音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.79

クラシックメールマガジン 2020年2月付

~Opus One/坂入健司郎、高野百合絵、福田廉之介~

コンクール歴や活動実績にとらわれず、若くてユニークな才能を世に送り出すというコンセプトのもと、コロムビアが昨年立ち上げた新レーベルOpus One。その第二弾となるアルバムが1月に発売されました。
今回デビューするのは、指揮者の坂入健司郎、メゾソプラノの高野百合絵、ヴァイオリニストの福田廉之介の三人。年齢やキャリアには幅がありますが、近年めきめきと頭角を現してきた若手音楽家たちです。
いずれのアルバムも収録曲の知名度には拘らず、アーティストが真価を発揮できる曲をメインに据え、必ず邦人作曲家の作品を一曲入れるというコンセプトは第一弾と同じ。今回も湯山玲子氏がビジュアル・スーパーバイザーとして参加し、アーティストのイメージ戦略の立案・実行を買って出ています。
今月の当欄では、丁度一年前の第一弾リリース時と同じく、これら三枚の「聴きどころ」をご紹介したいと思います(掲載はディスクのカタログ番号順)。
最初は、自らいくつかのオーケストラを結成して話題性の高い演奏会を立て続けに開き、そのライヴCDが好評を博している指揮者、坂入健司郎。
シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」をメインとした一枚で、コロムビアが積極的に紹介している作曲家、大澤壽人の「空の幻想」(ソプラノ、フルート、ピアノのための)がカップリングされています。
「ピエロ」では、増田達斗(ピアノ)、泉真由(フルート/ピッコロ)、中舘壮志(クラリネット/バスクラリネット)、髙橋奈緒(ヴァイオリン/ヴィオラ)、朝吹元(チェロ)の五人の器楽奏者と、近年人気急上昇中のソプラノ歌手、中江早希が参加。「空の幻想」では泉、増田、中江が演奏しています。
坂入指揮の「ピエロ」は、これまで聴いてきたのと同じ曲とは思えないほどに色彩に溢れ、熱い血潮に満ちた演奏です。眩いばかりに鮮やかな彩りの中で、生と死の想念のはざまで引き裂かれた人間の心が、狂気と正気の間を揺れ動きながら歌い、語り、囁き、叫ぶ。無慈悲なほどに透徹した器楽アンサンブルの響きと、マネキン人形のように無表情なシュプレッヒシュテンメというような旧来の名演にあった構図は見当たらない。
勿論、坂入の指揮のもと、気鋭の器楽奏者たちも、シュプレッヒシュテンメを担当する中江も、楽譜を精密・正確に音にしています。しかし、その音の扱いには神経質な手つきはいささかもなく、いつも人間の実存を間近に感じさせる息吹があるのです。病んだ妄想から立ち昇る肉感的な官能、乾いたユーモアをまとってグロテスクに高まる郷愁も、音楽に関わる人間の感情と決して無縁ではないのだと気づかされます。
中江のシュプレッヒシュテンメが素晴らしい。彼女は、楽譜通りの高さの音を歌った後の音程の上下のさせ方や、声の音色や張り方に幾通りものバリエーションを持たせ、表現のダイナミックレンジをかつてないほど大きくとっています。そして、ヴィブラートのかかった美しい声を張って歌う高音と、時にスカルピアを殺害したトスカの呟きの如く凄みのある低音の語りを瞬時に行き来し、切れば血の噴き出しそうなドラマを作り上げている。まさに圧巻の演唱というほかありません。
その言わば「人間の顔をしたピエロ」の中心で演奏をリードする坂入は、この音楽に何を見いだしているのでしょうか。それは明確には分かりませんが、彼はシューベルトからマーラーを経由して作曲者の目の前で超新星爆発したロマン派の音楽と、地続きのものとして捉えているように思えます。その古くて新しい視点ゆえに、私はこの演奏を存分に楽しみました。
カップリングの大澤の「空の幻想」は、作曲者がボストン留学中の1933年、ハリー・ケンプによる英語詩をテキストとして書いた歌曲。亡くなった子供が天国で天使と遊ぶさまを平易な語り口で淡々と綴る佳品で、ソプラノ歌手は通常の唱法で楽譜通りに歌います。
そのどこか和風な響きは作曲当時としてはモダンなものですが、同時にピュアな優しさもあって、その清冽な音楽は「ピエロ」の後では余計に耳と心に沁みます。演奏では、ここでも瑞々しい抒情を湛え、濃やかな情感を切実に表現した中江の歌が殊に素晴らしい。
坂入がどういう指揮者なのか、これからどんな方向へ向かおうとしているのか、当盤では収録された楽曲のインパクトが強く、しかも小アンサンブルの指揮ということもあって、判然とし難いところはあります。
