昨年末、チェリストの宮田大と、ギタリストの大萩康司が共演したアルバム「Travelogue」が発売されました。宮田にとっては、2019年秋に発売されたエルガーのチェロ協奏曲に次ぐ、コロムビア移籍第2作です。
前作のエルガーは、エスプレッシーヴォな歌に溢れた演奏が、ダウスゴー指揮BBCスコティッシュ響の名演とともに強い印象を残しましたから、次は何を聴かせてくれるだろうかと楽しみにしていました。
しかも、今回は、宮田が「お互いにもつ音楽が似ている」と語り、何度となく共演を重ねてきた大萩とのデュオです。大萩と言えば、近年はソリストとしてだけでなく、多彩な顔ぶれの演奏家との共演で充実した活動を繰り広げていますし、少し前に本欄でとり上げた「
DUO2」での活躍ぶりは記憶に新しい。いやが上にも期待が高まります。
アルバムの収録曲は、ミシェル・ルグランの映画「ロシュフォールの恋人」から「キャラバンの到着」、アストル・ピアソラの「タンティ・アンニ・プリマ(アヴェ・マリア)」、ラダメス・ニャタリのチェロとギターのためのソナタ、ショパンのチェロ・ソナタ第3楽章、サティの「ジュ・トゥ・ヴ」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ピアソラの「オブリビオン」と「ブエノスアイレスの冬」。クラシックからタンゴ、映画音楽まで、バラエティに富んだラインナップです。このうちオリジナル曲はニャタリのみで、それ以外は角田隆太、徳武正和、つのだかたし、そして、宮田と大萩自身の編曲版を使用しています。
チェロとギターのデュオは、決して珍しいものではありません。YouTubeを検索すれば、たくさんの動画を見つけることができますし、ディスクもいくつもあります。例えば、趙静&大萩康司、長谷川陽子&福田進一(Victor)のほか、最近リリースされたものでは、フォーグラー&エスケリネン(Sony)、レヒナー&マルケス(ECM)、パターソン&サットン(MSR)らのディスクが良かった。また、古いところでは、イェリエ&ラゴズニックの2枚(Bayer)、フカチョヴァ&クリステンセン(Kontrapunkt)は忘れがたい名盤です。
しかし、チェロと合わせる楽器と言えば、やはりピアノが主流。ギターとのデュオを聴く機会は、多いとは言えません。きっと、理由があるのでしょう。音量のバランス、音域の重なりなどの要因でアンサンブルがやりにくい、あるいは、数字が見込めないなど生々しい話も背景にあるのかもしれない。いずれにせよ、この組み合わせの常設デュオの少なさ、この編成のためのオリジナル曲の極端な少なさには、一定の必然性があるのでしょう。
宮田が、それでも大萩とデュオを組んでアルバムを録音したのは、互いに音楽的相性の良さを感じ、共演することで大いなる刺激を受けているからだろうし、宮田が今どうしてもやりたい音楽が、そこにあるからなのでしょう。
果たして、二人のアンサンブルの妙を存分に楽しめる、素敵なアルバムを聴くことができました。
たくさんの音楽の引き出しを持つ二人の名手が、とっておきの音色や表現を次から次へと繰り出し、生き生きとした音楽の対話を紡いでいく。歌心にあふれたカンタービレから、ザラついた音でワイルドに進めるパッセージまで、剛と柔を変幻自在に交錯させながら、それぞれの曲がもつ多様な味わいを明らかにする。そのさまのなんとエキサイティングなことでしょうか。
特に、ライナーノートで音楽評論家の青澤隆明氏が書かれている通り、その歌ののびやかさ、みずみずしさに耳をそばだてられずにはいられません。
ピアソラの「タンティ・アンニ・プリマ」での静謐な純白の祈り、ショパンのラルゴでの哀しみをまとった憧れ、サティの「ジュ・トゥ・ヴ」での柔らかな笑みをたたえた告白、ラヴェルの「亡き王女へのパヴァーヌ」での内面への深い沈潜、そして、ピアソラの「オブリビオン」での孤独の痛み。人間の心の奥底から発せられた声そのもののような歌が、チェロからもギターからも溢れ出てくる。
