音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.100

クラシックメールマガジン 2021年12月付 最終回

~Bon Voyage! ~ 「無伴奏フルートの世界」、「Piazzolla」、「藤倉大:箏協奏曲」 ~

クラシック音楽を聴くようになって、今年でちょうど45年になりました。振り返ってみれば、ずいぶん長い旅路を歩んできたように思います。心動かす音楽に出会うたび、聴く前とは違う場所にいる自分に気づく、そんな旅を繰り返してきたからです。
私がたどってきた道筋には、いくつもの音盤があります。何度も訪れるお気に入りのもの、その後に進む方向を変えたもの、忘れがたい時間の記憶が刻まれたものがあり、それぞれがかけがえのない意味を持っています。もしもこれらの場所を通ってこなければ今の私とは違う人生を歩んでいたかもしれないし、これからもずっと音楽を求めて旅を続けるのだろうと思います。
聴き手がそうである以上に、音楽家こそは、生涯をかけた音の旅人に違いありません。もっと良い音、もっと美しい響き、まだ誰も聴いたことのない新しい音楽を探し求め、日々、歩き続けている。
であるならば、音盤とは、音を求める旅人たちが出会う交叉点です。音楽家が旅の足あととして残したその場所を、あとから無数の聴き手が時を選ばず訪れ、思い思いのひとときを過ごす。そこで他の誰とも交換不可能な体験を得て、音楽が鳴りやめば別の場所を目指して歩き出す。何度も足を運びたくなるような場所を人は愛聴盤と呼び、多くの人たちが引き寄せられる場所を名盤と呼ぶのでしょう。
美しくも愛おしい交叉点を見つけました。
フルート奏者、有田正広の「無伴奏フルートの世界 ~パンの笛 400年の旅」(COCQ-85528)、チェリストの宮田大がアストル・ピアソラの生誕100周年を記念して録音した「Piazzolla」(COCQ-85532)、そして、箏曲家LEOが藤倉大への委嘱曲を録音した「箏協奏曲」(COCQ-85538)の3枚です。
いずれも優れた音楽家たちの実り多き旅の通過点であり、聴き手との間に幸福な対話を生み出すタイムマシーンです。月を追って1枚ずつとり上げるのがもどかしいほどに胸を打たれたので、まとめてご紹介したいと思います。

探究の旅 「無伴奏フルートの世界 ~パンの笛 400年の旅」 有田正広(Fl)


副題の通り、1585年から2020年まで400年余りの期間に書かれた無伴奏フルート作品を、作曲当時の楽器で演奏したアンソロジー。1998年録音の名盤「パンの笛〜フルート、その音楽と楽器の400年の旅」の続編といえる内容です。
ここに音として刻み込まれたのは、一人の音楽家による「探究の旅」の足あとです。
「音楽と楽器の400年の旅」という副題が象徴するように、楽器の時代性に着目して過去の音楽に向き合い、人がどうやって音楽と関わってきたか、音楽や楽器はどのように変遷してきたかを探る旅。そして、フルートの原型として知られる横笛よりもさらに歴史の古い「パンの笛」(葦でできた縦笛)に思いを馳せ、人はなぜ笛を吹くのか、いや、人はなぜ音楽を奏でるのかという、根源的な問いへの答えを追い求める旅でもある。
その探究のありようは、アカデミックなものです。曲によって楽器を持ち替えるだけでなく、ピッチを細かく調整し、各曲に相応しい演奏スタイルや奏法に則って演奏するなど、音楽学的、時代考証的な配慮が隅々にまで行き届いているのです。J.S.バッハのソナタのように、何度も演奏と録音を重ね、新しい解釈を追い求めている曲もあります。
しかし、そんな求道的なまでの探究から生まれた音楽は、なんと愉しく、なんと美しいことでしょうか!
どの曲も隅々まで考え抜かれ、豊かなニュアンスを込めて奏でられているのに、あたかも即興演奏のように、音楽がいまここで生きて呼吸をし、語り、躍動している。たった一本の笛から、これほどまでに豊饒な世界が生み出されるということに驚かずにはいられません。
そして、音楽の喜びに満ち溢れた達人の技に酔いしれるうち、人はなぜ音楽を求めるのかという前述の問いの答えとは、「そこに喜びがあるから」という、ごくシンプルなものなのだと思えてきます。
ライナーノートのエッセイにある通り、有田は少年時代に音楽に出会い、古道具屋で木製フルートを見つけた。そのときの初々しい感動と地続きのピュアな喜びが、彼の探究の旅の原点であり、そこへの回帰こそが究極の目標なのだという確信が、演奏の端々からヴィヴィッドに伝わってくるからです。私自身の中でも、遠い昔にベートーヴェンの音楽を初めて聴いたときの胸の高鳴りがありありと蘇り、心を激しく揺さぶられました。
70歳を超えてなお旺盛な活動を続け、本作の続編も録音済という有田にとって、これほど優れた内容の音盤でさえも、長い旅の通過点に過ぎないのでしょう。しかし、これが長年にわたって音楽を探究してきた人がたどりついた、一つの到達点であることに疑いの余地はありません。

