暦の上では立秋をとうに過ぎたというのに、毎日、暑い日が続きます。皆様、いかがお過ごしでしょうか。
今月は、残暑お見舞いということで、ひとときの「涼」を与えてくれる音盤をいくつかご紹介したいと思います。涼しい音楽と言っても、それはあくまで私個人の感想に過ぎませんし、音楽なんか聴かなくても、エアコンや扇風機、冷却グッズ、稲川淳二の怪談、ビヤガーデンがあるじゃないかと言われてしまえばそれまでですが、暫しおつきあいのほどお願いします。
最初に取り上げるのは、イタリア合奏団によるロッシーニの「弦楽のためのソナタ」全6曲(COCO-73144~5)です。抜群の音響で知られるコンタリーニ宮で1987年夏に録音されたアルバムで、文化庁芸術祭賞の作品賞を受賞するなど名盤の誉れ高く、CD初期の代表的な優秀録音盤としても知られています。
イタリア合奏団の奏でる人生の肯定に満ちた陽性の歌、不快指数ゼロのカラリとした響きは、ロッシーニの音楽にまさにうってつけ。軽やかで流麗な旋律が澱んだ空気を爽やかに吹き飛ばし、ヴィオラを欠いた編成の弦楽合奏の透明な響きが湿気をカラリと取り除き、縦横無尽に駆け巡る早口言葉のようなおしゃべりと、弾力に富んだリズムの躍動が停滞した時計の針の進み具合を正常に戻してくれます。
かつてFMの音楽番組のテーマ曲として使われた第1番冒頭の、羽毛が風に吹かれてふわりと落ちてくるかのようなヴァイオリンの旋律の粋な節回し、第3番両端楽章のソロ楽器のコミカルでスリリングな掛け合い、第6番第2楽章のめくるめく転調と「ロッシーニ・クレッシェンド」の横溢など、聴いていて思わず頬が緩むような愉悦に満ちた音楽が、夏バテ気味の心と体に活力を与えてくれます。
エアコンを止めて部屋中の窓という窓を開け放ち、木陰を通り過ぎてきた一陣の風に涼をとる、そんなイメージをもってこのイタリア合奏団の演奏を聴いていると、どんなことがあってもララララとハミングしながら軽やかに生きていけそうな気がしてきます。たとえひとときでも暑さを忘れさせてくれる音盤として、第一に指を屈したいアルバムです。
次にご紹介するのは、古楽専門のレーベル、アリアーレからリリースされている寺神戸亮の弾くテレマンの「無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア」(COGQ-54~55)です。2010年9月にHakuju Hallで録音されたもので、SACDハイブリッド盤で発売されています。
古楽には涼しげな風情をもった音楽はたくさんあって、アリアーレから発売されている寺神戸や有田正広、クイケンらのディスクはどれも夏に聴くにはぴったりですが、特にこのテレマンは暑気払いの一枚として重宝しています。
ここで聴くことのできる12曲は、「ファンタジア」というタイトル通り、一定の音楽形式の美を追求すべく厳格なルールのもとに構築されたものではなく、自由でファンタジーに満ちた音楽です。また、ライナーノートの解説で寺神戸自身が書いているように「テレマンらしい明るさや親しみやすさ、屈託のなさ、ユーモアなどを兼ね備え」た親密な音楽でもあって、身構えることなくリラックスして聴くことができます。
バロック・ヴァイオリン独特のまっすぐで澄んだ響きと、のびのびと、しかし、節度を保って奏でられる歌がひんやりと皮膚から沁み込んで来るのを忽然と楽しんでいると、いつしか私は、地上の制約から自由になって、広く開け放たれた空間の中をふわふわと浮遊しているような気分になります。旅行にも避暑にも行けない私にとって、寺神戸のテレマンを聴いて、想像力をはるか遠くまで飛翔させるのは、せめて心だけでもバカンス気分を味わうことのできる、ささやかな、でも、最高に贅沢な至福の時間です。
続いては、エマニュエル・クリヴィヌ指揮国立リヨン管によるドビュッシーの管弦楽曲集(COCO-73014~5)を挙げます。
これは90年代初頭に制作された2枚のアルバムをまとめたもので、交響詩「海」、夜想曲、牧神の午後への前奏曲、管弦楽のための映像、バレエ音楽「おもちゃ箱」というドビュッシーの遺したオーケストラ作品の代表作がずらりと収録されています。
クリヴィヌとリヨンの演奏するドビュッシーからユニークな涼感を得られるのは、その肌触りの心地良さゆえです。喩えが良いかどうか分からないのですが、「シルクのように滑らかなのに速乾性と通気性があって、汗ばむような暑さの中でこそ身に着けていたい」というのがセールスポイントの、某衣料品量販メーカーが売り出している夏用アンダーウェアの手触りをもった音楽とでも言いましょうか。
特に、「夜想曲」第3曲シレーヌの繊細で優しい音楽は強く印象に残ります。浮世離れした美しさをたたえた女声合唱によるヴォカリーズ(ブリュッヘンやクイケン、ヤーコプスとの共演などで知られる名門オランダ室内合唱団)は絶品で、アルバムの白眉とも言うべきとびきりの美演です。こんなにも柔らかくて優しい「海の精」の呼び声を聴いていれば、暑くて寝苦しい夜も穏やかな気持ちで眠りにつけそうです。
他の曲たちの演奏も、颯爽と早めのテンポで音楽を進めながら、ディテールが透けて見えるような精緻さを保つアンサンブルと、十分にドラマティックでありながらも柔和で上品な官能を帯びた音の運びが心地良く、この音楽がもたらしてくれるサラリとした触感を肌で楽しみながら、暑い夏を乗り切りたいと思います。
「夏向きの音楽」ということでは、ウェーベルンの初期の名作「夏風の中で」やオネゲルの「夏の牧歌」のような音楽もご紹介すべきかもしれません。前者はエリアフ・インバル指揮フランクフルト放響、後者はジャン・フルネ指揮オランダ放送フィルという名盤がリリースされています。
