アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルの最新盤、生誕100周年を記念して日本初演されたピアソラの2台のバンドネオンとオーケストラのための「シンフォニア・ブエノスアイレス」と、プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」からのセレクションを組み合わせた一枚がリリースされました。
衝撃的だったレスピーギの「ローマ三部作」からはや8年、バッティストーニのコロムビアからの通算15枚目となるアルバム。今年(2021年)5月16日、Bunkamuraオーチャードホールにておこなわれた定期演奏会を丸ごと収めたもので、ストラヴィンスキーの「春の祭典」以来4年ぶりのライヴ盤となります。オリジナルの編成では世界初録音(既発の2枚はいずれもバンドネオン1台での演奏)となるピアソラでは、バンドネオン奏者、小松亮太と北村聡が参加しています。
ダンスと深く結びついた20世紀の管弦楽曲を並べた意図は、バッティストーニ自身がライナーノートに寄せた文章に記されています。つまり、「ロメオとジュリエット」の舞台であるヴェローナ(指揮者の生地でもある)とブエノスアイレスという二つの街と、ダンスのリズムとオーケストラの多彩な表現への愛を共有する二人の作曲家へのオマージュなのです。また、バッティストーニ曰く、「シンフォニア・ブエノスアイレス」にはプロコフィエフの音楽からの影響が顕著とのこと、強い必然性を感じての選曲なのだろうと思います。
ここに収録された演奏会は、コロナによる緊急事態宣言発令下、開催が危ぶまれたものの「奇跡的に」おこなわれました。当日、会場に足を運べなかった聴き手にとって、せめてこうして優秀な録音を通して聴けるようになったのは嬉しい限りです。
さて、このアルバムを聴いて第一に感じたのは、バッティストーニの音楽が少し変わってきたな、ということでした。
もちろん、「ああ、これぞバッティストーニ!」と言いたくなる場面には事欠きません。これまでCDや実演を通して楽しませてもらってきた、ダイナミックにしてパワフルな音楽の運び、オーケストラから引き出す明るく輝かしい響きと、繊細にして蠱惑的な歌、それらはどれも期待通りに味わうことができます。テンポやリズム、音色、響きといった音楽に内在する個々の要素に明確な性格づけがなされ、それら相互の動的・静的な関係の変化が手にとるように見えるのもいつも通り。ただ、音楽の内部にある意味論的な領域で、以前とは違うものが感じとれるようになった、と言えば良いでしょうか。
そうしたバッティストーニの地殻変動的な変化は、どちらかと言えばプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」で、顕著に見てとれます。
1935年に書かれたバレエ音楽から作曲者自身が編んだ組曲のうち重要な9曲を選び、シェークスピアの原作に沿って並べて演奏したセレクションで、1950年代に録音されたディミトリ・ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルのLPの前例に倣った選曲。45分を要する一大交響詩として編まれていて、バーンスタインのミュージカル「ウエストサイド物語」同様、「シンフォニック・ダンス」と呼びたくなります。
例えば、あの有名なバルコニーシーンで演奏される「ロメオとジュリエット」(トラック8、第1組曲第6番)。そう、ジュリエットがひとり「ロメオ、ロメオ、あなたはどうしてロメオなの」と呟いていると、木陰でそれを盗み聞きしていたロメオが飛び出してきて二人が愛を交わし、抱擁のうちに結婚を誓う場面の音楽。
バッティストーニと東京フィルは、幅広い音域で息長く歌われる旋律でこぼれんばかりに流麗なカンタービレを聴かせ、細かな音の動きにはダンサーの踊りのような軽やかさとしなやかさを与えてハーモニーを豊かに彩り、二人の愛の昂揚を濃密に描いていきます。二度にわたる大きな盛り上がりを経て、二つの心が互いを憧れ求めて強く結びつくさまが、音のドラマとしてありありと感じとれる。
ただ、各フレーズの音型やリズムは明瞭に性格づけされ、表現にもたしかな強度があるのだけれど、それらは明るいとか暗いとか、熱いとか冷たいとか、一つの形容詞では語りきれない複雑なニュアンスをたたえていて、ある種の多義性を獲得している。誤解を恐れずに言えば、「あいまいさ」がある。
