。サントリー・ホールで実演を楽しんだ幸運な方々は勿論のこと、私のように会場に足を運べなかった聴き手にとって、話題沸騰の演奏をじっくり聴けるようになったのは嬉しい限りです。
アルバムのコンセプトは「アメリカと踊り」。アメリカ合衆国のバーンスタイン、ウォーカー、コープランド、そして、アルゼンチンのピアソラ、メキシコのマルケスと、南北アメリカの作曲家たちの作品が5曲収録されていて、ウォーカーの曲以外はいずれもダンスのために書かれた音楽です。
ライナーノートには「このCDを聴いて、体を動かして楽しんでほしい。ダンス・パーティだもの」という原田の言葉が紹介されていますが、まったくその通り、「それより僕と踊りませんか」と誘いかけてくるようなアルバムで、聴いていて思わず体が動いてしまうような楽しさに溢れています。
冒頭を飾るのは、バーンスタインの「オン・ザ・タウン」からの3つのダンス・エピソード。ここでの原田とN響の演奏は、ライナーノートで山田治生氏が書かれているとおり、「軽快でキレのよい」もの。ジャズやブルース、ラテン音楽などの要素をふんだんにとり入れた、多彩なリズムの躍動をめいっぱい楽しく表現していて気持ちいい。小気味よく刻まれる打楽器の俊敏なリズムや、時折裏拍に入る合いの手は鋭くてパンチが効いていてカッコ良く、管楽器のソロやアンサンブルの粋な節回しにはつい頬が緩んでしまいます(特にクラリネットとトランペット)。
とは言え、若き日のバーンスタインの自作自演のようなやんちゃな疾走感や、欲望をギラギラと剝き出しにした猥雑さはなく、あらゆる音の運びには落ち着きがあって、全体的に落ち着いたアダルトな雰囲気をたたえた演奏になっているのが面白い。
だから、音で描かれたニューヨークの街の風景には人間の営みが隠蔽化されたようなクリーンさと静けさがあり、第2曲「Lonely Town(孤独な街)」の歌が聴後に強い余韻を残します。この曲の「愛がなければ、この街は空っぽな場所だ」という歌詞への連想が、昨年、私たちが目にした、人通りが途絶えて空っぽになった街の記憶を、呼び覚ますからなのかもしれません。
孤独な街とは、刺さる言葉です。緊急事態宣言もまん延防止策も関係なく賑わい、無観客でオリンピックが開かれる街は孤独じゃないのか、そこに愛はあるのか、実は空っぽなんじゃないか・・・などと、ついつい考えてしまいます。
そんな音楽とは関係ないことを思わずにいられないのは、原田とN響の演奏が、聴き手の想像力をかき立てる力をもっているからこそのこと。バーンスタインの音楽をこよなく愛する聴き手として、彼の作品に新しい光を当ててくれる演奏の登場を心から歓迎します。
極上のエンターテインメント「オン・ザ・タウン」に続いては、ウォーカーの「弦楽器のための叙情詩」が静かに始まります。
ウォーカーは12音技法を用いた硬派な曲を多く残した作曲家ですが、この曲には明確な調性をもった哀感あふれる美しい旋律があって、とても聴きやすい。弦楽合奏が生み出す透明なハーモニーが緊張を孕んで膨らんでいき、やがて緩やかに解決していく。そんなプロセスを何度か繰り返しながら、波が引いていくように哀しみが消えていくさまが、トランキライザーのように心に作用します。
原田とN響は、いくつかの既存盤よりも1分近く長い時間をかけ、音楽に内在する静かなドラマを丁寧に、そして節度をもって表現していて好感を持てます。休符の間のとり方が自然で、終盤に途切れ途切れに歌われる旋律が、ひとつながりのモノローグのように聴こえるのもいい。これまで触れる機会の乏しかった秘曲に、上質な演奏を通じて出会えたことは大きな喜びです。
安堵に満ちたウォーカーの音楽の残像が消えぬうち、次はピアソラの「タンガーゾ」冒頭の低弦の呻き声のようなモチーフがそっと忍び込んできます。この2曲の絶妙のつながりを中断なく聴けるのは、音盤ならではのメリットです。