再創造の旅 「Piazzolla」宮田大(Vc)、山中惇史(P)、ウェールズSQ、三浦一馬(バンドネオン)


クラシック音楽とは再現芸術であると捉えれば、有田が見事に実践したように、楽譜を徹底的に研究して楽曲の解釈を深めていくのは、演奏家にとって絶対に避けて通れないプロセスであり、不変の王道です。
しかし、すべてがめまぐるしく変化する現代においては、異質な音楽を自らの遺伝子に組み込み、新しい聴き手を獲得していく取り組みが欠かせません。だからと言って、異なるジャンルの音楽を無批判に結びつけてみたところで、何も生み出せはしない。もうそんなものにはすっかり飽きてしまった。
その点、チェリスト、宮田大の新盤「Piazzolla」は、ありがちなクロスオーバーなんかじゃありません。オビの宣伝文句にある「ジャンルを超越した」ものでさえもなく、「クラシック音楽」のど真ん中に置いても違和感のないアルバムです。
宮田を始め、ピアノの山中惇史、ウェールズ弦楽四重奏団といった面々が、ピアソラの楽曲のエッセンスをクラシックの流儀で再構築し、彼らが普段向き合っている音楽に対するのと同じスタンスでピアソラに対峙しているからです。それはもはや「再創造」と呼びたくなるほどにクリエイティヴな挑戦であり、ときに凄みさえ感じさせるほどの迫力に満ちた演奏と編曲を聴くことができます。
宮田らが描いたピアソラ像は、どちらかというと辛口で硬派、スピード感あふれるモダンなものです。かつてのヨー・ヨー・マの有名なアルバムも、(良し悪しや優劣とは関係なく)牧歌的に聴こえてしまうほどです。
ピアソラ再創造を力強く牽引する宮田のチェロの美技には、まったくほれぼれします。凛としたノーブルな音色、歌心に溢れたカンタービレ、精確無比なメカニック、堅固なまでの構築力、彼がクラシックのチェリストとして鍛錬してきた技術は、ここでも十全に生かされています。
ピアニスト・作曲家・編曲家として活躍する山中惇史のアレンジも見事な遺伝子操作ぶり。ピアソラの楽曲は新たな生命を得て輝きを増し、演奏する音楽家たちも表現領域を拡張し、再創造の喜びを発散させている。
共演のウェールズ弦楽四重奏団、ピアニストとしても参加する山中、バンドネオンの三浦一馬らは、縦横無尽に駆け巡る宮田のチェロと丁々発止のやりとりを重ね、ピアソラの音楽の核心に鋭く斬り込んでいます。進行中のベートーヴェン・チクルスで毎回楽しませてくれているウェールズ四重奏団の鮮烈な演奏も素晴らしいし、三浦のバンドネオンが、アンサンブルにピアソラ色の彩りを与えているのも心強い。山中のピアノも、崩さず、かと言って堅苦しくもならず、ピアソラになりきっていて素敵です。
しかし、私が何より惹かれるのは、タンゴのリズム、甘さと苦みが絶妙に入り混じった旋律、そして、短調と長調の境界を漂う情趣の先にあるもの、ピアソラただ一人だけが表現し得たものが、歪められることなく正確に表現されているように思える点です。
それが何かと言えば、私には生きることの哀しみと痛み、喜びといった人間の生々しい感情の動きであり、さまざまな業(ごう)を抱えた人間の心を冷徹に、しかし肯定的に見つめるまなざしであるように思えます。そのことを宮田大のアルバムほど強く感じさせてくれたものは、さほど多くありません。
考えてみれば、音楽の核心に迫って作曲家の魂に直接触れようと努めるのは、クラシックの演奏家の使命です。ライフワークとして音楽探究の旅を続けている人たちだからこそ、ムジツィーレン(音楽する喜び)を感じながら、再創造という新しい旅をクリエイティヴなものとすることができる。宮田の「Piazzolla」は、そのことを教えてくれます。