その一方で、ゴツゴツした触感をもった音楽の、精悍ないでたちもキマッています。ニャタリのソナタでのメリハリの効いた、彫りの深い表現、ピアソラの「ブエノスアイレスの冬」の硬質なパッションを秘めたドラマ運び。また、ルグランの「キャラバンの到着」での、ひりりとした苦みを含んだ音の動きにも痺れる。
どれか1曲だけ気に入ったものを選べと言われれば、悩んだ末に、ピアソラの「オブリビオン」を挙げます。弱音器をつけ、繊細なヴィブラートを駆使した宮田の歌いくちは、ときどきチェロという楽器の音であることを忘れるほどに人間の肉声に近く、官能的。つのだたかしのギター編曲は、恐らく波多野睦美の名盤「アルフォンシーナと海」に収録されているのと同じバージョンかと思いますが、歌に絡みつくように紡がれる対旋律と、涙がこぼれ落ちるかのような分散和音のバランスが美しさの極み。原曲の歌詞に込められた、終わりを告げた愛への痛みに満ちた思いが胸に迫ります。
まさに聴きどころ満載のアルバムですが、「紀行」「旅行談」を意味する「Travelogue」というタイトルの通り、音楽を聴くという行為を通した「旅」を経験できることもまた、当盤のかけがえのない魅力です。
その音の移り変わりに追従するうちに心が動き、自己の内面を探索する。見慣れた場所にたどりついて安らぐこともあれば、刺激に満ちた音に誘われ、自分の中にこんな場所があったのかと驚くこともある。我に返って心の軌跡を振り返ってみれば、自分の心がたどってきた道が後ろにできている。それは物理的な移動を伴わないバーチャルなものではあっても、まさに「旅」そのものです。
宮田と大萩の「Travelogue」は、確かに彼らが音に刻んだ紀行であるけれど、聴き手がめいめいの思いを書き込むことで完成する。彼らの音楽は、そんなふうに私たちを創造の場に迎えてくれるようで、満ち足りた、あたたかい余韻が聴後に残ります。
聴く人によって十人十色の「紀行」が書かれるはずですが、ここで私なりの「Travelogue」を記しておきます。
このアルバムは、落ち着いたテンポでしみじみと歌う曲が多いこともあって、全体を通して、宮田と大萩の音楽に漂う「ゆとり」に惹かれました。彼らの技術的、精神的なゆとりから生まれる音楽の情趣の深さ、美しさが、何よりも胸を打つのです。
宮田は、飛び抜けたテクニックの持ち主です。正確にして敏捷な左手の運指、楽器が潜在的に持つ多彩な音色を自在に引き出す右手の弓遣い、高音から低音までムラのない音色。チェリストなら誰もが手に入れたいと思うはずの美技を、宮田はすべて体得している。
だから、ピアソラやニャタリの曲に出てくる厄介そうな音型も、自分の技術的な限界点にはまだまだ距離があると言わんばかりに、易々と、そして嬉々として弾きこなしている(ように聴こえる)。シンプルなフレーズでも、彼はニュアンスに富んだ歌を奏でていますが、あれこれと手練手管を弄してもなお、その音楽には飽和感は皆無です。また、情熱的なパッセージでの音の熱量はものすごいのに、激情ですべてを塗り潰すことはなく、音楽の形はまったく崩れない。
あり余るほどの技術を備えた彼はもはや、楽器をどう弾くか、楽譜をどうやって音にするかに汲々とする必要はほとんどない。だから、音の身振りには、いつも優雅と言いたくなるほどのゆとりがある。
まったく同じことが、大萩康司のギターからも感じられます。彼ら二人の音楽に見られる共通点は、まさしくこれなんじゃないかと思えるほどに。
当盤でのギターは、どの曲でもチェロが旋律を担当している以上、伴奏の役回りをすることがほとんどです。しかし、伴奏と言っても、ただ三歩下がってチェロに追従するばかりの単純作業ではなく、あるときは自らリードして音楽の輪郭を作り、またあるときはピアノやオーケストラにも劣らぬ多彩なハーモニーで音楽に肉付けをし、実に忙しい。
大萩は、そんなたくさんの役割を瞬時に切り替え、その責務を十全に果たしていますが、その音の振る舞いには、いささかの慌ただしさもありません。それどころか、宮田のほんのちょっとした歌いまわしに当意即妙のレスポンスを返したり、裏拍にごく微細なゆらぎをもたせて音楽を自然に息づかせたり、数え上げればキリがないほどに高度な技を見せてもいる。
