Text by NHK交響楽団&モルゴーア・クァルテットヴィオラ奏者 小野富士
この文章を書こうと思ったのは2013年夏の偶然からだ。
その年の秋からチェコ国立オペラでヴァイオリン奏者として働き出すという、N女史と友人を介して出会った。彼女がスメタナ・クァルテットの第1ヴァイオリン奏者だったイルジ・ノヴァーク氏のご令嬢と親しく、その彼女がスメタナ・クァルテットの情報を求めていると聞き、何かの形でお手伝いをしたくなり、半ば「押しかけ」的に書くことにしたのだ。
初めに断っておくと、私はプロフェッショナルな音楽家としてヴィオラを弾いて(2014年10月現在)33年になるが、それ以前を含めて(サインをもらいに行ったことはあるけれど)スメタナ・クァルテット・メンバーの誰とも話をしたこともないし、指導を仰いだこともない。「スメタナ」のメンバーにとって、私はたくさんの感動している聴衆の中の一人でしかなかった。さて、これからいくつかの目次に沿ってスメタナ・クァルテットへの感謝を込めながら書いてみることにする。
1)私のプロフィール
私は、2011年3月11日の大震災以来世界中に有名になってしまった「福島県福島市」に1955年に生まれた。
父は県庁で働く地方公務員だったが、自分が学生時代ほんの少しヴァイオリンが弾けたことで道を外れずにすんだ経験から、言わば「息子が不良にならないために」3歳から私にヴァイオリンを習わせた。
ヴァイオリンの練習はあまり楽しいものではなかったが、小学校4年(10歳)の頃、福島市にあったジュニアオーケストラに入団したのをきっかけに、ヴァイオリンを通して合奏する楽しさを知り、私は音楽好きになってしまった。 中学校には、「器楽クラブ」というオーケストラがあった!
そこはメンバーのほとんどが中学に入って(13歳)から楽器を始めるのだが、私は(全くのアマチュアだったが)既に10年のキャリアを持っていたので、とても目立つ生徒だった。
そのオーケストラを放課後に教えに来ていた当時高校2年生で既に音楽への道を歩もうとしていた先輩Sの目にとまり、中学入学から2年間ぐらいは、毎週日曜日の昼頃に「楽器(ヴァイオリン)を持って遊びに来い」と電話が入り、昼食後Sの家に行った。 S(チェロとヴィオラ担当)の家に行くと彼と同い年のヴァイオリンKと、Sの弟Y(チェロとヴィオラ担当)、Yと同い年の彼らの従兄弟のチェロJがいた。
皆、同じ中学のオーケストラ繋がりでYとJはまだ中学3年生で「器楽クラブ」で弾いていた。
福島市から見ると一番近い大都会は宮城県仙台市だ。
当時高校2年生だったSは時間と金ができると仙台市にある楽譜屋(YAMAHA)に行っては弦楽四重奏曲集を買ってきて、それの音を出す要員として私は呼ばれたのだ。
毎週13:00頃から18:00頃まで(休憩はしたが)弦楽四重奏の「初見大会」が続いた。
「初見大会」とは読んで字のごとく初めて見る楽譜で演奏し、その曲の音を楽しんでいく時間だ。
メンバー5人のうちチェロは交代で休めるが、ヴァイオリンは2人しかいないので、第1と第2を交代で弾き続けなければならない。
しかし、これは面白かった。
そして自分も音楽家になりたくなり、音楽大学附属高校への志願を父に相談したが、あっさり断られてしまった。 父は厳しい人間ではないが、第二次世界大戦敗戦の混乱の中で本来希望していた理科系の技術屋になれなかったこともあり、長男である私を理科系に進ませたかったようだ。
その後私は父の意向に沿い高校では理科系コースで勉強して東海大学電気工学科に入学し、入学当初は結構一生懸命勉強したが、2年生になって実験が始まった時に大きな壁にぶつかった。
同級生たちは実験が始まると目前にある電気回路に興味津々で、いろいろ試してみたくなる。その様子を目の当たりに見て、そういった興味が全くわかない自分は、この先電気工学を続けていけるのだろうか?という迷いだった。
その答えは意外に簡単に出た。
当時、東海大学のオーケストラを指導に来ていた、東京都交響楽団のヴィオラ奏者K先生(父と同い年だった)に音楽家になれるかどうかを聞いたところ「ヴィオラだったら(当時20歳だった私でも)間に合うかも知れない」と言われ、父に「勘当されても音楽家になりたい」と手紙を書いた。
父からの返事は「東海大学卒業までの2年間は音楽大学を受験することを含めてサポートをするから、せっかく入った東海大学は卒業すること。
音楽大学の入学試験に合格したら、その先の金銭的サポートについて検討するが、そこで不合格だった場合は、その先のことは自分一人で考えて行け」というものだった。
運良く東海大学卒業と同時に東京芸術大学ヴィオラ科に入学した。
卒業と同時に1981年東京フィルハーモニー交響楽団に入団し1985年12月まで在団。
1987年から今日までNHK 交響楽団に在籍。1992年にはMorgaua Quartet結成に参画。
というのが私の大まかなプロフィールだ。
小野 富士 Hisashi ONO
1981年、東京芸術大学音楽学部器楽科ヴィオラ専攻卒業。
東京フィルハーモニー交響楽団副首席ヴィオラ奏者を経て、1987年10月から2015年2月までNHK交響楽団次席ヴィオラ奏者。1992年、“モルゴーア・クァルテット”結成に参画。2006年9月、第一生命ホールで「モルゴーア・クァルテット・ショスタコーヴィチ生誕100年記念演奏会」を開催。ショスタコーヴィチの誕生日9月25日を挟んだわずか3日間で、弦楽四重奏曲全15曲を演奏し話題を呼んだ。2012年6月、2014年5月に日本コロムビアからリリースした全曲荒井英治編曲のプログレッシヴ・ロックアルバム《21世紀の精神正常者たち》《原子心母の危機》が爆発的な反響を呼んでいる。
モルゴーア・クァルテット・メンバーとして1998年1月、第10回“村松賞”、2011年5月、2010年度「アリオン賞」受賞。ヴィオラ演奏の他、多数のオーケストラのトレーナーをつとめ、情熱とユーモアにあふれる指導には定評があり、福島市民オーケストラ(音楽監督)、東京ジュニアオーケストラ・ソサエティ(音楽監督)、光が丘管弦楽団などの公演を指揮している。