創作の旅 「藤倉大:箏協奏曲ほか」 LEO(箏)、鈴木優人/読売日響


世はVUCAの時代だと言います。近年の急速な社会のグローバル化、テクノロジー革新によって、変動性(Volatility)、不確実性(Uncertainly)、複雑性(Complexity)、曖昧性(Ambiguity)がかつてなく高まり、社会の先行きが不透明になっていると。
音楽の世界も例外ではありません。多様化が進んで個人の音楽の好みは細分化され、どんなジャンルでも「ヒット」を生むのが極端に難しくなっている。芸術文化の分野では昔からずっとそうなんじゃないかとも思うのですが、ここ10年ほどでその流れは急激に加速している気がします。
新しい音楽を生み、世に問うのは、なおのこと困難さを増しています。何よりも経済的なリスクが高いからです。聴き手も自分が好きなものだけを追いかけるのに夢中で、まったく未知の音楽に手を出さなくなってきているという事情も、背景にはあるのかもしれません。
しかし、弱冠23歳の筝曲家LEOと、作曲家の藤倉大という二人の音楽家のコラボレーション・アルバム「箏協奏曲」を聴いていると、前述のVUCA時代のしんどさは微塵も感じられません。彼らは険しい旅路を軽々と、そして嬉々として歩いているようにさえ思えます。
ここに刻まれているのは、まだ誰も聴いたことのない未知の音たちを世界に放ち、音楽の可能性を大きく羽ばたかせようとする「創作の旅」です。
このアルバムもまた二人の旅人が出会った交叉点であり、オーケストラと箏、ひいては西洋音楽と邦楽の長い歴史の合流地点です。そして、過去・現在・未来が交錯する場所であり、音楽をめぐるあらゆる旅への出発点でもあります。音楽すること、創造することの喜びと、明日への希望に満ちた旅の行く末を、そこに見たくなる。
当盤には、2021年4月に世界初演された箏協奏曲をメインに、それに関連する独奏曲「RYU」「つき」「芯座」が収められています。協奏曲は、鈴木優人指揮読響との初演時の無観客ライヴ録音。
何と言っても藤倉はいまを生きる作曲家ですから、音遣いは先鋭的なものです。明確な調性もキャッチーな旋律もないし、刺激的な特殊奏法も随所で聴かれます。しかし、この「現代音楽」はちっとも怖くない。若きヴィルトゥオーゾLEOは高い技術と多彩な音色のパレットを駆使して、聴き手の感覚にも知覚にも心地よい違和感を生み出しているからです。そして、二人の音楽家が作った陰影に富んだ音の景色がイマジネーションを刺激し、音と響きに触れることの素朴な喜びを与えてくれています。
聴きものは、やはり協奏曲でしょうか。箏のソロはアグレッシヴですが、曲の全体を静けさが貫いているのが印象的で、原型となった独奏曲「RYU」よりもむしろそれが際立っているのが面白い。オケのマスの響きよりも、各楽器の線的な音の動きを主体に構成されていて、常に余白が残されているからでしょうか。鈴木優人指揮読響による、繊細で室内楽的な響きを大切にした演奏は、LEOのソロにそっと寄り添って、静謐な音楽の持ち味を楽しませてくれています。
こんなふうに多くの演奏家の関心を惹きつけ、聴き手を魅了する音楽が新しく生み出されなければ、探究の旅も再創造の旅も始まりません。後世まで長く聴き継がれる新作が生まれることは、作り手と聴き手の切なる願いであり、時代の要請でもあります。
当盤はそうした要求に高い次元で応えた、待望のアルバムです。彼らが再び出会う次の交叉点への期待は、いやが上にも高まります。

