配信限定。それは何とさみしい言葉でしょうか。
今もなお、フィジカルな音盤で音楽を聴くことに、無上の喜びを見いだしている音盤中毒患者にとって、聴きたい音源がネット配信でしか入手できないというのは、ある種の「宣告」に近い。
しかし、音楽業界はデジタルサービスに軸足を移しつつあり、総合的俯瞰的観点からも、世の中では音楽はネット配信で聴くものになってきています。昨今のコロナ禍で、そうした傾向には、ますます拍車がかかっているのかもしれません。何しろ、少し前にツイッターで拡散されたように、若い人が「WiFiなしで音楽が聴けるCDってすごい」と言うような時代です。聴きたいものが雲(クラウド)の向こうにしかないのなら、つべこべ言わず、そちらに手を伸ばすしかありません。
私がネットで購入した配信限定音源は、コロムビアからこの夏にリリースされた、マシュー・ローの二つのアルバムです。マシュー自身が作詞作曲したポップス・ナンバーを収めた「LOST2」(これが彼のデビュー・アルバム)と、クラシックのピアノ曲を集めた「Mélangé(メランジェ)」。
そう、マシュー・ローはクラシックのピアニストとしてだけでなく、ポップスのシンガーソングライターとしても活躍するマルチ・ミュージシャンなのです。
これまで、クラシックとポピュラーの両輪で活躍するアーティストはいました。でも、「歌って、書けて、弾ける」という人はかなり珍しい。しかも、デビューからいきなり両方のジャンルのアルバムを出したのは彼が初めてではないでしょうか。制作者を前代未聞の冒険に駆り立ててしまったこの若者は一体何者?と、興味津々で聴きました。
まず、クラシックの「Mélangé」から。
アルバム冒頭、先頃惜しくも亡くなったカプースチンの「トッカティーナ(8つの演奏会エチュードより)」で、ガツンとやられてしまいました。
タイトルの語源である「トッカータ」そのままに、早いテンポでマシンガンのように音を連射する音楽。絶え間ない同音反復を縫うようにして、鋭い和音が鍵盤上を縦横無尽に駆けぬけていく、その楽器性能ギリギリを狙ったようなスピード感と、エッジの立った音が容赦なく打ち込まれるさまがカッコいい。
しかも、マシューの弾くピアノは、省エネ・静音設計のエンジンと、ハイスペックな自動運転システムを積んだ最新鋭の電気自動車のように静かに疾走していきます。どんな難所でも、耳障りな雑音を立てたり、態勢を崩したりすることもなく、汗一つかかず、涼しい顔をして突破していく。そのクールさが新しくて、爽快きわまりない。
また、時折現れる、カプースチン特有のジャジーな音遣いやポップなメロディを、クラシカルな音楽とハイブリッドに多重化し、大きく包摂していくあたりの鮮やかな手腕も見逃せません。二刀流ミュージシャンのマシューにしかできない、ユニークな表現と言えるでしょうか。
膨大な情報を多重化し、超高速・超遅延で瞬時に通信をおこなう5G時代の申し子のようなスピーディな演奏に呆然とするうち、あっという間に二分が過ぎていきます。
そうしたマシューの演奏の魅力は、バルトークのピアノ・ソナタの両端楽章でも、遺憾なく発揮されています。
カプースチン同様、そのスピード感とシャープな表現はすこぶる魅力的。ですが、ここでは短いシーケンスの反復ごとに間合いを詰め、ぐいぐいと畳みかけていく切迫感がスリリングです。音楽の前向きの加速度が上がっていくにつれ、反復による冗長さは削られ、音楽の純度が高まっていく。そのダイナミックなプロセスには、息を呑みます。同時に、ハンガリー民謡に起源をもつ土俗的な旋律や不均一なリズムも、精緻に設計された音空間の中にぴたりとはまっていて、実に気持ちいい。
特に印象に残る箇所として、第1楽章最後の14小節、Più mossoの部分(トラック7:4分6秒)を挙げましょうか。スピーディな打鍵、音域の広い跳躍、腱鞘炎になりそうなほどに音の多い和音の連打を、マシューは軽やかに、そしてシンプルにやってのけていて、痛快なことこの上ない。しかも、タテノリのビートの応酬が愉しくて、胸が躍ります。こことシンメトリックに呼応する第3楽章のコーダ(トラック9:2分37秒)AgitatoからVivacessimoへとテンポを上げていく部分でも同様のことが言えます。