しかし、強面の音楽の典型のようなシェーンベルクで、こんなにも血の通ったヒューマンな演奏を聴かせてくれる指揮者には、猛烈に惹かれます。また、サラリーマンとして企業に籍を置き、指揮活動を両立させるという「働き方」にも興味深いものがある。今後、彼がどんな新時代の指揮者像を創り出して提示してくれるのか、期待せずにはいられません。
続いては、オペラ出演や御前演奏やスポーツイベントでの独唱などで広く注目を集めているメゾソプラノ、高野百合絵の「CANTARES」。ピアノ伴奏は吉本悟子。
内容はビゼーの「カルメン」からの二つのアリアに始まり、オブラドルス、ファリャ、トゥリーナ、モンサルバーチェの作品を収めたスペイン歌曲集で、澤武紀行の「磯の上のつままを見れば(大友家持の「越中万葉」による)」がカップリングされています。
高野は、深みはあるけれど明るくてクリーミーな中低音と、力のある輝かしい高音までムラのない発声を駆使して、アルバムのオビにある通り「清廉と官能が手を取り合い弧を描く」歌を聴かせています。
例えば、「カルメン」の「ハバネラ」と「セギディーリャ」の気品と妖艶さが入り混じった複雑な味わい、ファリャの「7つのスペイン民謡」での気だるい哀感がいい。オブラドルスの「スペイン古典歌曲集」での爽やかな色気も捨てがたい。いやいや、トゥリーナの歌曲における、人々の暮らしに直結したような素朴な味わいにも打たれる。
でも、個人的には、モンサルバーチェの「5つの黒い詩」からの2曲(「黒人の坊やの子守歌」「黒い歌」)が嬉しい。
「子守歌」での慈愛に満ちた歌い口と、「黒い歌」での弾けんばかりのリズムの躍動はどうでしょう。特に後者では、高野はややゆったりしたテンポをとって、独特のビート感を醸し出して演奏しており、「ヤンバンベ!ヤンバンボ!」と歌うリフレインは一度聴いたら忘れられないほどに愉しい。この2曲は近年、ディドナート、プティボン、レナードなど人気歌手たちも録音している人気曲ですが、この高野の素敵な歌も私の愛聴盤の仲間入り確定です。
吉本のピアノも、スペインの民族音楽的な音の振る舞いを強調しすぎることなく、高野の歌にぴったりと寄り添って共に同じ風景を見ながら、独特の歌の世界を作り上げています。
アルバム末尾に収められた澤武の歌は、しっとりと和の情緒をたたえた曲で、高野の情感あふれる歌唱が心に残ります。テキストとなった家持の和歌にある「つまま」とは具体的に何の花を指しているのか分からないそうですが、彼女の歌を聴いて想像するに、さぞかし艶やかで香り高い花だったことでしょう。
当盤のライナーノートでは、指揮者の広上淳一が高野のデビューに寄せて「今後どの様な大輪の花を咲かせるのか」と期待の言葉を記しています。人生を肯定するかのような大らかさを持った彼女の歌を聴いていると、その花とは、太陽の方に向かって背を伸ばし、日光をたっぷりと浴びて咲き誇る向日葵ではないかと思えます。音盤でも演奏会でも、その立派な咲きっぷりを楽しみたいものです。
最後にご紹介するのは、今回のOpus One最年少アーティスト、ヴァイオリンの福田廉之介。彼はスイスの音楽学校を優秀な成績で卒業後、世界各国のコンクールで次々と入賞を果たし、本格的に活動を開始したところです。
収録曲は、ピアノ伴奏に高橋優介を迎えてのワックスマンの「カルメン幻想曲」とプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ第2番、そして、竹内邦光の無伴奏ヴァイオリンのための「落梅集」から「古謡」。使用楽器は、メニューイン国際コンクールジュニア部門優勝の副賞として貸与されたという1773年製ニコロ・ガリアーノです。
当盤での福田の演奏は、ライナーノートで小室敬幸氏も述べている通り、自らの技術と個性を表出することよりも、楽曲の魅力を聴き手に伝えることに重心を置いた実にオーソドックスなものと言えます。
特に、プロコフィエフのソナタ第2番。一見とりたてて変わったことをしていないようでいて、透明な抒情と、洗練された諧謔が共存した、プロコフィエフの音楽の不思議な温度感を余すところなく表現しいて、間然とするところがありません。
例えば、テンポの早い第2、4楽章。福田は切っ先鋭い音を次々に繰り出し、スリリングに駆け抜けています。同時に、音楽の端正なフォルムを崩さず、作曲者固有の音楽の味わいを損なわないよう、テンポや表現の幅、音色などに細心の注意を払っているのが聴きとれます。
また、第1楽章、ソナタ形式という器の中で、対立する複数の要素が絡み合う展開の面白さや、第3楽章のつかみどころのなさをそのまま美しいと思わせる不思議なリリシズムなどにも、まったく同じことが言えます。