冒頭、フルートとハープ、そして弱音器をつけた弦楽器がトレモロで奏でる8分音符の音型でのリズムと、続けて第1ヴァイオリンがドルチッシモ(とても優しく)、エスプレッシーヴォ(表情豊かに)に奏でる旋律が好例です。バッティストーニと東京フィルは、ソフトフォーカスをかけたような音像と、動いているのか静止しているのかさえも判じがたいような漠とした足どりで、音楽を進めていきます。
音楽評論家で指揮者の金子建志氏の解説によれば、前者はジュリエットの胸の鼓動を、後者はあのロメオへの呼びかけを暗示しているそうですが、このあいまいさを宿した表現の中でこそ、聴き手はイメージを限定されず、自由に想像を羽ばたかせることができます。
二度目の頂点に達したあと、徐々に鎮まっていく音楽もそうです。愛の余韻さめやらぬ中、ロメオがジュリエットの家を去り、残された彼女がまたロメオに問いかける場面ですが、すべてを明晰に語らきらず、暗喩的な「含み」に表現をとどめておくバッティストーニの手つきが実にいい塩梅で、後ろ髪引かれつつ足早に去っていくロメオの後姿と、それを見守るジュリエットの姿を、穏やかで切ない余情のうちに、むしろリアルに思い描くことができます。
さらに、ティボルトを殺して追放されたロメオがジュリエットに別れを告げる「別れの前のロメオとジュリエット」(トラック10、第2組曲第5番)、そして大詰めの「ジュリエットの墓の前のロメオ」(トラック12、第2組曲第7番)でも言えます。どちらも悲劇の核心となるドラマティックなシーンの音楽で、クライマックスでの痛烈な表現は間違いなく心に残りますが、前後に微妙な表情をたたえた音楽がドラマを引き立てています。
そして、「仮面」(トラック7、第1組曲第5番)での不穏な空気や、「修道士フローレンス」(トラック11、第2組曲第3番)の慈愛に満ちた含蓄が、あやふやな表情の中で様々な可能性を含んで表現されているのも、いい。
しかし、人間は見たいものを見、聞きたいものを聞く生きものです。解剖学者の養老孟司氏によれば、人間の脳が処理する視覚情報の9割は脳内からの入力で、外部からは1割とのこと。聴覚も同じかもしれないと心配になり、レスピーギの「ローマ三部作」のCDを聴き直してみました。
すると、「ローマの噴水」の終曲「黄昏のメディチ壮の噴水」などで、既にこの「あいまいさ」が彼の演奏にあることに改めて気がつきました。ただ、音楽の背後に込められた気配の豊かさと情報量、意識下に潜むエネルギーの強さは俄然違います。私がバッティストーニの音楽に「変化」を感じたのは、あながち間違いでもないと思いました。
例外的に「ティボルトの死」(トラック9、第1組曲第6番)では、期待通りの爆演が聴けます。快速テンポで駆け抜けるティボルトとマキューシオの決闘シーンでの手に汗握るアンサンブルと、ティボルトが死んでからの3拍子の葬送行進曲での慟哭は激烈そのもので、ここまで例示してきたフワフワした音楽と好対照をなしています。激しさと静けさの間の中間色的な表現がより多彩になったと言うべきでしょうか。
それに伴って、彼のトレードマークでもあったケレン味あふれる大胆な表現は影を潜め、音楽全体の外見が実にオーソドックスなものになっているのも見逃せません。しかも、歳を重ねて無難な演奏をするようになったという白けた風情は皆無で、尖ったままに自省を深めて中庸に達したとでもいうような説得力を感じて好ましい。
バッティストーニの進境、深化を刻み込んだプロコフィエフ、私は存分に堪能しました。
一方、ピアソラの「シンフォニア・ブエノスアイレス」は、私たちがよく知っているバッティストーニの魅力全開の音楽です。
この曲は、一時期クラシック音楽の作曲家を志していたピアソラが、1951年に作曲した急―緩―急の3楽章からなる交響曲。これを指揮者ファビエン・セヴィツキー(名指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーの甥)主宰のコンテストに応募したところ第1位を受賞、それがきっかけでフランスへの留学を許可され、彼は名教師ナディア・ブーランジェと運命的な出会いをすることとなります。ピアソラの音楽的アイデンティティがタンゴにあることを見抜いた師から「タンゴを捨ててはいけない」と言われたことで、彼はタンゴの道を究める決意をした。彼の人生の最も大きな転換点を導いた、重要な作品と言えます。
