Text by NHK交響楽団&モルゴーア・クァルテットヴィオラ奏者 小野富士
この年は、連載第3回の74年の時とは違い、工学部の学生でありながら、音楽大学の受験を翌年に控えた受験生だった。日本では、何か重大な事柄が目前に迫ってくると「他のことは我慢して、自分の目指すものだけに目標を定めて一心不乱に頑張る」という考え方が多いので、1977年の3月に音大受験を控えた者が前の年の秋に「演奏会を楽しむ」などというのは「どこかたるんでいる、と言われるかも知れない」と思いながらも、どうしても聴いておかなければ、という演奏会があった。
それは、当時日本でスメタナ・クァルテットを招聘していた音楽事務所が、自分のところでマネジメントするチェコスロバキアの音楽家を集中的に呼んで「チェコスロバキア音楽祭」という催しを企画し、その中のひとつとしてスメタナ・クァルテットが、当時チェコでも国宝級のピアニストと言われていたヤン・パネンカ氏と共演する演奏会だった。
この年のスメタナ・クァルテットの公演日程は9月13日から10月31日までの間に24回の公演があり、その中の10月16日東京と、10月21日大阪が「チェコスロバキア音楽祭」の演目だった。
東京は東京文化会館大ホール(2300人)、大阪は大阪フェスティバルホール(2700人)という弦楽四重奏としては破格に大きなホールでの演奏会だった。
東京のプログラムはスメタナの第2番、ヤナーチェクの第2番「内緒の手紙」、そしてプログラム後半はドヴォルザークのピアノ五重奏曲作品81だった。この時スメタナの弦楽四重奏曲第2番ニ短調という曲をライヴでは初めて聴いた。
第1番「我が生涯より」は悲劇的な終わり方はするものの、世界的に有名な曲のひとつに数えられる(スメタナ・クァルテットが各地で演奏した為ともいえる)名曲だが、スメタナ自身耳鳴りの発作のわずかな合間に書き上げた第2番は第1番とは打って変わって絶望の淵にある曲だ。自分の生死を懸けて曲を残そうとする作曲家スメタナの壮絶な思いが乗り移ったような、崖っぷちに自分たちを追い込むような演奏を、スメタナ・クァルテットは展開した。ヤナーチェクはスメタナ・クァルテットにしか出せない「軽くて、渋くて、陰りがあるのに、必ずどこかにキラキラしたものが見える」独特の香りの漂うものだった。
休憩の後は、いよいよパネンカ氏とのドヴォルザークだ。
パネンカ氏が一人で弾き始める繊細で軽みのあるピアノに乗って、チェロのコホウト氏が奏でる第一主題は素朴で味わい深く、それを聴いただけで(当時写真でしか見たことのない)プラハの川縁を歩いているような想像をかき立ててくれるものだった。一転して切なく焦燥感漂う第二主題は、シュカンパ氏のヴィオラで演奏され、そこからは5人全てがそれぞれの表情を重ねることで、これ以上一つ一つのピースを小さくできないぐらい繊細で、かつエネルギーに満ちた音楽が進んでいった。
第2楽章のヴィオラのソロ。この時に「私の理想とするヴィオラの音色は決められた」と言っても過言ではない。中間部のカノンでのヴィオラの(一番音域の高い)A線の音色も決定的だった。
第3楽章のピアノの高音の美しいこと!
そして第4楽章は祭りで踊り明かすような躍動感!!
ピアノというある意味でフルオーケストラと対抗できるモンスターのような楽器と、弦楽四重奏という繊細きわまりない部分を持つ団体が、かくも融和し、透明感を持った演奏が可能である事をまざまざと見せつけられ、受験生である事よりも、21歳の青年として「生きる指標」をもらったように感じて帰路に着いたことを昨日のことのように覚えている。
当然、2000人を越える大きな会場も、彼らの明解で柔軟なバランス感覚を持った演奏によって、何らその大きさを空しく感じさせることのない演奏会になった。
小野 富士 Hisashi ONO
1981年、東京芸術大学音楽学部器楽科ヴィオラ専攻卒業。
東京フィルハーモニー交響楽団副首席ヴィオラ奏者を経て、1987年10月から2015年2月までNHK交響楽団次席ヴィオラ奏者。1992年、“モルゴーア・クァルテット”結成に参画。2006年9月、第一生命ホールで「モルゴーア・クァルテット・ショスタコーヴィチ生誕100年記念演奏会」を開催。ショスタコーヴィチの誕生日9月25日を挟んだわずか3日間で、弦楽四重奏曲全15曲を演奏し話題を呼んだ。2012年6月、2014年5月に日本コロムビアからリリースした全曲荒井英治編曲のプログレッシヴ・ロックアルバム《21世紀の精神正常者たち》《原子心母の危機》が爆発的な反響を呼んでいる。
モルゴーア・クァルテット・メンバーとして1998年1月、第10回“村松賞”、2011年5月、2010年度「アリオン賞」受賞。ヴィオラ演奏の他、多数のオーケストラのトレーナーをつとめ、情熱とユーモアにあふれる指導には定評があり、福島市民オーケストラ(音楽監督)、東京ジュニアオーケストラ・ソサエティ(音楽監督)、光が丘管弦楽団などの公演を指揮している。