対して第2楽章は、一転して静謐な音楽ですが、マシューのみずみずしい感性をもったリリシストとしての側面に出会うことができます。茫洋とした和音のエーテルの中から、ミステリアスな上向音型が立ち昇るさまを、優しい手つきで奏でるあたりは、美しい。
バルトークのソナタは、マシューにとっては思い入れのある曲なのだそうです。かつてコンクールで弾いて入賞したのだとか。現時点での完成形をスナップショットとして残すべく録音に臨んだのだそうですが、そう言うだけのことはあって、すべてが彼自身の中で完全に血肉化された演奏でした。ハンガリーの「土の香り」や、ゲンダイオンガクの始祖としての晦渋さに縛られることのない、スマートでモダン、お洒落なバルトークを堪能しました。
メシアンの「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」から「喜びの精霊の眼差し」も、かなり早いテンポで突き進む演奏で、9分近い曲を息つく暇もなく一気に聴かせてしまいます。
全体に、勿体ぶった身振りを排したストレート語り口は、今風のあっけらかんとしたもの。かつての前衛作曲家メシアンの音楽も、もはや「古典」になったのだなあ、などと分かったようなことを呟いてしまいそうになります。
バルトークのソナタで見られた、同音反復の中で時間軸を圧縮していく切迫感の表現は、ここでも際立っています。キリスト生誕を祝うピュアな喜びが熱狂を帯びていき、眩いばかりの光と鮮やかな彩りに満ちた響きの中から、人生を肯定する歌が浮かび上がってくる、そこがいい。これほど鮮やかで愉しい演奏を聴いてしまうと、マシューが弾く「まなざし」全曲を聴いてみたいと願わずにいられません。
それにしても、マシュー・ローが、オルガンを意識したような分厚い響きのパッセージを、快速テンポの中でもエッジの立ったタッチを保ったまま、切れ味鋭く弾き切っているのに驚かずにいられません。よほど手が大きいのか、指の力が強いのか、あるいは特殊な技術を持っているのか。素人には皆目見当がつきませんが、一体どんな秘密があるのでしょうか。
マシューが愛してやまないというドビュッシーの作品の中では、アルバムの最後、ベルガマスク組曲の「月の光」が最も印象に残りました。繊細なタッチから生まれる透明感あふれる音色と、澱みのない滑らかな流れがいい。メシアンの激烈きわまりない音楽の後のクールダウンには、うってつけの曲、演奏だと思います。
その他、前奏曲集第1巻からの3曲、アラベスクの2曲も、細部まで手中に収めた優れた演奏ですが、特に「沈める寺」に惹かれました。みずみずしく神秘的な弱音の美しさと、クライマックスでの決して濁らないクリアな響きが印象的でした。
この「Mélangé」、コロムビアのHPでは「リリカルで歌心溢れるピアノを聴かせる今作」と紹介されています。確かに彼のドビュッシーに対してはその宣伝文句に同意しますが、アルバム全体では、私はむしろカプースチンとバルトーク、メシアンのアグレッシヴな演奏に猛烈に惹かれました。
それは単に私の音楽の好みなのかもしれませんが、見方を変えれば、マシュー・ローのピアノに、多様な楽しみ方を可能とする大きな器があることの、たしかな証左なのかもしれません。読者諸氏がこのアルバムを聴いて、どのような感想をお持ちになるのか、是非ともお聞きしたい気がします。
さて、次はマシュー・ローのデビュー・アルバムとなった「LOST2」。
ピアノ・ソロの「まだ見ぬ人」以外は、すべて彼の作詞作曲によるポップ・ソングが集められています。歌詞はすべて英語で、イギリス人と日本人のハーフである彼にとっては、英語自己の内面をまっすぐに表現できるためには、英語がベターだったということなのでしょう。
どの曲も、メロディ、リズムはシンプルで力強く、キャッチーです。アコースティック楽器を主体としたサウンドも都会的で洗練されたもので、これもまた実にカッコいい。「オレの歌を聴け!」とか「これがロックだぜ!」みたいなも押しつけがましさも皆無で、「みんなで一緒に音楽の楽しもうよ!」とでも言いたげなフランクさが気持ちいい。だからと言ってヒットするかどうかは別なのでしょうけれど、少なくとも私は楽しませてもらいました。
マシューの声は高めで、どこか中性的。そして、優しくて甘い。だからという訳ではありませんが、アップテンポの曲よりも、トラック4以降のスローなナンバーの方が、私の耳にはしっくりきます。