あるいは、昨年発売された福間洸太朗の目下の最新盤、「モルダウ~水に寄せて歌う」という「水」をテーマにした一枚もまた、水とつながりのある音楽たちと、彼のクールなピアノのタッチが涼しさをもたらしてくれることでしょう(このアルバムについては
音盤中毒患者のディスク案内 No.38でご紹介しています)。
いや、この暑い季節だからこそ、敢えてマーラーやブルックナー、R.シュトラウスの大規模な音楽を、玉のような汗をかきながら聴くのが一番、という方もおられるでしょう。コロムビアの誇る名盤の数々や、スクロヴァチェフスキの最新のブルックナーの8番など、脳裏に浮かぶアルバムはいくらでもあります。
このように、取り上げたいディスクはまだまだ尽きませんが、最後に、飛び道具的なディスクをご紹介します。それは「自然音」シリーズとしてリリースされている4枚で、ラインナップは以下の通りです。
映像は勿論のこと、ナレーションもBGMもまったくなし、ほぼ1時間にわたって、川のせせらぎの音、虫や鳥の鳴き声、海岸に打ち寄せる波の音、熊野古道周辺の自然の音たちだけをただひたすら聴くアルバム。しかも、集音マイクが固定されているので、あたかも録音場所にどっかと座り込み、大自然の中で生まれる音の風景に耳を澄まして聞き入っているかのような気分を味わうことができます。
渓流や海の水の音がミストシャワーとなって降り注ぎ、虫や鳥の鳴き声が山の清々しい大気を誘い込む。熊野の森に激しく降り注ぐ雨や、闇を切り裂く雷鳴の音が、冷気をもたらす。そんなサウンドスケープを体験するうち、本当にリスニングルームの温度がぐっと下がったかのような錯覚にとらわれます。
プレーヤーの早送りボタンを押し続けてもほとんど音に変化のない、いわば究極のミニマルミュージックを楽しむだけの時間的、精神的なゆとりをもつこと、実はそれこそが最上の「涼」なのかもしれません。何かをする時のBGMとして小さな音量で流してもよし、一部を取り出して聴いてもよし、目に入る時計に全部覆いを被せ、エッセイストの高田華聖さんが執筆された素敵なライナーノートを読みながら、ゆったりと爽やかな時間をお過ごしになってはいかがでしょうか。老婆心ながら、「熊野古道」のアルバムは、別々の音風景がいくつかのトラックに分かれて収録されていて局面に変化があり、雷の音などがリアルに入っていて楽しいので、最初に聴くには一番良いかもしれません(私自身もそうでした)。
ところで、「自然音」シリーズのアルバムに収められているのは、「音楽」ではなく、人間の意志や衝動とは無縁の、自然の摂理の中で偶然生まれた「音の集積」です。
でも、これも「音楽」なんだ、と私は思います。なぜなら、私は文字通り「音を楽しんでいる」からです。
視覚情報が完全に欠落しているからこそ、自然音だけを聴きながら、例えば、川や海の向こうの方から聴こえてくる鳥の鳴き声に、まったく異なる景色を想像する。鳥や虫の声が会話するかのように行き交うのを聴いて、これは求愛なのだろうか、仲間同士の情報交換なのだろうかと考えたり、雷の音を聴いてどんな稲妻が見えたのだろうかと思いを巡らせたりもする。あるいは、どのディスクにもまったく人の声が収録されていないので、普段はどれくらいの人がこの音を耳にしているのだろうと思案したり、単調な音の反復の中に「ゆらぎ」を発見して心地よさの源泉を見出したりする。
そんなふうに、一つ一つの音、音と音の繋がりを感じながら、背後にあるものを想像してイメージを膨らませ、思考を深める。私が音楽を聴く時にも普通にやっているプロセスを経て、私は自然音の中に音楽を見つけて楽しんでいるのです。
いや、見つけようとなんてしなくても、自然は、いつだって音楽を奏でています。自然の中では、あらゆる瞬間に森羅万象のポリフォニーが鳴り響き、悠久の時間の流れの中で壮大なシンフォニーが生まれて続けている。ただ、私たちはいつしかそのことを忘れ、自然の音を「聴く」楽しみを放棄し、ただ「聞く」だけになってしまっている。いや、それどころか、私たち人間は便利な生活を実現することの代償に、美しい音楽の調べを止め、代わりにたくさんの雑音をふりまいてしまっている。だから、自然の中にわざわざ音楽を探さなくてはならなくなってしまった。私たちも、自然が奏でる音楽の奏者なのに。
そんなことを考えながら聴いていると、ああ、外に出る時には、イヤホンを外し、日常の中に溢れる自然の音楽を聴いて楽しんでみようなどと思ったりします。朝の連ドラで話題の雑誌ではありませんが、私の「暮し方を変えてしまう」ようなアルバムたちなのかもしれません。
このように、この「自然音」シリーズは、ただ涼をとりたい時だけでなく、ふと立ち止まって「音楽って何?」「聴くってどういうこと?」と考えたい時、ゆったりと聴きたい大切なアルバムです。先ほど、これらのディスクを飛び道具だなどと書きましたが、前言撤回、これもまた立派な「音盤」なのでした。
おしゃべりが止まらなくなってしまいました。涼しさをお届けするつもりが、かえって暑苦しくなってしまったでしょうか。
まだまだしばらくは暑い日が続きます。水分と音楽をこまめに補給し、健やかな毎日をお過ごし下さいますように。
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粟野光一(あわの・こういち) プロフィール
1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/
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