しかし、彼はそうしたあれこれを、聴き手には殊更意識させぬよう、さりげない表現にまで結晶化させて演奏に臨んでいます。その自己アピールをまったく必要とせぬ「ゆとり」が、宮田のチェロとヴィヴィッドに共鳴し、音楽のキャパシティをさらに大きくしている。
ゆったりとした時間の流れの中で、音楽が柔らかく広がって空間を満たしていく。その響きの中に身を浸すことの何という幸せでしょうか。何という贅沢でしょうか。
そう、「ゆとり」で結ばれた二人から生まれた音楽には、えも言われぬ高級感があるのです。ゴテゴテと飾り立てたゴージャスさではなく、ブランディングによって作り上げた虚構でもなく、余分なものを排除したさりげない音の運びの中に、そこはかとなく立ち昇る種類のもの。
この音楽は、一朝一夕でできあがったものではありません。セッション自体は数日で完了していますが、宮田と大萩がそれぞれの音楽家人生の中で得てきたものと、二人がこれまでの共演で積み上げてきたものが融合し、結晶して生まれたものです。そして、彼らの先人たちが血の滲むような努力の末に築いてきた、「日本人が奏でる西洋音楽」の到達点から出発したものでもある。手間隙かけ、じっくりと育んできたものだからこそ備えることのできる高級感が、彼らの演奏にはある。
しかし、この高級感は、特定の聴き手だけが享受できるものではないはずです。彼らの音楽の語り口が、実にこなれた平易なものになっているからです。「分かる人には分かる」というような高踏的な素振りで、聴き手の耳と心に無用の圧をかけることはないのです。
ポピュラー音楽を含め、人気曲を集めたプログラム構成に依るところもあるでしょうが、宮田と大萩の演奏の中では、さりげない高級感と、オープンな分かりやすさは、ごく自然に両立しているのです。彼らの音楽の人懐っこくて柔らかな微笑み、すべてを包容する大きさ、ほろりと心の琴線に触れる哀愁は、用心深く背後に隠された多彩な技とともに、多くの人を魅了するに違いありません。
良い音楽は、ゆとりの中からしか生まれないものだと痛感します。例外はあるでしょうが、技術面でもメンタル面でも、音楽家の中にゆとりがあってこそ初めて、質の高い音楽を生むことができる。宮田と大萩のデュオは、身をもってそのことを証明しています。
そして、それは音楽に限ったことではない。どんな仕事でも同じことが言えます。日々の作業の中に余裕がなければ、イノベーションもリノベーションも起こりようがありません。
しかし、そうしたゆとりは、近年、私たちの生活の中では、効率化という大義名分の下に、居場所を失いつつあるように思います。コロナ禍の昨今、ゆとりはますます「不要不急」のものとされ、切り捨てられようとしているのではないでしょうか。ゆとりを隅に追いやったツケは、いろいろなところに回ってきている。何より我々の心はギスギスとして苛立ち、社会全体も明らかに痩せ細ってきた。
でも、不要不急のゆとりの上に成り立つ音楽には、余裕を失い、乾いてしまった人の心を潤し、明日を生きるための活力を与える力がある。宮田と大萩の演奏がまさにそうです。
パンデミックの状況下では様々な制約があり、我慢しなければならないことも多いですが、たとえ無駄に思えるようなことがあっても、常にゆとりを追い求めていくことが、結局は社会の再生のためには有効なんじゃないか。この宮田と大萩の新盤は、私たちにとって本当に「必要火急」なものが何なのかを思い起こさせてくれます。そこに、このアルバムの尊い価値があると私は感じています。
もっとゆとりを!
これが、今の私の「Trevelogue」をめぐる旅の到着点です。明日聴けば、また違うところへと誘われるのかもしれませんが、それもまた楽しい。音楽そのものから離れたところへ来てしまった感はありますが、彼らの演奏には、私の思考を遠くまで飛ばすだけの遠心力があるのだとポジティブに捉えています。
宮田大と大萩康司のコンビが、次に私たちをどんな旅へと導いてくれるのか、宮田の次のアルバムでは、どんなゆとりを味わうことができるのか、楽しみでなりません。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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