特にトラック6の“Shine”が気に入りました。冒頭、ハッとするような美しいアコースティックギターのソロが聴こえてきますが、これはマシューの友人であるギタリスト徳永真一郎によるもの。哀しいくらいに透明で、泣けてくるくらいにあたたかいギターのアルペジオの音色に、チェロの独奏が加わり、マシューがしみじみと歌い始める。
リフレインはこんな歌詞です。
Don't let your shadow walk ahead your light
Just make it shine
'Cause this life ain't
Long enough to stay down
“Shine” by Matthew Law
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行く先を見失い、しゃがみこんでしまった人の心に寄り添い、黙って背中をさするかのような、優しくてあたたかな歌。
コロムビアのHPに掲載された当アルバムのライナーノートには、マシュー・ローの言葉が記されています。
行き詰まっている人たちに向けて書いた曲で〈救い〉がテーマ。5歳のちっちゃい迷子の子供に語りかけているようなイメージで曲を書きました |
これを読むと、マシュー・ローは、既に輝かしい経歴を歩み始めている若者ですが、人の心の痛みや挫折感、敗北感というような繊細な機微を、自分自身の感情として知っているのではないかと思わずにいられない。そして、そのことが彼の書く音と言葉にも如実に反映され、曲に深みを与えているように感じます。
それにしても、しみじみと、いい歌です。言うまでもなく、私は5歳児ではありません。それどころか、マシュー・ローの父上の世代の人間です。でも、この歌の言葉とメロディは、日々深まっていく迷いに疲れ、ともすればしゃがみ込んでしまいがちな弱い心に、生命の水を与えてくれます。
その他、ゴスペルのような厳かな響きをもった「Last Song」と「Ain't a Love Song」もいい。静かな佇まいの中に、何かに、あるいは誰かに対する熱い思いが込められた佳曲です。また、「Love Me」の切ない歌もいい(時折、しゃっくりのような音が聴こえてくるのは、数年前に大ヒットしたあの曲の影響でしょうか)。
対して、前半3トラックのアップテンポのナンバーは、理屈抜きに楽しい。TV CMか何かで流したら、多くの視聴者の耳と心を捉えるんじゃないかと思います。
この「LOST2」の収録時間は約30分。フィジカルなディスクで言えば、ミニアルバム的な位置づけにあるものと言えます。様々な事情が絡んだ末にそうなったのでしょうが、CDに慣れてしまった耳には、やや短く感じられます。もっとマシューの音楽を聴きたいと思う。
しかも、配信限定なので、「一枚」というアルバムの輪郭は漠としていて、マシュー・ロー自身が作ったプレイリストを聴いているような気分になります。
でも、それはそれで良いのかもしれません。「LOST2」「Mélangé」は、これからマシューが作っていくアルバムと連結し、もっと大きなプレイリストへと育っていく可能性がある。これはなかなかエキサイティングな想像です。
それに、最近のサブスクリプションアプリでは、一つのアルバムを聴き終わると、AIが選ぶ「おすすめ」曲が再生されるようになっています。それに従って新しい音楽との出会いを繰返していけば、今度は聴き手側にもっと多彩で巨大なプレイリストができあがるかもしれません。それもまた、とても素敵な音楽の楽しみ方ではないでしょうか。プレイリストを介して、こんなふうに音楽と遊べる点は、ネット配信ならではの強みであることに間違いないと思います。
音盤中毒患者としては、「もっと音盤を!」と言いたい気持ちもあります。ライナーノートもジャケットも込みで音盤を手にして、たとえそれが幻想であっても、作り手とじかに触れあいたい。
とは言え、時代の流れを変えることは難しい。ならば、デジタル配信を通じて音源を購入するという背信行為は甘んじておこない、「それでも音盤は回っている」と呟きながら、ターンテーブルの上でグルグル回る音盤をイメージしながら聴くのが、精神衛生上よろしいのかもしれません。
それもまた、善き哉。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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