「タンガーゾ」は、前半は弦楽アンサンブルによる哀しみと痛みを孕んだ歌、後半はピアソラ節が炸裂するタンゴという独特の構成を持った曲。そのサウンドは都会的で洗練されたものですが、人間の根源的な欲望を昇華したようなエロティックな音の動きと絡み合い、次第に熱を帯びていくさまは、愛する二人が体を密着して踊りに没入していく姿を思わせます。軋みを上げて上下する弦のグリッサンドは、ソーシャルディスタンスという言葉が飛び交う中、触れ合って情を交わすことさえままならなくなった恋人たちの、心の叫びのようにも聴こえてしまいます。
N響の管楽器奏者の巧みなソロ(特にホルン)、弦の濃密な歌、オケ全体の緊密で引き締まったアンサンブルなど、聴きどころ満載の演奏ですが、タンゴのリズムが厳格にキープされ、響きが錯綜しても常に聴きとれるよう万全の配慮がなされていることに唸りました。こうしたきちんとした職人芸が土台にあるからこそ、聴き手は安心してダンスのリズムに身を委ねられるし、同一モチーフの反復によってヴォルテージも自然に上がっていく。指揮者もオーケストラも、人間と音楽の生理をよく理解した上で、ピアソラの音楽を演奏していることがよく分かります。素晴らしい。
「タンガーゾ」の暗い官能が闇の中に沈んでいくと、今度は爽やかな朝日を思わせるコープランドの「アパラチアの春」の清冽な響きが耳を捉えます。
19世紀アメリカの開拓地を舞台に、若い男女の結婚式を描いたバレエ音楽で、素朴で楽しげな祝福のダンスのリズム、賛美歌に基づくシンプルな旋律、そして、原田が述べているように、幅広い音程をもった和音で構成され、調性を決定する音程を持たない「オープン・ハーモニー」が印象的な曲です。
原田とN響は、このコープランド特有のハーモニーを、どちらかと言えば暖色系の音色をもってソフトに描き出しています。私がこれまで聴いてきた演奏のように、各楽器から硬質な音を引き出して重ね合わせ、クリスタルのような輝きをもった響きをつくるよりは、音量を抑えた音をやわらかく束ね、淡くて儚げな光を描き出そうとしているようです。
これはもしかするとコントラバス4本(テレビ放送時に確認)という、弦楽器の編成の小ささから導かれた響きなのかもしれませんが、一人一人は無力で弱々しくても、手をとり合っていけば生きていけるとでもいうようなあたたかさがあって魅力的です。
一方で、結婚式の場面で奏でられるダンスでの生命力に溢れた躍動感と、シェーカー教徒が歌う賛美歌での力強い人生肯定の響きには、胸を打たれずにはいられません。
しかし、コーダでの黄昏色をした満ち足りたハーモニーに浸っていると、コロナの前には普通にあった日常生活への郷愁のような感情が胸にこみ上げてきます。本来ならば祝福されて結婚するはずだった人たちも、どれほど中止や延期を余儀なくされただろうか、以前のような日々は二度と戻ってこないのではないかと不安になる。
でも、血の通ったぬくもりと明朗な響きを持った原田とN響の演奏には、希望を宿した光がいつもどこかにある。聴いていて、どんなに過酷な状況でも、必ずまた日は昇り、明日という日が間違いなくやって来ると思えてくる。いい音楽だなとしみじみと思います。
アルバムの最後に収められたマルケスのダンソン第2番は、1994年に初演されてたちまち人気曲になり、21世紀に入ってドゥダメルが指揮するベネズエラのユース・オーケストラが世界各地で演奏して一世を風靡し、今も愛奏されている曲です。キューバからメキシコに入って流行したダンソンのリズムに基づいて書かれ、クラリネットのソロによって提示される物憂げなメロディと、ノリノリのリズムに乗って繰り広げられる情熱的なダンスにはいっぺんに惹きつけられてしまいます。
少し前、この曲を指揮する原田の姿をテレビで見て、古い映像で知った往年のタンゴの巨匠、フアン・ダリエンソの指揮ぶりを思い出しました。世代のまったく異なる二人の指揮者は、オケに縦の線を揃えるための目印を示すのではなく、曲の核となるリズムを体全体の動きで示し、楽団員を鼓舞してより強い表現へと掻き立て、音楽に熱い生命を吹き込むことに全身全霊を込めている。その所作は時に厳しく、時にユーモラスで、キビキビと引き締まったテンポで音楽をぐいと牽引していきます。
