音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.67

クラシックメールマガジン 2019年2月付

~クラシック音楽の居場所 ~ “Opus One”~

コロムビアが、新しいレーベル“Opus One”を立ち上げました。
“Opus One”は「作品番号1」の意味で、才能ある20代の演奏家を発掘してCDデビューさせること、そして、どのアルバムにも必ず日本人作曲家の作品を収録することを主旨として、継続的に活動していくのだそうです。
レコード会社が若手デビューに特化したレーベルを持つこと自体は、目新しいことではなく、仏ハルモニア・ムンディやNaxosの例をご存知の方も多いと思います。しかし、日本国内のレーベルでは、極めて珍しい例ではないでしょうか。
この一月には、シリーズ第一弾として5枚のディスクが一挙にリリースされました。今回デビューしたのは、チェロの笹沼樹(たつき)、ピアノの古海行子(やすこ)、ギターの秋田勇魚(いさな)、ソプラノの鈴木玲奈(れいな)、ヴァイオリンの石上真由子。
5枚のアルバムをすべて購入して聴きましたが、いや、驚きました。若い演奏家の中に、これだけ凄い才能の持ち主がいるのかと。
今月は、これらのアルバムの「聴きどころ」をご紹介します。掲載の順は、1月末に5人の演奏家が一堂に会して開かれた演奏会(於Hakujuホール)の出演順です。
冒頭の「親愛の言葉」から、勢いのあるチェロの響きがスピーカーの前にせり出してきます。たっぷり墨汁を含ませた筆で一気呵成に文字を書くかのように、細部に拘泥せず剛毅に運ばれる音楽の作りは、コンサートの舞台で見た笹沼その人と同じく大柄で、ダイナミックです。
一方、流麗なカンタービレには心の襞に沁みこむ繊細な情感があり、要所で十分なヴィブラートをかけた「泣き」を聴かせもする。バリバリ弾くだけのマッチョな演奏家ではなく、内に熱い歌心を秘めた人だということが、アルバム全体を通して感じとれます。
中でも、アルバム冒頭のカサドの「親愛の言葉」での両手を広げて朗々と歌うカンタービレと、サン=サーンスの「サムソン」のアリアのしっとりとした抒情が印象的です。間宮編曲の「ちらん節」の味わいの濃い歌も素敵で、これを含む全6曲の日本民謡集を是非続けて聴いてみたい。
彼は現在、N響アカデミーの一員として、N響定期にも出演しています。先日、パーヴォ・ヤルヴィがハンス・ロットの交響曲第1番を指揮して話題となった演奏会でも、彼が舞台で弾いている姿を見かけました。室内楽の分野でも活躍中なので、彼の音楽との付き合いは、長くて深いものになりそうです。
メインのシューマンのソナタ第3番は、「管弦楽のない協奏曲」という副題の通り(一般的な1853年改訂の4楽章版が演奏されています)規模も大きく構成も複雑で、たしかな技巧と、堅牢な構築力が要求される難曲です。
しかも、個人の内面的な表現が、ソナタの形式と相克を見せる音楽でもある。ロマン派芸術一般に対する知識と見識がなければ、その独特のロマンティシズムを表現することはできません。
しかし、まだ大学在学中という古海は、シューマンの音楽の世界に真正面から向き合い、この曲のすべてを血肉化して弾き切っています。目まぐるしい楽想の変化に対しても、落ち着いた運びのうちに、強い一貫性をもって音楽をまとめあげている。この成熟した演奏をブラインドテストで聴いて、これほど若いピアニストが弾いていることを見抜ける人は少ないのではないかというくらい。
同時に、彼女のみずみずしいタッチとのびやかな歌からは、間違いなく若い感性の息吹が感じられます。3楽章構成の初版作曲時、シューマンはまだ20代半ばだったことを考えれば、青春の憧れと痛みを臆することなく歌い上げた古海の演奏は、この曲の表現としてまことに相応しい。デビューCDでシューマンの3番を取り上げるという大胆不敵な企ては、恐らく彼女の勝算通りに大成功なのではないでしょうか。
続くリストの「鬼火」での、既にヴィルトゥオーゾとしての風格さえ漂う演奏も見事ですが、世界初録音となる大澤壽人の「てまりうたロンド」(1943)が素晴らしい。
「てまりうた」のリズム弾む主題と、子供時代を感傷的に回想するような主題が交互に現れ、そこはかとないロマンが広がっていく。シューマンにも相通ずる曲のありようを、古海は精緻に、そしてちょっぴり切なく描いています。
1月のコンサートでは、シューマンの後半二つの楽章を聴きましたが、やはりソナタ全曲を実演で聴きたい。コンクール優勝時の勝負曲とのこと、今後も彼女の十八番としてたびたび演奏し、その成長の跡を聴かせてくれることでしょう。勿論、他のレパートリーでどんな演奏を聴かせてもらえるかも楽しみです。