曲は厳密に古典的な交響曲の形式に則って書かれた訳ではなく、彼が好んだクラシック音楽からの影響が見られるとともに、3+3+2のタンゴのリズムが全体を支配していて、後年のピアソラの音楽を予告する要素が随所に見られます。オーケストラの一員として2人のバンドネオンが弾くのが珍しい(YouTubeにあるアラルコン指揮フランス放送フィルの演奏では、2人の奏者が協奏曲のようにオーケストラの前で弾いています)。
聴きどころ満載の曲、演奏で、取り上げられることの少ない「秘曲」の魅力を聴衆に伝えようという指揮者の強い意志が感じられます。
特に、強烈にビートを刻む打楽器のリズムをエンジンとして、猛烈なスピードと大音響で爆走する第3楽章は、聴いていてじっとしているのが難しいくらい、腹の底に響きます。終盤、下降音型を畳みかけるように反復し、いやが上にもヴォルテージを上げていくプロセスも見事に決まっていて、胸のすく思い。以前、彼らが聴かせてくれた「ローマの祭り」の終曲「公現祭」や、外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」の「八木節」、あるいはヴェルディのオペラの幕切れでの猛烈なストレッタでの凄演を想起せずにはいられない。ノリのいいクラシック音楽を聴きたいとき、ストレス解消したいときに聴くにはうってつけの曲であり演奏です。
第1楽章のモダンでカッコいい音楽も、第2楽章のストラヴィンスキーの「春の祭典」からバーバリズムを取り除いたような神秘的な歌の妖しさも魅力的。後者では、プロコフィエフのところで述べた「あいまいさ」も随所で生かされていて、音楽の多義的な味わいを増しています。
バンドネオンで参加した名奏者、小松、北村の演奏も、出番は少ないながら、オーケストラと一体となって(音量面などで過酷な環境だったと思いますが)ピアソラの音楽の内部を熱く生きていて、耳をそばだてられます。
ナクソスとシャンドスから出ている既発盤もなかなかいい演奏ですが、バッティストーニ盤は当面、この曲のぶっちぎりの代表盤としての位置を独占するのではないでしょうか。
もう一つ、このアルバム全体を聴いていて、バッティストーニと東京フィルの結びつきが一段と深まっていることを再確認しました。バッティストーニの変化も、チョン・ミョンフンら名指揮者たちと共演を重ねながら技術を磨いてきたオーケストラの成果に、大きな影響を受けていることでしょう。両者の個性は、もはや分かちがたく一体化しているようにさえ思えます。
指揮者とオーケストラのコンビネーションが熟成するには時間が必要ですが、彼らは初共演から10年近くを経て、良い形でエージングを重ね、こんなにも「いい音」を生み出しているのだろうと思います。
私はバッティストーニと東京フィルの実演を、残念ながら2年以上聴けていません。いろいろな事情が重なっているのでやむを得ないことと承知しているのですが、今回のアルバムを聴いて、彼らの演奏を実演で目の当たりにしたいという思いが募りました。同時に、彼らのこれからの絆の深まりの軌跡を、音盤を通してずっと聴き続けていきたいとも思いました。
コロナ禍はいまだ収束せず厳しい状況が続いていますが、この名コンビの幸福な共同作業が一日でも長く続き、私もその豊かな成果に触れられますようにと、心の底から願わずにいられません。
ところで、ここで私が「あいまいさ」と呼んでいるものを、バッティストーニはいつ、どうやって手に入れたのでしょうか。いろいろと考えているのですが、日本との深い関りの中で得られたのではないかという気がしています。
あいまいさは日本人の言語、コミュニケーション、文化、政治、ありとあらゆるものの中で重要な位置を占めています。大江健三郎がノーベル文学賞の受賞講演で述べたように、それは西洋人からは理解しがたいものでもあり、日本の歴史を振り返ってみれば省みなければならないことも多いはずですが、「あいまいさ」が生む「美」は間違いなくある。
バッティストーニはこれまで何度も来日して日本人と交流を深め、「BEYOND THE STANDARD」シリーズでは日本人作曲家の音楽をとり上げました。伊福部昭、武満徹、吉松隆、黛敏郎、外山雄三。その過程で、彼自身の美意識の中に、日本の文化にある「あいまいさ」がすっと入りこんだのではないか、とそんな気がしてならないのです。そんなのは妄想だろうと言われてしまうかもしれませんが、「あいまいな日本の私」はそうであってほしいという願望を抱いています。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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