一方、アルバム冒頭のワックスマンの「カルメン幻想曲」では、福田は胸のすくような大技を惜しげもなく披露し、聴き手に強烈なインパクトを与えることに成功しています。特に、最後の「ジプシーの歌」で重音を多用した細かいパッセージを繰り返し、徐々にテンポを加速してヴォルテージを上げていくあたり。その心憎いばかりの手練と、鮮やかな弓捌きは見事の一言です。
しかし、ここでも彼は自身のヴィルトゥオージティを誇示することよりも、ビゼーが書いたメロディの美しさと、オペラの名曲メドレーとしての構成の巧みさを表現することに注力していて好ましい。
ワックスマンとプロコフィエフでの高橋優介のピアノ伴奏は、福田とのコンビネーションも息の合ったもので、まさに室内楽の醍醐味を知る人の音楽です。局面に応じてヴァイオリンと柔軟に役割を交代しながら、音楽を通した対話をなめらかに紡いでいく手腕には唸ります。
当盤の収録曲中、私が最も強い感銘を受けたのは竹内邦光の「古謡」です。ポルタメントを多用した「和」の音遣いと、静と動の交錯が言い知れぬ余情を醸し出す、演奏時間5分程度の小品。
ここでは、福田の楽曲への深い愛情と共感に溢れた、ホットな演奏を聴くことができます。特に、静寂を切り裂く威圧的な重音のパッセージが狂気すれすれの乱調を導くあたりの、彼の音楽への没入ぶりと、激しいテンペラメントの表出のさまが凄い。彼の弾く現代曲、邦人作品をもっとじっくり聴きたいものです。
当盤の全体を通して、福田廉之介の未来のスターとしての華やかな資質以上に、燃焼と抑制を高次元の地平で均衡させながら、高い集中力をもって音楽の核心へと凝集していく姿勢に打たれました。弱冠20歳の若者が音楽家としての困難なありようを自らの意志で選び、その道をたしかな足どりで歩み始めていることを思うと、彼の眼差しの先にあるものを一緒に見たいと願わずにいられません。
最後に、今回のOpusOneシリーズでデビューした坂入、高野、福田の三人に加え、本格的な音盤デビューを果たしたもう一人の若手音楽家についてご紹介させてください。
坂入指揮のアルバムに参加しているソプラノ歌手、中江早希です。
彼女は北海道の生まれ、東京芸大博士課程を修了後、既にコンサートやオペラで大活躍のプリマドンナです。音盤の世界では、鈴木秀美指揮オーケストラ・リベラ・クラシカと共演したモーツァルトのコンサート・アリアで既にデビュー済みですが、「ピエロ」と「空の幻想」の二曲でソロを務めた今回のアルバムこそ、実質的なデビューと言えます。
以前、当欄で武満徹の「死んだ男の残したものは」を取り上げた際(No.29 「夏休みの宿題」)、その少し前に聴いたレクチャーコンサートで「新進気鋭のソプラノ歌手」の歌に感動した旨書きましたが、そのソプラノ歌手こそ中江早希でした。
彼女はヴァイルやアイスラーらがブレヒトの詩につけた歌曲や、武満徹や林光らが書いたメッセージ性の強い曲をいくつも歌いました。透きとおるようなピュアな声と、詩の世界を生き生きと音楽へと昇華する高い表現力に私は度肝を抜かれ、魅了され尽くしてしまった。
それから5年の歳月を経て、持ち前の美声と表現力にさらに磨きをかけた彼女が、シェーンベルクと大澤の難曲で見事な歌唱を聴かせてくれていることに私は大きな喜びを感じます。私があの演奏会で受けた感銘と、若い音楽家から感じとった才能と将来性は間違いがなかったと。将来の大成が期待されるソプラノ歌手の新鮮な歌唱が、一人でも多くの同志に届きますように。
先日、プロ野球の世界で名選手・名監督・名解説者として親しまれた野村克也氏が亡くなりました。氏はとあるインタビューの中で「選手の才能を見出すのは難しい。しかし、才能を育てるのはもっと難しい」と述べていました。
多くの若手を一人前のプロに育て、壁にぶつかっていたベテランを次々と再生させた野村氏の言葉には重みがありますが、音楽家の場合にも同じことが言えるのでしょう。長年クラシック音楽に触れてきた一人の聴き手としても、厳しい実感があります。
しかし、音楽家を育てるのは音楽の作り手でもありますが、聴き手の側にも大きな役割が課せられています。親はなくとも子は育つとは言いますが、聴き手がいなければ演奏家は育たないからです。勿論、聴き手自身も、演奏家の成長過程に触れることによって育てられていくのは言を俟たない。
OpusOneからバトンを受けた我々聴き手が、これまでに巣立った八人の演奏家を含め、次の時代を担う音楽家たちと共に育っていければどんなに良いでしょうか。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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