秋田の演奏の一番の特色は、その変幻自在な音色にあります。しかも、その音色の変化に、テンポやリズム、歌いくちもぴったりと追従し、オビの宣伝文句にある「物語と風景」がおのずと紡がれていく。そのさまのなんと自然で優しいことでしょうか。
タイトル曲のアサド兄弟の「アクアレル」が絶品です。中でも「ヴァルセアーナ」は、大きな息遣いでたゆたうように旋律を歌いつつ、細やかな表情の変化を自然に盛り込んだ秋田の演奏に魅了されました。ライナーノートに一文を寄せている大萩康司盤、昨年コロムビアからリリースされた朴葵姫盤と並び愛聴盤になりそうです。
加藤昌則の「夕暮れの手紙」のしみじみとした情趣も沁みます。夕暮れどき、我が身の至らなさにがっくり肩を落とし、それでも大切なものを守るために明日を生きねばと、唇を噛みながら空を見上げる。そんなときにこの音楽を聴けば、心にいくらかでもあたたかな希望が持てそうな気がします。
他にも、テンポが早くリズミカルな曲を颯爽と駆け抜けていくような、さりげないクールさも心地良いし、バッハでの謙虚な音の佇まいも好ましい。何度聴いても飽きない好アルバムだと思います。
それにしても、20代の若者が、なぜ楽譜からこんなに豊かなものを汲みとることができるのか、そして、なぜそれを歳の離れた聴き手の、心の機微に触れる深い表現へと昇華できるのか。まさに創造行為の神秘としか言いようがありません。
先日の演奏会では「椿姫」で繊細なギターの響きを楽しませてくれました。今度はもう少し小さな空間で、彼と膝を交えるほどの距離感でフルコンサートを聴きたいと思いました。
歌は、一に声、二に声、三四がなくて五に声です。鈴木玲奈は、一瞬にして人を魅了する稀有な美声を天から授かった、生まれながらのソプラノ歌手です。アルバム冒頭「鐘の歌」の第一声から、あらゆる理屈を飛び越えて、聴き手の耳、心、身体に直接響きかける歌に釘付けになります。
加えて、彼女の歌には、ある種の「演劇性」が備わっています。彼女が何かを演じているとか、誰かになりきっているというのではない。彼女によって生命を吹き込まれた音たちが塊となって「意識」を持ち、歌詞の中にある物語を自律的に演じている。そこに、人間の所作、振る舞いがリアルに「見える」のです。それが鈴木の歌の最大の魅力であり、ライナーノートに激賞文を掲載した演出家の田尾下哲氏が、高く評価している点なのではないかと思います。
どの曲も歌好きなら必聴で、超絶技巧を駆使したオペラ・アリア、ロイド=ウェバーの「ピエ・イエズ」の清楚な歌も素晴らしいのですが、R.シュトラウスの「アモール」でのピチピチと弾けた歌は、コケティッシュな魅力に溢れています。技術的にも相当な難曲ですが、細部を疎かにせず克明に歌いきっているところも凄い。
そして、なかにしあかねの「今日もひとつ」が、いい。
詩の作者である星野富弘氏は、若い頃に事故で全身麻痺となり、口に筆をくわえて水彩画を描くようになりました。その絵には自身が書いた詩が添えられており、多くの人を魅了しています。私も中学生の頃に知って以来、何冊かの詩画集を愛読しています。
それは、美術館に額縁つきで飾られる類の美術品ではありません。しかし、ベッドに横たわってしか見ることのできない、四季折々の自然の小さな営みに触れた感動や、周囲の人たちとのあたたかな心の交流が、飾らない言葉と優しいタッチの水彩画で描かれています。
「今日もひとつ」も星野氏の代表的な詩の一つで、なかにしあかねが平易で親しみやすい音楽をつけています。鈴木玲奈は、一つ一つの言葉を噛みしめるように大切に歌っていて、胸を打ちます。
先日のコンサートでは、華麗なコロラトゥーラの技と、ホールの壁がビリビリ共鳴するような圧倒的な声量を聴かせて満場の喝采をさらいましたが、こういうしっとりとした抒情的な歌もたくさん聴きたい。今後、大輪の花のように咲き誇る鈴木の歌を、実演でも音盤でも聴くのが楽しみでなりません。
19世紀末から20世紀初頭にかけて書かれた作品を集めたアルバムですが、背後に「人間の声」というテーマが隠されているように思います。
ヤナーチェクのソナタでは、随所でモラヴィア語の抑揚やリズムをとりいれた「発話旋法」が用いられていて、ラヴェル、ラフマニノフの2曲のヴォカリーズは、元々は歌詞のない声楽曲です。つまり、いずれの音楽も、その成り立ちに「人間の声」と深い関わりがある。