コロムビア創立111周年の旅


この10月1日、コロムビアは創立111周年を迎えたそうです。マーラーの交響曲第8番やR.シュトラウスの「ばらの騎士」が初演された1910年、川崎の地(現在の京急大師線港町駅前)で産声を上げて以来、戦争、災害、経営危機、そしてコロナ禍など幾多の困難を乗り越え、膨大な数のレコードを世に送りだしてきた。その激動の歴史もまた、旅そのものだったと言えるでしょう。
クラシック・レーベルとしてのコロムビアのディスコグラフィを振り返ってみれば、古今東西の優れた楽曲を最良の演奏で記録しようとする探究、他ジャンルの音楽との垣根を取り払って音楽の新しい価値を見出そうとする再創造、そして、同時代の音楽の最先端を走って羽ばたこうとする創作の三つの旅は、老舗レーベルの重要な柱であったように思います。
その旅から私たちが愛聴する音盤がいくつも生まれ、交叉点となって多くの音楽家と聴き手の心を結びつけている。文化的、社会的に見て非常に価値のあることだと思います。
今回とり上げた3枚のディスクの鮮明にして音場感豊かな録音も、特筆すべきものです。世界で初めてPCM(デジタル)録音を実用化するなど、日本を代表する録音エンジニアたちが築き上げてきた技術力は、塩澤利安氏を始めとする優秀な後継者が守り続け、日々進化させている。ここにもまた、意義深い旅の軌跡があります。
さらに、ふと気がついたのですが、これら3枚の音盤は、いずれも小笠原愛美氏のプロデュースによるものです。コロムビアのプロデューサーではもうお一方、大越美保子氏も活躍されていて、男性中心の社会に見える(偏見でしょうか?)クラシック音楽の制作現場で、女性が前線に立って優れた成果を出している。優れた音楽を生み出すのに性別は無関係ですが、人材多様化の見本のようなチームが形成されているのは、素晴らしいことだと思います。
言うまでもなく、長い年月の間には良いことばかりでなく、厳しい出来事もあったはずです。近年のCD不況も半端ではありません。先日、渋谷と新宿の大手CDショップを久しぶりに訪れましたが、売場面積が縮小され、在庫も少なくなっているのを見て愕然としました。ショップの1フロアがまるごと1ジャンルなどという時代は、過去の夢になってしまいました。音盤中毒という言葉も、そのうち意味をなさなくなるのかもしれません。
そんな過酷な状況下でも、コロムビアが心に残る音盤を提供し続けていられるのは、音楽の可能性を信じ、その無限性に賭けた人たちの情熱、音楽とアーティストへの深い愛情、そして、聴き手の支持があってのことです。「旅するコロムビア」が、私たち旅人の生活にほんのひとときの彩りと潤いを与えてくれるような、素敵な交叉点を届け続けてくれることを心から願っています。

旅の終わりに


さて、2013年5月から8年半にわたって連載してきた「音盤中毒患者のディスク案内」ですが、今回で第100回を迎えました。
連載開始時、「好きなように書いてください」と言って頂いたのを真に受け、毎月ここで好きなことを好き放題に書き散らしてきました。一体、どれほどの費用対効果をもたらせたのかと考えると汗顔ものですが、私にとっては、これもまた音楽の旅の大切な一部でした。
しかし、記念すべき節目を迎えたところではありますが、個人的な事情により、連載は今回をもって一区切りとさせていただきます。
今までご愛顧いただいた読者諸氏、ならびに、あたたかく見守って下さったコロムビアのスタッフには、心より厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
私の音楽をめぐる旅は、歩みこそスローではあっても、魅力的な交叉点がある限り、そして、そこに喜びを見出せる限り、細々と、ひっそりと続けていくつもりです。読者の皆さまにおかれましても、音盤を通して、どうか愉しい音楽の旅を続けられますように。
またどこかの交叉点でお会いできるでしょうか。
Bon Voyage!良い旅を!
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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