Text by NHK交響楽団&モルゴーア・クァルテットヴィオラ奏者 小野富士
1973年に私は東海大学工学部電気工学科に入学して、神奈川県秦野市に下宿暮らしをすることになった。
男子学生9人がそれぞれ四畳半の部屋に住み、夕食のみ希望者に有料で支給される、所謂「賄い付き」の下宿だった。
そこの住人に数学科大学院1年のAさんがいた。彼はアマチュア無線をする先輩だったが、どうもクラシック音楽を聴くのも好きらしく、私が下宿にヴァイオリンを持ち込んだこともあり、瞬く間に親しくなった。
彼は私にとって酒を教えてくれた最初の人だった。Aさんのお父さんは新潟県長岡市で清酒会社に勤める人で、Aさんからは「酒は楽しく自分のペースで飲め」と教わった。
そのAさんと時間が合えば、下宿から歩いて片道30分はかかる酒屋に行って一番安い日本酒の一升瓶を買って、さきイカなどの乾き物だけではなく、ほんの少し贅沢をしてイカの塩辛等を買って下宿に戻り、大抵はレコードを聴ける装置がある私の部屋で酒盛りが始まった。
酒盛りの時に聴くのはいくつかあったが、必ず聴くのはスメタナ・クァルテットの「死と乙女」と「アメリカ」がカップリングされたモノラルレコードだった。
四つの声部が全て聞こえ、その上絶妙なバランスを聴かせてくれるレコードを聴きながら日本酒を飲んでいるうちに、Aさんはどんどんスメタナ・クァルテットのファンになっていった。
私が東海大の2年生だった(1974年)10月、ついにAさんと、スメタナ・クァルテットが当時本気で取り組みだしたベートーヴェン後期のプログラムを聴くために、電車で片道2時間弱かかるホールに2日間通った。
曲は10月30日(水)が作品130/133(元々「大フーガ」は作品130のフィナーレとして書かれたが、あまりにも壮大になってしまったため、ベートーヴェン自身が別のフィナーレを書いて差し替え、「大フーガ」は独立した曲にした。しかし1974年当時ぐらいから、やはりオリジナルの形で130のフィナーレは「大フーガ」が相応しいと言われ始め、スメタナ・クァルテットはその考えに基づいて演奏した)と作品135。
翌10月31日(木)は作品127と131だった。
ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲を生で聴くのは勿論初めてだったし、レコードですら全てを聴いていたわけではなかった。
スメタナ・クァルテットの演奏はそれまでのウィーンやドイツの弦楽四重奏団が奏でるベートーヴェンとはずいぶん違っていた。
ウィーンやドイツの演奏家たちは、ある意味、伝統を継承することを幹に考えて演奏していたように感じていたが、 スメタナ・クァルテットはベートーヴェンの書いた音符を、自分たちなりに咀嚼して、そこから得た栄養分やエネルギーを聴衆に伝えているよう思えたのだった。133の「大フーガ」、凄かった。
休憩は15分だったが、とうていその間に自分の興奮をリセットすることなどできなかった。
後半の135緩徐楽章は正に美しかったし、フィナーレはすこぶる切なかった。
明日もまたこの興奮があるのだろうかと、大きな期待と不安を持ちながらAさんとほとんど無言で2時間かかる電車で下宿に戻ったことを覚えている。
翌日は後半の作品131で完全にノックアウトされた。
この曲は楽章の切れ目のない曲で7つの楽章から成る。
緩徐楽章でスメタナ・クァルテットは人間が「祈る」という行為を許された動物である事を教えてくれたし、フィナーレでは人は勇気を持って生きることこそ、この世に生まれてきた「意義」であることを聴衆に突きつけた。
この2日間は私にとって弦楽四重奏というものの存在意義を初めてわからせてもらった日になった。
因みにこの年のスメタナ・クァルテット来日公演日程は10月7日から11月29日までの間に38回の公演が持たれている。
またその時のプログラム(冊子)をみると、1945年から1972年までに、自国のチェコを含めての演奏回数は1083回とある。
まさに第二次世界大戦後のチェコの文化大使だったわけだ。
小野 富士 Hisashi ONO
1981年、東京芸術大学音楽学部器楽科ヴィオラ専攻卒業。
東京フィルハーモニー交響楽団副首席ヴィオラ奏者を経て、1987年10月から2015年2月までNHK交響楽団次席ヴィオラ奏者。1992年、“モルゴーア・クァルテット”結成に参画。2006年9月、第一生命ホールで「モルゴーア・クァルテット・ショスタコーヴィチ生誕100年記念演奏会」を開催。ショスタコーヴィチの誕生日9月25日を挟んだわずか3日間で、弦楽四重奏曲全15曲を演奏し話題を呼んだ。2012年6月、2014年5月に日本コロムビアからリリースした全曲荒井英治編曲のプログレッシヴ・ロックアルバム《21世紀の精神正常者たち》《原子心母の危機》が爆発的な反響を呼んでいる。
モルゴーア・クァルテット・メンバーとして1998年1月、第10回“村松賞”、2011年5月、2010年度「アリオン賞」受賞。ヴィオラ演奏の他、多数のオーケストラのトレーナーをつとめ、情熱とユーモアにあふれる指導には定評があり、福島市民オーケストラ(音楽監督)、東京ジュニアオーケストラ・ソサエティ(音楽監督)、光が丘管弦楽団などの公演を指揮している。