そう思い至って改めて当盤を聴いてみると、掠れや軋みが音に混じることを厭わず、鑿で音楽の裸形の姿を彫りだすかのような演奏からは、弦楽器の音ではなく、まるで人間の肉声が聴こえてくるかのようです。
石上自身の内なる声が、作曲家のそれと重なって音楽となり、聴き手に直接伝わっていく。彼女はそのようなコミュニケーションの場を創造することが、自らの音楽家としての領分であると自身に任じているのかもしれません。
そして、「人間の声」から生まれた音楽を演奏することで、「言葉のない音楽を、声を使わない楽器で弾いて何を表現できるのか、それをどこまで聴き手に伝えられるのか、そもそも音楽とは何を表現しているのか」という根源的な問いへの答えを模索しているのでしょうか。
しかし、彼女の演奏を聴いていると、音楽の持つ力への絶対的な信頼のようなものが感じられ、決してニヒリズムに陥ることがない。そこが素晴らしい。
アルバムの最後に収められた幸田延のソナタは、思わぬ掘り出し物でした。明治時代、西洋音楽を取り入れ始めたばかりの頃に、邦人作曲家がこれほどまでに美しい曲を書いていたことは驚異以外の何ものでもない。しかも、この音楽の中に、「日本語」の響きもどこかに隠れているような気もします。
ライナーノートの解説によれば、石上はこの秘曲を、既にレパートリーとしていたらしい。何という幸運から生まれた録音でしょうか。
石上は、既にソリストとしての活動を精力的にこなしていますし、長岡京アンサンブルや室内楽の分野でも活躍しています。医師免許を持っていて、医者としてのキャリアを積んでいくのかもしれませんが、これだけの逸材ですから、演奏活動は是非とも続けて頂きたいです。
個々のアルバムでは述べませんでしたが、笹沼の「親愛の言葉」では入江一雄、鈴木の「Bell Song」では篠宮久徳、石上のアルバムでは船橋美穂がピアノ伴奏を務めています。どの人も、盛り立て役という範疇にとどまらない立派な演奏ぶりで、日本の音楽界の層の厚さを実感します。
特に、石上と共演した船橋のピアノは、特にヤナーチェクのソナタの重要なピアノパートでヴァイオリンと丁々発止の対話を繰り広げ、見事な存在感を示しています。
“Opus One”の個々のアルバムについて書いてきましたが、レーベル全体を見渡して気づいたことがあります。
まず、演奏者、プロデューサー、ライナー執筆者、いずれも男女比率が半々です。次に、演奏者の学歴も、音大出ばかりでなく、5人中3人が一般大学で音楽以外の勉強をしている。ジャンルもヴァイオリン、チェロ、ピアノ、ギター、声楽とバラけているし、選曲の幅も有名曲からマイナー曲まで広く、独襖に片寄らず様々な出自をもった音楽が選ばれている
このように、5枚の音盤のあらゆるところで、「多様性」が実現されているのです。アルバムのタイトルのつけ方や、音盤全体のトーンも、恐らく演奏家の意志が尊重されているようで、良い意味でバラバラ。制作サイドの「やってみなはれ」的なスタンスも感じて、好ましい。
そしてもう一つ。
録音のスケジュールと場所を見れば、この5枚が「早い、安い」プロセスを経て生み出されたプロダクトだとすぐに分かります。しかし、決してお手軽に作られたものではなく、プロの技を結集して「巧く」作られた見事な商品です。しかも、我々リスナーにとっては「早い(収録時間が短い)、安い(1枚2,000円)、美味い」音盤たち。この生産性の高さ、素晴らしい。
多様性を謳うCSR的観点からも、プロジェクトマネジメント的観点からも、この”Opus One”は、非常に優良なプロジェクトと言えるのではないでしょうか。
当シリーズでは、今後デビューさせるアーティストを、広く一般から公募するのだそうです。聴き手も一緒になってスター発掘をするという企画は、SNS時代のいま、非常に今日的であると言えます。
特に若い人たちが「これが自分たちの音楽なんだ」という当事者意識をもってこの流れを盛り立て、厳しい状況下にあるクラシック音楽の灯火を絶やさず、さらに次の世代へと受け継いでくれたらと切に願います。勿論、鈴木のアルバムに収録されたアリアの曲名を借りれば、「私も遊びの仲間に入れてください」なのですけれど。
もしかすると、この志の高い取り組みの先に、今後の日本における「クラシック音楽の居場所」が見えてくるのかもしれません。勿論、私たち聴き手の居場所も。
“Opus One”の今後の展開を楽しみにしています。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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