視覚情報を欠いたCDからでも、そんな原田の仕掛けにオケが乗せられ、ダンソンのリズムを生き生きと奏でているさまが聴きとれます。終盤に至ってはパーカッショングループが打ち込むロックのようなタテノリのビートを原動力に、熱狂と興奮の渦を巻き起こしているのが分かる。テンポが早めで、オケの編成が通常より小ぶりな分、音の動きは軽やかにして俊敏で、叩きつけるような激しさが際立っており、爽快なことこの上ない。時折やられるようにオーケストラは立って演奏していないし、客席から手拍子も起きてもいませんが、この音楽が持つ途轍もないパワーは十分に伝わってきます。
私自身は、初演から間もなく録音されたケリ=リン・ウィルソン盤(Dorian)や、マルケスと同郷のアロンドラ・デ・ラ・パーラ盤(Sony Classical)のように、トラディショナルなダンソンのスタイルを意識して、最後まで優雅なヨコノリのムーヴメントを守るスタイルにも惹かれているのですが、この鮮烈なリズムが横溢した演奏が魅力的なものであることに疑いの余地はありません。
ここまで個々の曲について書いてきましたが、「いま、ここ」で鳴り響く音楽をマインドフルネス的楽しんだあと、改めて「Danzón」というアルバム全体を俯瞰してみれば、これら5曲の間に、興味深い共通点がいくつか見出せることに気づきます。
例えば、5人の作曲家とアメリカ合衆国との関係性に着目すれば、「移民」という言葉が浮かび上がってくる。アメリカ人のコープランドとバーンスタインはロシア系、ウォーカーはアフリカ系移民の子であり、アルゼンチン出身のピアソラとメキシコ出身のマルケスは一時期アメリカに住んでいた。
さらに、収録曲のジャンルはすべて「ヨーロッパ」由来のものです。ミュージカル、バレエ、タンゴ、ダンソン。「叙情詩」の原曲である弦楽四重奏という形態も同様です。また、「アパラチアの春」に出てくるプロテスタントのシェーカー教派もまた、フランスからイギリスを経てアメリカに伝えられたものです。
これらを並べて見ると、アメリカが巨大な移民国家であり、その文化の多くはヨーロッパに起源を持つことがたちまち了解できます。しかし、青年期にアメリカで音楽を学んだ原田が「BLM(Black Lives Matter)」との関連でアフリカ系のウォーカーの曲をとりあげたことの意味を思えば、建国以来今もなお根深く存在し、トランプ前政権下で露呈した人種差別、による分断や矛盾が思い浮かんで胸が痛くなったりもする。
こうした選曲に政治的な主張が込められているとはまったく思いませんが、人々の暮らしと結びついたダンス音楽も、社会の動きとは無関係ではいられないということを改めて実感します。
あるいは、「調性音楽」という切り口で、シェーンベルクが提唱した12音技法以降、調性音楽が20世紀後半のアメリカを中心に大衆文化の中でどのようにして生き残ったか、その過程をたどりながら聴くのも面白い。
というように、このアルバムをより深く楽しむための視点は、ほかにももっと存在するはずです。原田の指揮、そして久々にコロムビアに登場したN響の演奏ぶりに耳をこらしてその良さを深く味わうのも良し、若い指揮者ののびしろの部分から彼の将来の姿を想像するのもまた良し。
しかし、そんな楽しみを得るためには、原田からの「それより僕と踊りませんか」という誘いに乗ってみることが前提条件となります。オムレツは卵を割らなければ作れない。
聞くところによれば、原田とN響がこの5月に共演した折の演奏も、コロムビアがライヴ録音したのだそうです。このコンビが、今度はどんなふうに私たちを楽しませてくれるのか、期待に胸が膨らみます。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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